36 靴職人令嬢、仕入れに行く
「レブト親方、少し出てこようと思うんですけれど……」
品評会に出品することが決まってから三日。
日中ほぼ引きこもっていた工房から久々に出ようとレブト親方に声をかけると、なぜか難しい顔をされた。
「ん? 昼飯を食いに行くわけじゃねぇんだろ? どうした?」
「小間物屋さんに装飾に使うリボンを見に行きたくて……」
「ああ、なるほどな。けど、もうすぐ客が来る約束があるんだ。ついて行ってやるから、わりぃが少し待って――」
「レブト親方にご迷惑はかけられませんよ! そんなに遠くないですし、ひとりで行ってきますから!」
あわてて首を横に振ったところで、工房の扉が叩かれた。顔をのぞかせたのはフェリクスだ。今日は非番なのか、近衛騎士の制服ではなく平服だ。とはいえ、一目で仕立ての良さがわかる服は、端整な面輪とあいまって、制服の時と変わらずフェリクスの凛々しさを引き立てている。
フェリクスの姿を見たレブト親方がほっとした声を上げた。
「いいところに来たな。おい、リルジェシカの買い物につきあえ」
「ええ、わかりました」
ろくに話も聞かずにフェリクスが即答する。
「いえ、あの……っ」
リルジェシカが割って入ろうとする間にも、親方とフェリクスの話はどんどん勝手に進んでいく。
「あと、なんかうまい昼飯でも食ってこい。こいつときたら、この三日、朝も早くからずっと一心不乱にちくちくやってるからな。屋敷には早めに帰ってるが、どうせ帰ってからも靴を作ってるに決まってる」
「レブト親方っ!? そ、その……っ」
レブト親方の暴露にフェリクスの視線の圧が増した気がして、リルジェシカはあわててぷるぷるとかぶりを振る。
「だ、大丈夫ですよ!? た、確かに朝は早いですけれど、その分、夕方早めに帰ってますし……」
「どうせ、屋敷へ帰ってからも夜遅くまでちくちく縫ってるんだろうが。俺の目をごまかそうなんざ、十年
「う……っ」
見てきたように言われて、言葉に詰まる。
足の悪い母親を家政婦任せにしてばかりではいけないと、早めに帰っているものの、そのあと何をしているか、すっかり見抜かれている。
「で、でもだいじょ……」
大丈夫です、と言おうとすると、きゅっと凛々しい眉を寄せたフェリクスが、無言で足早に歩み寄ってきた。
かと思うと、不意に大きな両手で頬を包まれ、無理やり上を向かされる。
「ふぉあっ!?」
両頬をはさまれているせいで、くぐもった変な声が出る。
「頬が冷たいし、顔色もよくない……。ちゃんと寝ているかい?」
偽りは許さないと言わんばかりに強いまなざしに射貫かれるが、答えるどころではない。
呼気がふれそうなほど間近に迫った端整な面輪に、ぱくりと心臓が跳ねる。
冷たかったはずの頬が、一瞬で燃えるように熱くなる。
「だ、だだだだいじょうぶです……っ!」
恥ずかしさに目を開けていられない。
ぎゅっと目を閉じて答えても、まだフェリクスの手は緩まない。
確かめるように、すり、と指の腹で頬を撫でられ、「うひゃうっ」と変な悲鳴が飛び出す。
「ほ、ほんとに大丈夫ですから……っ!」
恥ずかしさに泣きそうになりながら必死で告げると、ようやくフェリクスの手が離れた。
罠から逃げるうさぎのように数歩飛びのき、壊れそうなくらいばくばく高鳴る胸元を服の上からぎゅっと掴む。そうしないと、口から心臓が飛び出しそうだ。
「……おい。てめぇ、俺の前でいい度胸じゃねぇか」
「ち、違いますよ! いまのは体調の確認で……っ!」
地の底から響くような低い声で告げた親方に、フェリクスがあわてた様子で応じる声が聞こえるが、ろくに耳に入らない。
深呼吸して必死で心臓を落ち着けていると、フェリクスに頭を下げられた。
「すまない、驚かせてしまって……。心配だったものだから、つい……」
「い、いえっ! 私こそすみませんっ! 不甲斐ないせいで……っ」
ふるふるとかぶりを振って謝ると、身を起こしたフェリクスがほっとしたように表情を緩めた。
「では、行こうか。どこへ行きたいんだい?」
「その、装飾のリボンを買いに行きたいんです」
「リボンか……。よし、わかった」
フェリクスがやけにきっぱりと頷く。
「くれぐれも気をつけて行って来いよ。もしリルジェシカに何かあってみろ。前に言った通り、皮を
「レブト親方! なんてことを言うんですか!?」
顔を強張らせたフェリクスを見て、あわててレブト親方を振り返る。冗談にしても過激すぎる。
「わかりました。重々、肝に銘じておきます」
親方の冗談を真に受けたわけではないだろうが、フェリクスが真剣極まりない顔で頷く。
「では、行こうか」
フェリクスに手を引かれて工房の外へ出ると、すぐそばに見覚えのある栗毛の馬がつながれていた。
「あの、フェリクス様。行こうと思っているお店はこの近所で……」
馬に乗っていくほどの距離ではないです、という前に力強い腕に抱き上げられ、馬の背に乗せられる。
「いまリボンを買いに行くということは、女王陛下の靴のためだろう? なら、おすすめの店があるんだ」
軽やかに鞍にまたがったフェリクスが、リルジェシカを腕の中におさめるように手綱を取る。
「きっと、きみが気に入るリボンがあると思うんだが……。よかったら案内させてもらえるかい?」
「で、では、お願いします」
せっかくフェリクスが案内してくれるというのなら、断る理由がない。貧乏男爵のリルジェシカと違って、伯爵家に生まれたフェリクスなら、きっとリルジェシカより遥かに高級品にくわしいだろう。
ひとつ心配があるとすれば、リルジェシカの軍資金で買えるかどうかだが、その時は、全財産を持って、もう一度行くしかない。
そう、覚悟を決めたのだが。
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