後編 秘密の夜話

「私ね、勇者募集のお触れがあったとき、怖かったんだ」

 ジーナがぽつりとそうこぼしたのは、麦畑の前を歩いているときだった。居住区からさして離れてもいないこの場所は、陽が落ちると穂波の揺れる音や虫の声で居住区よりも騒がしい。

 そんな場所だから、二人で他愛のない話をするのには、石畳の上よりも気楽なのだった。

「怖かった?」

「うん。レイヴとワキヤが、王都に行って、本当に勇者になっちゃうんじゃないかって」

「僕が?」

 驚いたふりをした。

 ジーナの言葉は思いがけないものではあったけれど、彼女にそう思われていたということ自体は、考えるまでもなく合点の行くものだった。

 勇者に憧れるレイヴと一番仲が良くて、実力にも大きな差のない若者。村の多くが僕のことをどう見ているのかはこの三日間の中でも改めて自覚することができていたし、だとすればそんな僕の姿をいつも近くで見ていたジーナが、僕とレイヴのことを一括りに勇者志望だと思い込んでいたというのも無理のない話だ。

「まるで、勇者になって欲しくなかったみたいな言い方だ」

 ランタンに照らされた横顔をはっとさせ、気まずそうにジーナが歩を止める。

「勇者なんて、村の警備よりも危険だろうし、それに……そんな大層な人間になっちゃったら、きっともう、昔みたいには遊べないから」

「そんなことはないさ。レイヴが世界を守って、僕やジーナが村を守って……そうしていればいつかまた、子供だった頃みたいに笑いあえるさ」

 ジーナを交えて勇者ごっこや冒険ごっこに興じたのは、いつが最後だったのだろう。隣で立ち止まる僕を見て、ジーナがはにかんだ。

「ほんと、優しいなあ、ワキヤは」

「え?」

「分かってるよ。レイヴが勇者にならなくても、ワキヤが村を出なくても、誰だっていつか、子供みたいには遊ばなくなる。ここ何年かだって、もうそんな風には遊んでなかったんだもん」

 錆色の髪が翻り、ガウンコートが背を向ける。麦穂が騒いで、僕の胸はひときわ大きく跳ね上がった。

「みんないつの間にか大人になって、何かになって――レイヴはそれが、勇者だったってだけ。もうとっくに私たちだって子供じゃないのに、レイヴが勇者になるまではそれに気づいてなかったっていう、それだけ」

「ジーナ……」

 訥々と続ける後ろ姿に、かける言葉は見つからなかった。

 ただただ、僕は、安易に吐き出した詭弁を恥じた。詭弁を見透かしていた幼馴染の姿に、いつも見ていたはずの子供じみた少女を見失っていた。

「でもね、だから、嬉しいんだ。昔からずっと、ワキヤは変わらずいてくれて。優しいワキヤでいてくれて。レイヴの誘いも断って、村に残ってくれて。今も、こうして励ましてくれて」

 振り返るジーナから、目を逸らすことができなかった。直視できる自信もないのに、ランタンの明かりにきらめく長い睫毛に、薄い唇に、僕の目は釘付けにされているようだ。

「僕が――」

 耐えきれず、口だけが動く。

「僕が残ったのは、そんな、優しいとかじゃなくて――」

 ジーナには、いつも意地悪な言葉をかけているつもりだった。些細なことでからかって、追いかけられたりむくれさせたりするのが、僕とジーナとの関係であるはずだった。ジーナにとっては、違ったのだろうか。

「どのみち、僕は勇者になんてなれっこなかったよ。勇者の仲間だって荷が重い。そんな大層な人間じゃあないんだ」

「ありがとう。一緒にトボトボ歩いてくれて」

 有無を言わせない感謝の前に、きらめく笑顔の前に、浅はかな自虐は無力だった。

 居住区に向けて歩き出すジーナを、僕は何も言わずに追いかけた。心なしか足早な彼女のペースは、僕の歩幅にはちょうど良くて、そのせいか、いつもの僕ららしからぬ帰路であるにも関わらず、居心地の悪さはなかった。

 家の前まで送り届けると、明かりの目立たなくなったランタンと一緒にジーナは振り返る。いたずらっぽさを感じさせるその顔は見知った彼女のもので、僕は高鳴りかけた胸を内心でなで下ろした。

「私、レイヴに告白されたこと、あるんだ」

「えっ?」

 まるで、何でもないことのように。

「断っちゃったけどね。暑苦しくて、向こう見ずで、危なっかしくて……そういうの苦手だから。あの時オーケーしてれば、今頃は勇者様の恋人だったのかなー、なんて」

 もったいないことしたなぁ、と冗談っぽく言って、ジーナはわざとらしく笑い声をあげた。

 僕の頭の中は真っ白になってしまって、

「じゃあ、また明日ね」

「ジーナ!」

 そそくさと立ち去ろうとする背中を呼び止めるのが精いっぱいで、

 立ち止まった彼女に、手を伸ばせば触れることのできる距離の幼馴染に、

「じゃあ、また」

 世界で一番つまらない挨拶をした。

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