後編 伝説には残らない

 来た時よりも身軽な動きで猟師の背中が洞窟の出口へ消えていくのを見届けた後、僕は気疲れのせいか、湿った足元にそのまま尻を着いていた。

「おっかねぇ人だったな」

 恐る恐る、といった感じで声をかけてくるグレイプ。まだ僕のことも警戒しているらしい。

「ああ、おばさんは昔からキツい人でね。小さい頃はよく叱られたものさ。それと――」

 僕が少し身をよじって彼らの方を向くのを、グレイプは妹の近くから離れることなく、目で追っているようだった。

「さっきは、悪かったよ」

「さっき?」

「最初にきみと出会った時さ。最初から疑ってかかって、敵だって決めつけてた」

 虚をつかれたように、グレイプのぎょろ目が丸くなる。そしてすぐに、彼はばつが悪そうに顔を背けた。

「それは仕方がねぇよ。俺だって喧嘩腰だったし、あの猟師が言うように侵入者なのは間違いねぇ。それに、ニンゲンはゴブリンが嫌いだろう。オレたちゴブリンだって――」

 ニンゲンが嫌いだ。ぼそりと、グレイプは小さな声で付け加えた。

「でも、ありがとうよ。勇者からも、猟師からも、庇ってくれて」

「あの偽勇者から庇ったつもりはないよ。それを言うなら、僕の方こそ、あそこで加勢してくれなければどうなっていたことか……」

 ふと目をやると、さっきの騒動で目を覚ましていたのだろうか、グレイプの妹が横になったままこちらの様子を伺っているのと目が合った。異種族であるせいか、あるいは兄妹だからなのか、二人の顔は大きさが違うだけでほとんど同じように見える。

 僕の視線で気づいたらしく、グレイプも彼女の方へ振り向いて声色を変えた。

「すまねぇ。起こしちまったよな。このニンゲンはワキヤって言って……えっと、まあ、悪い奴じゃあねぇさ。怖がる必要はねぇよ」

 妹を安心させるための方便なのか、それとも本心からそう言ってくれているのかは判らないまでも、悪い奴ではないという評価には若干のこそばゆさと、罪悪感に近い息苦しさとを感じる。

「ああ、ワキヤにも紹介するよ。こいつがオレの妹で、リンゴっていうんだ」

 唐突にお互いのことを紹介されてしまい、おそらくリンゴの方も僕と同じで困惑している様子だった。僕がどうにか「こんにちは」と酷くぎこちない挨拶をひねり出すと、リンゴは怪訝そうに瞬きをした後、ぴくりと震えて顔を顰めた。

 見た感じでは分からないけれど、怪我をしているのだったか。

「そういえば、妹さんの怪我は大丈夫なのかい」

「ああ、どうなんだ、リンゴ」

 グレイプに問いかけられて、リンゴは兄と僕とを何度か見比べた後、口を開いた。

「脚を捻挫していたのですが、かなり良くなりました。腕の火傷が、まだ痛みます」

 ゴブリンという種族に抱いていた粗暴なイメージとはかけ離れた、弱く、小さく、落ち着いた声だった。少ししゃがれてはいるものの、人間の少女が発する声とそう大差はないように感じる。

 言われてから彼女の姿を見てみると、二の腕に黒く爛れた箇所があるのが分かる。肌の色どころか皮膚の分厚さ、もしかすると血の色までもが違うせいで気づかなかったけれど、火傷というのはそれだろう。

「僕はあまり詳しくはないんだけど、薬草を採りに行くんだったら手伝うよ」

「本当か?」

「おばさんには待ってろって言われたけど、ここにいたってやることも無いしね。今の僕にできることと言ったら、それぐらいかと思って」

 グレイプが嬉々とした表情になるのを見とめた後、僕はなんだかむず痒いような気持ちで立ち上がる。

 リンゴの火傷をどうにかしてやらないとな、という思いはもちろんあった。だけどそれと同時に、ゴブリンの兄妹と同じ空間にいて、手持ち無沙汰になるのが嫌だったという思いも間違いなく存在していた。

「すぐに戻って来るからな。待ってろよ、リンゴ!」

 幼いゴブリンに見送られながら、僕らは洞窟を後にした。

 昔、この光差す洞窟で、レイヴと持ち込んでは擦り切れるほど読みふけった英雄譚を思い出す。困っている人を助けるために薬草を探しに行くというのは、勇者伝説の序盤にありふれた、地味で、それでいて彼らの優しさを感じさせてくれる一節でもあった。

 レイヴ。

 きみもきっと、旅の途中で、こうして人助けをしているのだろう。

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