46 品評会の朝


「リルジェシカ……。本当に大丈夫なの? ここ二日ほど、ろくに眠っていないでしょう?」


「ごめんなさい、お母様……」


 気遣わしげな母親の声に、リルジェシカは布で丁寧にくるんだ木箱をぎゅっと抱きしめて頭を下げた。


 母やレブト親方の優しさに甘えている自覚はある。二人とも、リルジェシカの様子がおかしいと気づいているのに、話したくないリルジェシカの気持ちを察して、そっとしておいてくれている。


「今日の品評会が終われば、肩の荷も下りるから……」


 嘘だ。この二日間、品評会のことなど頭のどこにもなかった。けれど、心配そうな母親の憂い顔を少しでも晴らしたくて、リルジェシカは無理やり笑みを浮かべてみせる。


「だんな様さえお戻りになっていれば、私も一緒に行ってあげたいのだけれど……」


 リルジェシカの父は秋の収穫の繁忙期で領地に行ったまま、まだ帰ってきていない。リルジェシカが介助についたとしても、足の悪い母に大勢の貴族達が集う品評会は負担だろう。


「大丈夫よ、お母様」


 かぶりを振り、安心させるように片手で母の手を握りしめる。


「王城へは何度も登城しているもの。今日はいつもと少し勝手が違うだけ。品評会が終われば、すぐに帰ってくるから」


「……そうね。あんなに頑張っていたのだもの。きっと、素晴らしい結果が出るに違いないわ」


 リルジェシカの手を握り返した母親が、にこやかな笑みを浮かべる。


「心配しなくても大丈夫よ、リルジェシカ。あなたの靴がどんなに素晴らしいかは、あなたの靴をずっと履き続けてきた私が一番よく知っているもの」


 母はどうやらリルジェシカが浮かない顔をしている原因を品評会に自信がないからだと思っているらしい。


 フェリクスへの恋心を諦めなければと想っているリルジェシカにとっては、誤解されている方が気が楽だ。フェリクスのことを想うだけで、胸の奥がきりに貫かれたようにしくしくと痛み、涙があふれそうになる。


「お母様、励ましてくださってありがとう」


 胸中の痛みを振り切るように笑みを浮かべると、母がふるりとかぶりを振った。


「お礼を言うのは私のほうよ、リルジェシカ。あなたが私のために、足にぴったりの靴を作ってくれたおかげで、手助けが必要なものの、もう一度、社交の場に出られるようになったんだもの。感謝してもしきれないわ」


「お母様……?」


 こんな風に母に面と向かってお礼を言われたのは初めてだ。


 リルジェシカは驚いて目をみはる。


 もともと、リルジェシカが靴作りを始めたのは、他でもない母のためだ。リルジェシカがわがままを言って落馬したせいで、母は足を悪くしたのだから。


「あなたが私の怪我をずっと気にしているのは知っていたわ。でも」


 母親がそっとリルジェシカの髪を撫でる。


「私は足が不自由になったことを後悔なんてしていないのよ。むしろ、喜んでいるの」


「え……っ!?」


 想像もしていなかった母の言葉にほうけた声が洩れる。母が包み込むような柔らかな笑みを浮かべた。


「だってそのおかげで、私の可愛いリルジェシカが、思いやり深くてとっても努力家な自慢の娘だと知れたのだもの。いつも私に素敵な靴を作ってくれて、ありがとう」


「お母様……っ!」


 喜びのあまり、涙があふれそうになる。


「あらあら。これから王城で陛下に拝謁するというのに、泣いてしまったら大変だわ」


 小さい子どもにするように、よしよしと頭を撫でられる。


「あなたが何にそれほど悩んでいるのかはわからないけれど、心配いらないわ。きっと大丈夫。あなたは私達の自慢の娘だもの。もしだんな様がいらっしゃっても、きっと同じことをおっしゃるに違いないわ」


「っ!?」


 母は、本当はどこまで知っているのだろう。本当は、全部お見通しなのかもしれない。


 それでも、問い詰めずに見守っていてくれる優しさが嬉しくて、リルジェシカはぎゅっと母に抱きついた。母が転んだりしないよう、自分のほうへ抱き寄せる。


「お母様、ありがとう……っ! 今日、帰ってきたら、ちゃんとお母様にお話します」


「あらあら。では、いつもよりいいご飯を用意して待っておかなくてはね。お父様には内緒よ?」


 悪戯っぽく微笑んだ母が、もう一度、そっと頭を撫でてくれる。


「気をつけていってらっしゃい。私の大切なリルジェシカ」


「はいっ! 行ってきます!」


 フェリクスのことを想うだけで、泣きたいほどに胸が痛くなる。


 けれど、リルジェシカには大切な父と母がいる。家族がいれば、この胸の痛みだって、いつか忘れられるだろう。


 いまだけは作り笑顔ではない笑みで母に応じ、玄関を出る。


 レブト親方には貸し馬車を使えと言われたが、もったいないので徒歩で行くつもりだ。それに、馬を見ると、嫌でもフェリクスと出かけた時のことを思い出して胸が痛くなってしまう。


「大丈夫……。私には、お母様もお父様もいらっしゃるもの。レブト親方だって。靴作りに打ち込んでいれば、大丈夫……」


 ずきずきとうずき続ける胸の痛みをごまかすように自分に言い聞かせ、ぎゅっと靴の入った木箱を抱きしめる。


 顔をうつむけた拍子に、ひとつに束ねた髪につけた碧いリボンが揺れた。


 フェリクスの瞳と同じ色を見ただけで、ひときわ強く胸がきしむ。


 このリボンを見るのはつらい。けれど、品評会に出るのだからと贈ってくれたフェリクスの気遣いを無駄にはしたくなくて、つけてきた。


 空はリルジェシカの心を映したような曇り空だ。冷たさを増してきた秋の風が、リボンや髪を揺らして過ぎていく。


 フェリクスと一緒に馬に乗っていた時は、もっと強い風になぶられても、寒いどころかあたたかいくらいだったのにと思い出すと、それだけで涙があふれそうになる。


 これから品評会なのに、こんな調子ではいけない。


 フェリクスもきっと結果を気にして品評会に出席しているだろう。間違っても胸の奥に押し込めた想いを悟られないようにしなくては、と唇を噛みしめ、屋敷の外門をくぐる。


 そのまま塀沿いに歩を進めたところで。


「よぉ。ひとりきりとは、ずいぶん不用心じゃねぇか。いつもくっついてるあの番犬はどうした? まあ、いねぇほうがこっちには好都合だが」


「ザックさん……っ!?」


 塀の陰から突然現れたザックの姿に、驚きの声を洩らす。


 同時に、背後からがらがらと馬車が向かってくる音がする。驚愕に動けないでいるリルジェシカの隣で荷馬車が止まったかと思うと、体格のいい男が二人、ほろがかかった荷台から降りてきた。


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