中編 追手
弾丸の軌道上で空間が揺らぐ。魔女としての知識を参照するまでもなく、それが魔法による防壁なのだと理解できた。狩られる側になると、こうも時間は遅く感じるものか。追跡者の手前で弾丸が青い火花となって砕け消える様をはっきりと視認し、マァギタは荒い呼吸の合間に特大の舌打ちを挟み込んだ。
防壁が消える。揺らぎが無くなり追跡者の姿が再び鮮明になる。白い肌に、右目を隠す黒い眼帯。農村のはずれで猟師を追うには不似合いな燕尾服。向けられたままの銃口を見て不敵な笑みを浮かべる彼――あるいは彼女――は、幼さを差し引いても酷く中性的だ。
「こんなババアを捕まえてお姉さん呼ばわりとは、随分となめたガキじゃないか。ナンパごっこならおうちのベッドでママにでもやってな」
咄嗟の悪態。次の手を考えるための時間稼ぎ。まるで耳に入っていないかのように歩み寄る追跡者には、そんな浅はかな考えは読まれている。
「ねえ、どこに行くの、おねーさん」
「村のゾンビどもはアンタの仕業かい」
「先に質問をしたのはボクなんだけどな。挨拶もなしに攻撃を仕掛けてきておいて、その上自分の質問を優先させようだなんて非礼が過ぎるんじゃないの?」
冷たく言い放ちながらも、小さな口元は何が可笑しいのか笑みを浮かべていた。何ごとかを言い返そうとしたマァギタの脚は口の代わりに動き、後退した。
至近距離の銃弾を弾いた魔法防壁。脇目も振らず走っていたはずの耳元で、息も切らさず語りかけ続けた移動術。今以て余裕を見せる異質な立ち姿。尋常の者でないことは明らかだった。
マァギタの脚が二歩目の後退を見せると、美しいブロンドの髪を後ろで束ねた子供は声もなく小さな肩を揺らした。
「行先なんて無いから答えようがないだけさ。村じゅうがアンタのけしかけたゾンビどもで溢れかえっていたから、一目散に逃げていたんじゃないか」
嘘を交えながらも、マァギタの口が動いたのはプレッシャーに負けたからに他ならない。美しく整った口角は凶悪で嗜虐的な表情を見せ、「ふうん」と嘲りを含む声を漏らした。
「ボクがゾンビどもをけしかけた、だって?」
「違うって言うのかい」
値踏みするようにマァギタをにやにやと眺めた後、華奢なシルエットは唐突に背を向けて、後ろ姿で「違うよ」と笑い混じりに言った。
「あんな悪趣味で足手まといなモノ、ボクは使わないよ。むしろ、あんなモノを使っていると思われるだなんて心外で、ちょっと腹が立つね」
散歩のような気楽な足取りで揺れる背中には、しかし銃弾を撃ち込む隙さえ見つからない。貴族の子息が森で迷子になっているかのような絵面でありながら、マァギタはその無防備な姿からほんの僅かでさえ視線を外すことができなかった。
「でも、考えてみれば、犯人の姿を見ていない人がそう思うのも無理はないか」
白磁のような頬が振り返る。猟銃を構える腕に力が籠る。
「ボクは、その犯人に頼まれごとをしているのさ。村から一人も逃がすなって」
凶悪な笑顔が目に入り、銃が鳴き、老いた猟師の身体が地に跳ねた。
視界が赤く染まる。痛みはない。まだない。
「手心を加えるのは苦手なんだ。だけどまだ死なないよね、この程度じゃあ」
草を踏み折る音が近づいてくる。軽く、小さく、それでいて子供らしからぬゆっくりと落ち着いた足音。重々しく立ち上がったマァギタは目を擦り、それでも赤いままの世界に迫り来る脅威を見た。
赤く濁っていてもはっきりと分かる、金の髪、白い肌、黒い服。年端も行かぬでろあう美麗な姿。細く繊細で儚げな両手の指に得物は握られておらず、そのか細いシルエットは何かしらの武器を隠しているふうでもない。
――丸腰の子供にフッ飛ばされたってことかい。
びりびりと主張をし始める全身の痛みの中で、状況を整理する。髪留めに使っていたくすんだ色のビーズが今や林道に散乱し、衝撃の強さを物語っている。猟銃は今の攻撃を受けた際に取り落してしまい、どこに行ったのかすら把握できていない。仮にそれが未だ手元にあったとして、有効な戦力にはなり得まいが。
立ち上がり、戦意を失わずにいる猟師の姿に、礼装の子供は嬉しそうに目を細めた。
「まだ元気そうで安心したよ。殺しでもしたらスフマートの機嫌が悪くなるからね」
「スフマート?」
「ゾンビを村に放った犯人のことさ。殺さず、逃がすなっていうのが彼の要望なんだ」
「殺さずっていうのは有り難いけどね、あいにくと、こちとらこの老体だ。次に何かもらったら、きっと死んじまうよ」
絶え絶えの息で、それでも絶えない軽口。それは弱みを隠すためで、幼い頃から染みついたマァギタ一流の処世術であった。それでいて、このような窮地でも拭い去ることのできない染みついた所作であったことに、内心で苦笑した。
懐に手を入れる。何かを企んでいるのに違いないあからさまな行動であることはマァギタ自身も自覚していたが、力量差から来る余裕故か、歩み寄る子供の真っ直ぐな瞳は、むしろそれを見守るかのようですらある。
「安心してよ、お姉さん。頼まれはしたけど、あの陰気な屍術師野郎の言うことを無理に守ってやる義理もないんだ。そうやってあくまでも抵抗を続ける意思を見せてくれるのなら、それが言い訳にもなるしね」
宝石のような隻眼が、嗜虐的に歪む。
「さあ、鉄砲をなくして、今度は何が出て来るんだい。その手に握っている物を、早く見せてよ」
「何も――出てきやしないよ」
手を伸ばしてもまだわずかに届かない距離で、黒い服の子供は立ち止まった。余裕を見せながらも、警戒を完全に解いたわけではないということだ。
裏を返せば、それで警戒をしているつもりだ、ということになる。
マァギタにとって、それは、その位置は、好都合だった。
逃げ腰を装い、一歩下がる。同時に、懐に隠した指先に力を籠める。
「仕掛けは、アンタが済ませてくれたんだからさ」
丸薬の潰れる感触。瞬間、溢れ広がる冷気。マァギタ手製の氷魔法の罠である。
「足元の警戒がお留守だったねぇ、ボウヤ」
「ボウヤなんて呼ぶな! ボクは――」
「おや、お嬢ちゃんだったかい?」
したり顔を向けられて、胸から下を氷漬けにされた子供はヒステリックに、声にならない高音で吠えた。
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