16 靴職人令嬢の苦手なもの


「馬が苦手なら、いまからでも馬車を用立てて……」


「だ、大丈夫ですっ!」


 反射的にかぶりを振る。

 馬車なんて用立てたら、その費用で謝礼が飛んでしまう。


「だが……」


 身体に回された大きな手のひらが、気遣わしげに背を撫でる。


「こんなに身を固くして緊張して……」


「そ、その……っ」

 苦みをはらんだ声に、あわあわと口を開く。


 乗馬をたしなむ令嬢は少なくない。マレット家には馬を飼う余裕などないが、何も知らないフェリクスが、リルジェシカも馬が大丈夫だと考えたとしても、罪はない。


「む、昔、子どもの頃にお母様と馬に乗っていて落馬して……っ」


 そうだ。リルジェシカがまだほんの子どもだった頃。あの頃はマレット家もいまほど貧乏ではなかった。


「それで、私を庇ってくださったお母様が下敷きになって、足を……っ」


 話す声がこらえきれずに震えて潤む。


 あの日、リルジェシカが馬に乗ってみたいなんて言わなければ。

 急に動いた馬に怯えて母にしがみついたりしなければ。


 そうすれば、母は片足が不自由にならなかったし、治療費で家が困窮する事態にもならなかった。


 取り返せない過去の傷がうずくのを感じながら、必死に言い募る。


「で、ですからちょっと緊張しているだけで……っ」


 決してフェリクスのせいではないのだと言い募ろうとしたところで、いまもまだしがみついたままだということに気づく。


「す、すみま――っ」


 あわてて身を離そうとしたが、それより早く、逆にぎゅっと強い力で抱き寄せられた。


「すまなかった……っ! 知らなかったとはいえ、そんな経験をしたきみを馬に乗せてしまうなんて……っ!」


 フェリクスが手綱を引いて馬を止める。


「やっぱり馬車にしよう。すぐに我が家に向かって馬車に乗り換えて……」


「だ、大丈夫ですっ!」


 がばりと顔を上げた拍子に、こちらを見下ろすフェリクスと視線がぶつかる。


 予想以上に近くに凛々しい面輪があって、驚きに心臓がぱくりと跳ねた。


「フェリクス様にそんなご迷惑をおかけするわけには……っ!」

 動揺をごまかすように、あわあわと言葉を続ける。


「そ、それに、フェリクス様が一緒なら、落馬なんてしませんでしょう?」


「もちろんだとも! きみをそんな目に遭わせたりするものか」


 間髪入れずにフェリクスが力強く頷く。


「でしたら……、大丈夫です。きっと、乗っているうちに慣れてくると思いますし……」


 心臓は変わらずばくばくと鳴っている。


 きっと、ひとりきりで乗せられていたら、恐慌に陥って落馬していたに違いない。


 だが、フェリクスが一緒に乗って手綱を握ってくれているのだと思うと、恐怖に叫び出したい衝動が、不思議と消えていく。


 身を寄せた広い胸板は頼もしく、フェリクスのたくましい腕の中にいれば絶対に大丈夫だと、言いようのない安心感が湧いてくる。


 昨日、泣いてしまったリルジェシカを慰めるために抱き寄せられた時にも、嫌だなんてまったく思わなかった。髪を撫でてくれる大きな手のひらの優しさに安堵を覚えたほどだ。


「フェリクス様と一緒なら、大丈夫です。ですから、ご迷惑でなければこのまま……」


 じっと碧い瞳を見上げて告げると、形良い唇がかすかにわなないた。思わずと言った様子で何か言いかけたフェリクスが、こらえるように唇を引き結ぶ。


「……本当に、大丈夫かい?」


 ややあって、吐息とともに吐き出されたのは気遣わしげな声だった。確かめるような声音に、こっくりと深く頷く。


「はいっ、大丈夫です」


「では、ゆっくり行こう。何かあったら、すぐに言うんだよ?」

 穏やかに告げたフェリクスが、ゆっくりと馬を進ませる。


「怖かったら、わたしにしがみついているといい」


 フェリクスがリルジェシカを抱き寄せた腕に力をこめる。


「だ、大丈夫ですから……っ」


 放さなければ、フェリクスの服に変なしわをつけてしまう。頭ではわかっているのに、力をこめすぎて固まった指は、服を掴んだままほどけない。


「気にしなくていいよ。きみがしがみついてくれているほうが、わたしも安心だしね。お父上に甘えているとでも思って、頼ってもらえたら嬉しい」


 笑んだ声で言われ、恥ずかしさに頬が熱くなる。


 昨日はとっさに、深く考えずに、「お父様みたいで安心しました」とフェリクスに告げてしまった。リルジェシカにとって、一番身近で安心できる異性と言えば父親かレブト親方しかいないとはいえ、あまりに子どもっぽかったのではないだろうか。


 確かに、穏やかな人柄のフェリクスがそばにいてくれると安心するが……。


 どこか心がくすぐったいような、安心すると同時に逃げ出したくなるような気恥ずかしさは、父親といる時には感じない。


 というか、フェリクスは父親ではないのだから、優しさに甘えすぎるなんてとんでもない。


 呆れられていないだろうかと心配になっておずおずと見上げると、優しいまなざしがリルジェシカを見下ろしていた。


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