三日目の話

 もしかしたら、今はまだ害がないだけで、今後何か良くないことが起こるのではないだろうか。


 電車を降りてから、自宅に着いてから、眠る前、眠っている最中、夢の中で、目が覚めてから。

 時間を空けて何かしらの不吉が訪れないなどという保証が、いったいどこにあるというのだ。


 手との接触を果たしてからというもの、私の中ではそんな不安がぶくぶくと成長し続けていた。


 理由は明白である。


 恐ろしかったのだ。


 紛れもない怪奇現象に遭遇してしまっただけでなく、事もあろうに私は自らそれに近づき、触れてしまったのだ。

 これで恐ろしく思わないなど、どうかしている。


 自分がどうかしているだなんて、考えただけでも恐ろしい。


 だから私は、自分の中で自覚的に不安を育てることにしていた。

 私はあの現象を恐れているのだと、自分に言い聞かせることにしていた。

 そうしなければ、私はどうかしているということになってしまうからだ。


 そして、やはり、私の不安とは裏腹に、私の身の回りは至って平穏なのであった。


 朝の電車に乗っても、昼食時でも、外が薄暗くなってからも。

 普段通りの生活がただの一つの綻びもなく通り過ぎ、だから私は必死になって不安を膨らませ続けていた。


 今日は何も起こらなかった。

 だけど明日には何かが起こるかも分からない。

 いや、まだまだ、今日だって終わっていないのだ。


 初めてホラー映画を観た後の幼い数日間に思い浮かべるような、有りもしなさそうな恐怖の妄想をいくつも遊ばせているうちに、いつもの車両が扉を開けた。


 昂る気持ちを否定しながら、車内で無個性に口を開ける吊り革に視線を這わせる。


 そして私は、酷く安心した。


 身なりの良い、白髪交じりの背の高い男だ。

 今夜は彼が、あの吊り革を掴んでいる。

 近くのシートに座って見上げると、分厚い爪をした浅黒い指の上に、細い手がひっそりと乗りかかっているのが確認できた。


 ああ、よかった。


 もし、彼がいなければ、私はまたあの手の相手をしてしまっていたのに違いない。


 それはおぞましいほどに甘美な想像で、だから私は初老の紳士に感謝し、安堵した。


 扉が閉まり、電車は動き出し、私たちを乗せた光の箱がつまらない夜の風景を後退させていく。


 車内は穏やかである。

 昨日と、一昨日と、それより以前のこの時間帯と、何も変わりがない。

 誰も彼もが各々の手元を見るのに忙しくて気づいていないということなのか、あるいはあれが私にしか認識できないものだということなのか。

 どうあれまだ誰にも、あの異様な姿は知られていないのである。


 今、まさしく触れ合っているはずの男でさえも、窓の外の陳腐な夜景に見入っている様子で、吊り革の手を意に介する素振りすらない。


 ああ、よかった。


 やっぱり、あの手は、まだ私だけのものなのだ。


 手の甲に、冷たい重みが甦る。

 それは言うまでもなく幻で、紛れもない優越感の発露だった。


 私だけが知っているのだ。

 あの手が存在することを。

 温度を、重さを、触れられた感覚を。

 生々しいディティールを。

 だからこそ触れられていない今この時でさえも、昨日の思い出をこうもありありと再現できるのだ。


 それが、この身なりの良い男にはないのである。

 せっかくそこに、自分の手の上に居るというのに、彼はこの奇跡を知ることがなく、したがって思い出にすることもできないのだ。


 なんという不幸だろう。


 かわいそうに。


 不意に芽生える。


 それは、幻を愛でざるを得ない虚しさに手を引かれてやって来た、小さな感情なのだろう。

 何処にあったとも知れない小さな小さな憐憫が知らぬ間に無視のできない位置に居座って、私の中で成長しかけていたらしい男性への嫉妬心を卑小なものとして踏み潰した。


 目が離せない。


 かたんかたんと浮き沈みを繰り返す列車の中で、小刻みに前後する吊り革。

 その上で健気に揺れる色白の手から、目が離せない。


 かわいそうに。


 ずっと一緒に揺られているのに、気づいてもらえないだなんて。


 この男が、ああ、

 この男が私ならば、この短い逢瀬を孤独にはさせないというのに。


 自然と立ち上がりそうになる身体を理性で抑えて、自らの右手を幻に重ねる。

 無意識下での動作ではあったものの、それは感情を刺激する幻を、そっと鎮めるための行動に他ならないのだった。

 心地の良い冷たさは、すぐに私の火照りで塗り戻されてしまった。


 たとえば。


 体格が良いとはいえ、彼は年配者である。

 となると、たとえば私が彼に席を譲ろうとしたらどうだろうか。

 そうすれば彼は私の厚意を受け取って、私に吊り革を譲るのではなかろうか。


 良い案に思われた。

 とてもとても良い案だ。


 しかし、果たしてそれは不自然だと思われやしないだろうか。

 車内を見渡して、今一度考える。

 現状で空席が無いわけでもないのだし、この男は座ろうと思えば誰かに席を譲られるまでもなく座席を確保できるはずなのだ。

 その上で私が席を譲るなどという行動に出たとして、それはありがた迷惑と受け取られやしないだろうか。


 そもそも、彼は私が来るよりも前から吊り革を掴んでいて、その段階では今よりも座席に余裕はあったはずなのだ。

 その上であえて立ち席を選んでいるということは、もしかすると年寄り扱いをされるのを嫌がる人種なのかも知れない。


 だから――


 だから、何だというのだ。

 笑いそうになる。

 呆れて、笑い出してしまいそうになる。

 どうかしていた。

 目的を見失っていた。


 不自然だと思われても、構わないではないか。


 この男がどう思おうがどうだって良いではないか。


 私は、この男のために席を譲ろうとしているわけではない。

 私が、あの吊り革であの手と触れ合うために、邪魔な人物を退けたいだけなのだ。


 幻はもういない。私が消してしまった。

 それなのに感情は刺激され続けていて、もう、それを鎮める術が見つけられなかった。


 揺れる車内で立ち上がる。

 体勢を崩しそうになって、何の興味もない吊り革を掴んだ。

 つるりとしたプラスチックの冷たさが、五指の冷たさを無暗に思い出させる。


 何人かの乗客に見られているのが分かった。

 しかしすぐにそれらの視線は各々の手元へと戻っていった。

 煌々とした車輌の中には鉄道を走る音だけが流れ、私の指の上には空虚が停滞していた。


 全身が震えるようだ。


 こんなに冷たく、孤独なものだったのか。


 気味が悪くなって、思わず吊り革から手を離す。

 手と一緒にいる男性が、羨ましくて仕方がなかった。


 一歩二歩と近づくと彼の意識がこちらに向いたので、親切の顔を貼り付けて、お掛けになりますかと声をかける。

 男性は軟らかい笑みを浮かべ、礼を言い、そして、次の駅で降りるからと私の申し出を断った。


 私の口からは何やらあやふやな言葉がだらだらと零れ落ち、私の脚は芯が抜けたようにぐらぐらと崩れ落ちた。

 重たかった。

 鉛のような孤独が、私を圧し潰さんとしていた。


 視線が集まって、またすぐに戻っていく中、初老の紳士が焦ったような声を出して、不安げな視線をこちらに向けている。


 この人は優しいのだなあ。


 自然と、私の顔には笑みが宿った。

 全身に力が籠るのが分かった。


 私を心配する男の手は吊り革から離れていて、私は男に感謝した。

 急に立ち上がった私が吊り革に手を伸ばすと、男はもう何も言わなかった。


 待ちわびた。

 なんと永い孤独だったろう。


 私の手に重なる重みは昨日と変わらず、私はその懐かしさで漏れ出そうになる嬌声を噛み殺した。


 寂しかったのだろう。

 嬉しいのだろう。

 手は私の手を握るように、ぐっと力を込めたようだった。


 応えてやりたくなって、私はその指にもう片方の手を伸ばした。


 すべすべとした肌の感触。

 微かに圧し返す肉の弾力。

 骨張った関節の山脈。


 手だ。


 手だ。


 手が。


 触れられる手が。

 はっきりと、紛れもなく、ここにある。


 昨日は触れることのできなかった手の上に、私の手が重なっている。


 昨日は透り抜けたのに。

 見えている側からならば、触れることが出来るのか。

 見えている部分だから、触れることが出来たのか。

 理由を考えればきりがなく、仕組みを確かめるのには材料が足りない。


 だけど、理由など、仕組みなど、どうでも良いのだ。


 触れることが出来る。

 それが分かっただけで満足じゃないか。


 重ねていた手を引くと、露わになった透明なマニキュアが複眼のようにこちらを見ているような気がした。


 なんと素晴らしいことだろう。


 私はこの手と掌を重ねることが出来るだけではなく、見つめ合うことすらも可能だというのか。


 降車駅に到着するまでの僅かな間、私は手との声のない語らいを楽しんだ。


 何度か孤独な他人たちの乗り降りが繰り返される中、手と私は永遠に二人きりだった。

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