憧れの端

前編 憧れ

 昼過ぎの強い日差しが降り注ぐ中、耕作地側とは違って木陰の多くなる森林側の道は、心の高鳴るような懐かしさも相まって心地が良い。畑仕事にひと段落をつけた後にも関わらず、僕の脚は疲れを覚えるどころか軽快にその歩を進めていた。

 アルトチューリは小山の麓に位置する村だ。

 裏山や林を仕事場にする村民にとってはそれこそ庭のようなものなのかも知れないけれど、村の大多数を占める僕のような農民たちにとって、山の方へ足を運ぶことはある種の非日常であった。大きな危険があるわけではないものの、かと言ってそこへ行く用すらもないのだ。

 だからこそ、村の子供が度胸試しに足を延ばすのにはうってつけの場所でもあった。居住区の裏に回り、柵を超えて、雑木林を横切って――その先に待ち構えるものは、いつでも、どんなものでも新鮮に感じたものだ。

 レイヴと見つけたあの洞窟は、そんな中でも特にお気に入りの場所だった。他の多くの場所が山側で仕事をする村民の道具置き場などになっていた中で、あの洞窟だけは人工物の気配が感じられなかったからである。

 あの場所を見つけてからしばらくの間は、そこを自分たちだけのキャンプ地とするべく、食料やら書物やらを持ち込んで何度となく通い詰めたものだったけれど――こうしてまた、木陰の道を歩くのは何年ぶりだろう。

 根元の抉れた切り株を見つけて、自然と早足になる。内側の苔生した亡骸には、洞窟を目指すとき、いつも目印にしていた大きなうろ穴の枯れ木の面影があった。

 ここまで来れば、あと一息だ。

 村の外縁に位置するとはいえ、子供の脚と好奇心とで行き着くことのできる場所だ。幼い頃にはそれこそ冒険であった道のりも、長じてみれば気晴らしの散歩道でしかない。作業道を外れて切り株を左に曲がり、鬱蒼とした中へ踏み入ると、すぐに大岩の姿を見つけることができた。下部が土に埋まったあの岩の後ろで、僕らの洞窟はいつもぽっかりと口を開けているのだった。

 むせ返りそうになるほどの、激しい懐かしさが込み上げてくる。

「おい!」

 何者かの威嚇が唐突に木々を震わせ、膨らみつつあった懐旧を掻き消した。旅芸人や吟遊詩人が役を作って出すようなしゃがれた声。野犬の唸り声のようですらあるそれは、しかし確かに人語の響きを持っていた。

「おい、そこのオマエ。見ているだろう、オレを!」

 ぼろ布を纏った矮躯が岩陰で身をよじり、僕はそこで初めて声の主に気がついた。ぎょろりと狂暴そうに見開かれた黄ばんだ眼に、人間離れした大きく尖った鼻。草陰の保護色になっていた深緑の肌は、ごつごつとして苔生した岩のようである。

「ゴブリン?!」

 実際に目にすることは初めてだったけれど、いつか、商人の見せてくれた絵画にその姿を見たことがある。多くの英雄譚の中で民草の生活を脅かし、勇者の前に立ち塞がっては蹴散らされる――そういう役回りの存在だ。

「見りゃあ分かるだろうが。それで、オマエは何しに来やがった?」

「それはこっちのセリフだ。もしも僕らの村を襲おうって言うのなら――」

「うるせぇよ。オレたちの住み家を荒らしてんのはニンゲンの方だろうが」

 啖呵を切って、ゴブリンが岩陰から前進する。細いながらも筋肉質な四肢の先には、身体のサイズに比すればいささか大きく骨ばった手足が備わっていた。

 多くの場合、ゴブリンという種族は勇者たちにとって大きな脅威であるという風には描かれていない。だけど僕の戦ったことがある相手と言えば、英雄譚には名前すら出てこないピグミーグラスドラゴンぐらいのもの。伝説の勇者にとって弱い相手が、自分のような農民にとってもそうであると考えられるほど思い上がってはいないつもりだ。

「たっ、戦おうって言うのか」

「そんなモン、オマエの出方次第だよ。オレは戦わずに殺される腑抜けじゃあねぇんだ」

「僕に敵意はない。だいたい、こっちが気づいてもいないのに、君の方から声をかけてきたんだ。見ているだろうって、まずはそこから誤解だよ」

 ゴブリンは何か難しいことを考えるように顔を顰めると、ずかずかと進めていたがに股を止めた。

「だったら、なおさら、何しに来た」

「散歩だよ。ただの息抜きさ。ここは僕らの、人間の村で、だから、ゴブリンに何しに来ただなんて言われる筋合いはない」

 ゴブリンとの距離は、大股で五歩といったところ。半歩下がりつつ、軽く構えをとった。ゴブリンの脚力がどの程度なのかは分からないけれど、この間合いならば相手が急に飛び掛かって来ても初撃を受け流すことぐらいはできるだろう。

「こっ、今度は、僕の質問に答えてもらう」

 脚をじりじりと後退させながら、声を張り上げる。近くで村人が仕事でもしていないかという淡い期待があった。

 見たところ、このゴブリンは丸腰で、構えをとってすらいない。主な攻撃手段が素手であるならば、噛みつかれないだけピグミーグラスドラゴンより戦いやすくすらあるのではないか。

「ゴブリンがこんな所で何をしているんだ。僕らの村を襲いに来たのか」

「ちげぇよ。逃げてきたんだよ、勇者とか名乗る奴からな!」

「勇者だって?」

 レイヴのことか、と言いそうになって飲み込んだ。国中に知らされた情報であるとは言え、うかつにレイヴの名前を出して勇者の知り合いだと気取られるのは避けたかった。

「なんで勇者から逃げる必要があるんだ」

「追って来るからに決まってんだろうが! オマエとお喋りしてる間にも――もういい、どきなっ!」

 弾かれるようにして、ゴブリンが踏み込んでくる。異種族ながら、その険しい表情からは切羽詰まっているのが分かった。突然だったとは言え、ゴブリンの動きは予想していたよりも幾分か遅い。攻撃とも逃走ともつかない無鉄砲な突進を、型の練習通りの簡単な動きで軽く受け流す。

 ぶげえ、と呻いて転倒したゴブリンは、やりやがったなあ、と吠えながらすぐに立ち上がった。

 心臓の高鳴りが耳の奥を震わせる。

 目眩がするほどの高揚は、もしかすると初めて体験する激しさで、しかしその根本にあるものを僕は理解できていた。

 喜びか、これは。

 今にも襲い掛からんとする鼻息荒いゴブリンに、僕は早くも勝ちを確信していた。今、受け流したその感触だけで分かる。この人外は、害獣である大トカゲよりも弱い。

 僕の力は、勇者の戦う相手にだって通用するものだったのだ。

「やろうってんだな、ニンゲン!」

「そっちからかかって来たんじゃないか。戦うつもりだって言うのなら、手加減するつもりはないよ」

 ようやく構えらしきものをとったゴブリンに、それでもこちらからじりじりと距離を詰めていく。頭一つ分は小さな相手。武器を持っているわけでもないので、大したリーチは無いだろう。

 僕が自分の間合いを作っていくにつれ、ゴブリンが及び腰になっていくのが分かる。

「逃げたって良いんだぞ。村を襲う気が無いのなら、僕にはきみを斃す理由がない」

 言いながら、僕はこのゴブリンが襲い掛かってくることを期待する自分がいることを自覚していた。

 それなのに僕がそう言ったのは、避けられる戦いを避けようとする、そういう理性的で良識のある自分を演出するため――自分への言い訳だった。

 勇者になりたいわけじゃない。勇者に並ぼうという自惚れなんか無い。だけど、ゴブリンという勇者伝説にしばしば登場する敵を、自分にも打ち負かすことができるのならば、それで胸が躍らないと言ってしまうのは嘘だ。

「さっきも言ったが、オマエらの村を襲う気なんてねぇよ!」

 僕の期待に反して、ゴブリンがそう叫んだ刹那、

 その逃げ腰な矮躯は、悲鳴を上げることもなく吹き飛んだ。

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