44 靴職人令嬢、噂を耳にする
品評会の二日前。湿気を含んだ重い風に、王城の外通路を歩いていたリルジェシカは、ひとつに束ねた髪に手をやった。
指先にふれるのは、なめらかな絹の感触だ。それだけで、ふわふわと心が浮き上がる心地がする。
せっかくフェリクスが贈ってくれたものを死蔵してはもったいないと、王城に来る日を選んで碧いリボンをつけてきたが、失敗してしまったかもしれないと後悔する。
見上げた空は、今にも雨が降り出しそうな
雨が降り出してリボンが濡れてしまったら、心底後悔するだろう。レブト親方の助言通り、貸馬車で来て本当によかったと思う。
大切な用事は済ませたし、早く馬車まで戻ろうと足を速めたところで。
「えぇっ! フェリクス様がついに!?」
聞こえてきた高い声に、リルジェシカは思わず耳をそばだてた。
不意打ちで飛び込んできたフェリクスの名前に、意識が吸い寄せられる。
声が聞こえてきたのは、外通路の両側に植えられた茂みの向こうだ。盗み聞きなんてしてはいけないと理性ではわかっているのに、無意識に足がそちらに向く。
そっと覗いた茂みの向こうでは、城勤めのお仕着せを着た三人の侍女が、身を寄せ合って噂話に花を咲かせていた。本人達は声をひそめているつもりかもしれないが、興奮しているせいで声が丸聞こえだ。
「本当にフェリクス様のご婚約が決まったの!?」
侍女のひとりが告げた言葉に、心臓が
「ええ! 帰国されたトリスティン侯爵とオーランド伯爵が話しているのを聞いたんだから間違いないわ! トリスティン侯爵家に婿入りなさるのですって!」
「そんな……っ! 憧れのフェリクス様がついにご結婚なさるなんて……っ!」
「ああっ、私もトリスティン侯爵家に生まれたかった……っ! フェリクス様みたいな美丈夫が婿入りしてくださるなんて、きっとご令嬢達の羨望の的になるわね!」
侍女達が口々に嘆くが、リルジェシカの耳にはろくに入らない。
がんっ、と
フェリクスが侯爵令嬢と婚約するなんて……。
喜ばしいはずなのに、締めつけられたように胸が苦しい。
なぜ、こんなに胸が痛いのか。自分で自分の心がわからない。
リルジェシカの周りにだけ突然冬が訪れたかのように、指先が冷えてゆく。身体の芯まで凍りつきそうな冷たさは、盗み聞きをしてしまった罪悪感のせいなのか。
わからぬまま、ただただこれ以上、侍女達の話を聞きたくなくて、震える足を
視界が暗い。ぎゅっと両手で胸元を押さえていなくては、心臓の痛みで動けなくなってしまいそうだ。
だが、これ以上、侍女達の話を聞く勇気はない。
よろめくように外通路を進んでいると。
「リルジェシカ!」
不意に名前を呼ばれ、びくりとそちらを振り返る。
「ダブラス、様……」
足早にリルジェシカへ歩み寄る元婚約者の名を、リルジェシカはぼんやりと呟いた。
たった半月ほど前に
そもそも、ダブラスが今更リルジェシカに何の用だろうか。
無視して立ち去るわけにもいかず、ぼんやりと歩み寄るダブラスを眺めていると、目の前で立ち止まったダブラスがリルジェシカを見下ろし、
「はんっ、女王陛下のお気に入りになったと聞いたが、相変わらずみすぼらしい格好をしているな。変わったのはリボンくらいか? その程度で身を飾った気になっているとは……。おめでたいな」
「な、何の御用ですか!?」
暴言に、きっとダブラスを睨み上げる。
リルジェシカのことを
反抗的な目つきに、一瞬、意外そうに目を
「喜べ。お前をまた婚約者にしてやる」
「…………え?」
ぽかん、と見上げたリルジェシカの表情をどう読んだのか、ダブラスが笑みを深くした。
「ん? 嬉しすぎて声も出ないか? セレシェーヌ殿下だけでなく、女王陛下にまで取り入るなんて、お前もなかなかやるじゃないか、父上もいっときの感情でもったいないことをしたとお悔やみだ。だから……。もう一度、お前を婚約者に戻してやるよ」
「な……っ!?」
すべての決定権はディプトン子爵家にあると言いたげな物言いに、呆れてとっさに声が出ない。
「お……っ、お断りしますっ!」
ダブラスを睨み上げ、きっぱりと告げる。
もともと、リルジェシカにとっては望んでいた婚約ではなかったのだ。
品評会の件を聞きつけ、女王陛下に取り入るためにもう一度婚約を結ぼうとしているのは火を見るよりも明らかだ。そんな相手ともう一度婚約するなんて、真っ平御免だ。
「何だとっ!?」
まさか、リルジェシカが断るとは夢にも思っていなかったらしい。
驚愕に固まったダブラスの顔が、すぐに朱に染まる。
「正気かっ!? 誰も見向きもしないお前を、このわたしが婚約者にしてやろうと言っているんだぞ!? 相変わらず借金を抱えて困っているんだろう!? それを助けてやろうと言っているんだ!」
「ダブラス様に助けていただこうなんて考えていませんっ! そもそも、婚約していた時にだって、助けてくださったことなんてなかったじゃありませんか!」
ダブラスともう一度婚約するなんて、絶対に嫌だ。
自分でもよくわからない感情がほとばしるままになじると、ただでさえ紅潮していたダブラスの顔が赤黒く染まった。
「貴様……っ!? こちらが
自尊心を傷つけられ、怒りに言葉を詰まらせたダブラスが、掴みかかろうと手を伸ばす。
「っ!?」
息を吞み、身を強張らせた瞬間。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます