中編 偽りの者

 一瞬で姿を消したようにすら思った。吹き飛んだと理解できたのは、大木に叩きつけられたゴブリンが鈍い音を発したからだ。昂った気持ちのやり場を失ったせいか、あるいは突然の出来事に恐怖を感じたためか、ゴブリンの身体が力なく幹からずり落ちるのを見て、僕は悲鳴とも雄たけびともつかない声を上げた。

「大丈夫だった? 村人さん」

 どこか、嘲りを含んだような声。見ると、さっきまでゴブリンが立っていたはずの場所で、緑がかった軽装の鎧に身を包む女が微笑んでいる。

「あ、い、いまのは」

「森の中に逃げ込まれたときは、面倒なことになったなーなんて思ったけど……あんな大声出してちゃ、見つけてくれって言ってるようなもんだよねえ」

 こちらの質問には答えず、女は倒れたゴブリンに目を向ける。

「さてと、あとはもう一匹いるはずだけど――村人さん、他にゴブリン見てない?」

 冷たい目を向けられて、僕は黙って首を振った。

「そっか。じゃあ、死にかけのゴブリンくんにでも聞くかぁ。威力低めの攻撃しといて正解だったな」

 もはやいち村人になど欠片も興味がないといった様子で、女は抜き身の剣を携えてゆっくりとゴブリンに向かっていく。呆然と立ち尽くす僕のすぐ脇を通り過ぎた彼女は、長い金髪をなびかせて、その冷たさとは対照的な、柔らかい香草の香りを残していった。

「あ――、あの!」

 必死に呼びかける農民を、長い睫毛が振り向いて一瞥する。色素の薄い瞳を持つその騎士は、その顔立ちから異国の風情を感じさせた。

「なに、村人さん。もしかして、ゴブリンの残党、知ってる?」

「いえ、あの、あなたは――」

「ああ」

 女は、何か楽しげなことを思いついたように表情を和らげて、こちらに向き直った。

「アタシは勇者、ウィア・ドルズ。今はゴブリン退治の真っ最中でね、別にお礼は――」

「勇者?」

 予想外の言葉を、思わず復唱する。

「勇者? 本当に?」

「そう。魔王を倒す、勇者」

「勇者は、レイヴのはずだ」

 反射的にそう言ってしまい、僕は慌てて身構えた。彼女が勇者を騙る悪人ならば、逆上して剣を向けてくるかも知れないと思ったからだ。

 しかし彼女は予想に反して、にやにやと楽しげに口元を歪ませる。

「やっぱり知ってたんだ。この村の出身だもんねえ、彼」

 知っていて、勇者を騙ったのか。

 愉しそうな笑顔。口の中に苦く固い唾が溢れる。自分から呼び止めておきながら、僕の脚は震えながら一歩退いた。この女が何者なのかは分からないけれど、好ましい相手ではないこと、そして先ほどのゴブリンよりも圧倒的に強いということははっきりとしている。

「レイヴの仲間――ですか」

「やめてよね。あんな田舎者の仲間だなんて」

「仲間じゃないなら、敵か」

 女の笑顔に、凶悪な色が混ざる。これ以上の詮索が得策ではないことは分かり切っていた。それでも、勇者の輩出を喜び誇りに思ういち村人として、レイヴの親友として、黙っていることなどできるはずもなかった。

「だったら、どうする?」

 愉しげな眼光が、鋭いロングソードの切っ先が、僕のことをぎらりと捉える。

 恐怖はなかった。そこに、殺意や害意などが感じられなかったからだ。

 代わりに、怒りを伴う高揚感が溢れ出す。ウィアと名乗る偽勇者の美しい翠の瞳に、油断という言葉すら生温い、舐め切って蔑むような色が見えたからだ。

「レイヴの敵なら、見逃すわけにはいかない」

「はっ。誰が、誰を見逃すって?」

 女が嗤った。次の瞬間、一気に間合いを詰めた僕の拳が彼女の小手を突き、ロングソードは宙を舞った。

「なっ――!」

「なんだ。レイヴの方がずっと強い」

 驚いた表情が、冷めきったものに変わる。安い挑発に乗るようなタイプではないか。そう判断するかしないかのうちに、僕の身体は地面に転がっていた。

 叩きつけられた背中に激痛が走る。次いで、腹部の抉られたような痛みを思い出す。さっきまで眼前にあったはずの偽勇者の姿が、遠い。

「不意を突いただけで調子に乗るなっての。本当は一般人相手に攻撃なんてしたくなかったんだけど、先に手を出してきたのはアンタだからね。そこで這いつくばって、自分の短気を反省してな」

 吐き捨てるように言って、偽勇者は剣を拾い上げる。彼女の興味が再びゴブリンの方へ向きかけたと同時に、僕は痛む全身を奮い立たせた。

「まさか剣は飾りだったとはね。今のは魔法か」

「へえ、すぐに立ってくるだなんて丈夫だね。死なないように手加減した風魔法じゃあ、物足りなかった?」

「手加減だなんて、痛み入るよ。本物の勇者の友人として、勇者を騙る奴の前に倒れるわけにはいかないんでね」

 魔法の直撃を受けた腹が、未だ焼けるように痛い。強がってはみたものの、もう一度これを食らって立ち上がる自信はなかった。

「だいたい、先に手加減してやったのは僕の方だったじゃないか。不意を突いた一撃で、剣じゃなくて急所を狙ってやっても良かったんだぞ。それこそ、君のさっきの魔法みたいにね。いきなり鳩尾を狙ってくるだなんて、短気なのは君の方か――そうでなければ、ビビってる証拠だね」

 自分でもよく分かっている。ビビっているのは、むしろ僕の方だ。饒舌になるのは、ある種の防衛、時間稼ぎでしかない。

 ウィアが再び剣を構えた。相変わらずの冷めた表情から判断するに、僕の挑発に乗ったわけではないらしい。

「もう一度聞くぞ。君はレイヴの敵なのか」

「ああ、敵だよ」

 ただただ面倒くさそうに、ウィア・ドルズはそう吐き捨てた。剣を構えながら一歩も動かないその姿に、警戒心が騒ぎだす。

「もう一つついでに、田舎者のアンタに教えといてやるよ。魔法を使うからといって、アタシの剣は、飾りじゃない」

 口元に笑みを浮かべたウィアの金髪が躍り、その足元では草が激しく靡き始める。どんな攻撃が来るのかは分からないまでも、風魔法を使って何かをしようとしているらしいことは確かだろう。

 脚が、自然と後ずさった。大股で踏み込んでも十歩分はあろうかという距離が更に遠ざかり、それでも安心感がほんの少しも増すことはない。

「剣に魔法の効果を纏わせて威力を上げる。魔法剣ってやつさ。剣の腕だけならともかく、この技があればストリーブの奴には負けない。受けてみなッ!」

 ウィアが剣を大きく振り上げた刹那、鋭い風の音が森林の中に渦巻き、次いで、ごす、という小さく鈍い音が聞こえた。今にも攻撃を繰り出そうとしていた偽りの勇者はその剣を取り落し、彼女の雄叫びにも似た呻き声が風の音の代わりに響き渡った。

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