45 靴職人令嬢、不意に気づく


「リルジェシカ嬢!」


 ぐいっ、と力強い腕に後ろから抱き寄せられる。


 振り返るより早く、たたらを踏んだ身体を支えてくれたのが誰なのか、声だけでわかる。


「フェリクス様……?」


 信じられない気持ちで見上げたリルジェシカの視界に映ったのは、荒い息を吐き、刃のように鋭くダブラスを睨みつけるフェリクスの凛々しい面輪だ。


「何もされていないかい?」


「は、はい……っ」


 気遣わしげにリルジェシカを見下ろしたフェリクスの問いに、あわててこくんと頷く。


 抱き寄せられた腕の力強さにほっとしているはずなのに、ぱくぱくと動悸どうきが収まらない。


「よかった」


 ほっ、と息をついたフェリクスが、ふたたびダブラスに険しい視線を向ける。


「ダブラス殿。『元婚約者』のあなたがリルジェシカ嬢にいったい何の御用ですか? もし、ふたたびリルジェシカ嬢を利用する気なら……。わたしも黙ってはいませんよ」


 フェリクスの視線が抜き身の刃のように鋭くなる。気圧けおされたダブラスが、「ひぃっ」と小さく悲鳴を洩らした。


「り、利用とは人聞きの悪い! わ、わたしはただ、マレット男爵家の窮状きゅうじょうを憐れに思ってもう一度……っ」


「もう一度、何でしょうか?」


 ダブラスの声が、フェリクスとは別の礼儀正しくけれども冷ややかな声に遮られる。


「ドルリー……っ!」


 フェリクスが苦々しげに呟くのと同時に、抱き寄せられた腕にぎゅっと力がこもる。


「何だ!? 商人風情が! お前には関係のない話だろう!?」


 ダブラスが歩んでくるドルリーを振り返って怒鳴る。フェリクスとダブラスの不快げな視線などものともせずに、ゆったりとした足取りで歩み寄ったドルリーが、かかとを合わせ、優雅に一礼した。


「皆様、ご機嫌麗しく存じます」


 整った面輪に微笑みを浮かべ、緊迫した場面に似合わぬ挨拶を告げたドルリーがダブラスに視線を向ける。


「関係ならば、おおありでございます。わたしは、リルジェシカ嬢に求婚しているのですから」


 ねぇ? とドルリーが同意を求めるようにリルジェシカに甘やかな笑みを向ける。


「舞台から降りるべきは、婚約者のダブラス様のほうでございましょう? それとも、未練を断つために、リルジェシカ嬢がわたしの求婚を受けられるところをご覧になられたいですか?」


「ふざけるなっ! リルジェシカ嬢がお前などと婚約するわけがないだろうっ!」


 誰よりも早く苛烈かれつに反応したのはフェリクスだ。


 フェリクスの口から飛び出した『婚約』という言葉に、ばくんっ! と心臓がとどろく。


 そうだ。リルジェシカを抱きしめる頼もしい腕も、いたわりに満ちた言葉も、本来は全部、他の令嬢のもので――。


「あ……」


 視界が暗く、狭くなる。

 身体の震えが止まらない。


「リルジェシカ嬢?」


 気遣いに満ちた声に、反射的にフェリクスを見上げる。


 いまにも雨が降り出しそうな曇天どんてんの中、そこだけ陽射しを残したような碧い瞳を見た瞬間。


 ――フェリクスに恋をしているのだと、不意に悟る。


「わ、私……っ」


 なんて愚かなんだろう。


 婚約者がいるフェリクスを好きになってしまうなんて。


 フェリクスはただ、セレシェーヌ殿下に命じられて、リルジェシカを気遣ってくれていただけなのに、それを勘違いしてひとりで舞い上がってしまうなんて。


 いますぐ消えてしまいたいくらい恥ずかしい。


 もがき出ようとすると、ためらいがちにフェリクスの腕がほどかれた。離れてゆくあたたかさに反射的にすがりたくなった衝動を、歯を噛みしめてこらえる。


 勘違いしてはだめだ。この頼もしい腕は、他の令嬢のものであって、決してリルジェシカのものにはならないのだから。


 フェリクスのためにも、こんなに人目のあるところで、誤解を招くようなことをさせてはいけない。


 気を抜くと、涙があふれてしまいそうだ。


 そんなことになれば、またフェリクスに余計な気を遣わせてしまう。


「私……っ! 今日は失礼しますっ!」


「リルジェシカ嬢っ!?」


 叫ぶと同時に、身をひるがえす。

 フェリクスやダブラスの驚いた声が聞こえたが、止まってなどいられない。


 脇目も振らず、王城内を駆け抜け――。


 リルジェシカは門前で待ってくれていた貸し馬車に飛び乗った。


   ◇   ◇   ◇


「おいっ!? リルジェシカ!?」


 工房につくなり、顔を伏せたまま作業室に駆け込んだリルジェシカの背中に、レブト親方のあわてふためいた声が飛んでくる。


 だがリルジェシカは無言で扉を閉めると、親方が開けられないように背中を扉に押しつけた。


 足がえて力が入らず、背中で扉をこするようにして、ずるずるとへたり込む。


「う……っ」


 ようやくひとりきりになれた瞬間、こらえていた涙があふれ出す。


 馬鹿だ。底抜けの愚か者だ。恋心に気づくと同時に、決して叶わないと思い知らされるなんて。


 曲げた膝に額を押しつけ、ぎゅっと両手で足を引き寄せる。


 こぼれる涙と嗚咽おえつが履き古したスカートにしみこんでいくが、どうだっていい。


 リルジェシカの様子がおかしいことは気づいているだろうが、気を遣ってくれているのか、レブト親方が声をかけてくる様子はない。


 その優しさに甘え、涙があふれるのに任せ、ぎゅっと自分で自分を抱きしめる。


 自分で自分の愚かさに呆れてしまう。


 恋心になんて、気づかなければよかった。


 そうすれば、フェリクスの婚約を笑顔で祝福できたのに。


 これから、いったいどんな顔でフェリクスに会えばいいのだろう。いかに優しいフェリクスといえど、リルジェシカなどが分不相応な恋心をいだいていると知れば、呆れ果てるに違いない。


 もう二度と、あの包み込むような笑顔を向けてもらえることがないのかと思うと、また新たな涙があふれてくる。


 ぐすっ、と鼻を鳴らし、すっかり濡れたスカートが張りついた膝頭に額をこすりつけた拍子に、視界の端で碧いきらめきが揺れた。


 涙でにじむ視界をそちらに向ければ、リルジェシカの動きに合わせてひらりと揺れたのはフェリクスから贈られた碧いリボンだ。


 フェリクスの瞳と同じ、綺麗に晴れた空の色。


 まるで、曇天の中、雲間からひとすじ差し込んだ光のようなあざやかな碧色に、リルジェシカはぐすっと鼻をすすり上げ、手の甲で涙をぬぐう。


 のろのろと顔を上げた先にあるのは、木型を並べている棚だ。形が整えられた木型の中で、一組だけ異彩を放つ、まだ粗削りな他より一回り大きな木型。


「依頼、を……」


 ちゃんと果たさなきゃ。


 呟きは呼気にまぎれて最後まで声にならない。


 依頼された靴を最後まで仕上げないなんて、言語道断だ。職人の風上にも置けない。


 それに、まだリボンのお礼だってちゃんとできていない。


 リルジェシカがフェリクスを喜ばせられる手段なんて、靴作りしか思いつけない。フェリクスに想いを告げることができないのならば、せめて……。


 ありったけの想いを込めて、依頼された靴を仕上げよう。


 告げられない想いを一縫いごとに込めて。せめてもの、婚約のお祝いに。


 そうすればきっと……。この胸の苦しさだって、いつかは忘れられる。


「……よしっ」


 気合をこめて立ち上がる。


 フェリクスを想うだけで、胸はきしむように痛むけれど。


 きっと、時間が経てば忘れられる。


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