二日目の話

 確信した。手は、やっぱり無害な存在なのだ。


 そう思うと、爆発しかけていた恐怖心が急激に縮んでいった。

 代わりに思い出されるのは、私の手に乗っていた僅かな重みと、見えずともはっきりと分かった指の感触である。


 確かめたくなってしまった。


 手が出てこないことを、ではない。

 たった今感じたあの感触を、今すぐに、もう一度、確認したくなったのだ。


 触られたばかりの手を、再び輪に近づけていく。


 心臓が暴れていた。


 さっきの驚きが残っているのかも知れなかった。

 恐怖心をごまかすための生理現象なのかも知れなかった。

 手に再び触れられることを想像して昂っているのだと思った。


 今度は、何の遠慮もためらいもなく、何の曰くもないただの吊り革を誰もが何も考えず利用するときのように、握った。


 何も起こらないな。


 ほんの一瞬だけ、そう思った。


 ほんの一瞬ですら手の感触を待ちわびてしまった自分に、心地の良い気味悪さを感じた。


 ああ、ほら。

 やっぱり。

 来た。


 私は笑っていた。

 口角の持ち上がる自覚があった。

 予想した通りの感触が手の甲を這い上がってきたことが、どうやら私は嬉しかったらしい。


 姿は見えずとも、はっきりと感じる重み。


 冷たい手だ。


 姿の見えない五指の感触は、冷たかった。


 ただの、冷たい手だ。


 死人の手のようではない、ただの冷たい手。


 吊り革の握り部のつるりとした無機質な冷たさとは違う、ただの、柔らかい、冷たい手だ。


 見渡すと、吊り革を握る私の手を――私の手に乗っているのに違いない手を――気にしている者は、ただの一人もいないようだった。

 各々の手元に視線を落とした乗客ばかりが、見慣れているはずで見覚えのない夜の町並みを背景にして一様に揺られている。


 私のものではない手が、車輪の振動に併せて重みを変化させながら私の手を柔らかく押さえつけていることを、彼らは誰一人として知らないのだ。


 私だけが知っているのである。


 心臓が暴れている。

 唐突に芽生えた優越感が、心を刺激して止まないのだった。


 どぎまぎしながら、空いている方の手を伸ばしてみる。

 探求心が私を突き動かしていた。

 この不可思議な現象を、可能な限り味わってみなくては。


 伸ばした指が、見えない何者かの手に触れる――そうなるものだとばかり思っていた。

 しかし私の指先はそんな予想に反して、何に遮られることもなく自身の手の甲にたどり着いてしまう。

 見えない手の重みを感じたままで、その上ではっきりと私の甲を私の指先が刺激した。


 何とも奇妙な感覚。


 こちらからは触れられないとなると、さて、次はどうしたものか。


 まじまじと、自分の手しかないその空間を見つめて、ふと気づいた。


 指が多い。


 吊り革に通した自分の四本の指が、輪の向こう側ではどうやら、増えている。


 これだ。


 合点がいった。

 とてもとても冷静に、私はこの現象の仕組みを理解した。


 試しに吊り革を捩じって指の側をこちらに向けてみると、昨日見た絵面がそのまま目の前に現れた。


 吊り革を掴む私の手に体重を預けるようにして、手が、覆い被さっている。


 なるほど。

 手の甲の側から輪を覗き込んでも、それは見えないのだ。


 反対側から飛び出した指先や、そちら側から輪を通してならば、手の姿を確認することができるのだ。


 昨日見た通りの、細い指。

 細くて、しなやかな、右手。

 吊り革を見上げるかたちになってしまうせいで指の付け根が辛うじて視認できるという具合ではあるものの、透明なマニキュアと、指に走る血管と、中指のささくれを、一目で認識することができた。


 ああ、生きているのか、これは。


 そう確信した途端、単純なもので、彼女の脈拍すらもが感じられるような気がしてきてしまう。


 いったい、何なんだ。これは。


 今更にして今一度の疑問。

 これが得体の知れない現象であるという認識が、ざるの穴から固形物がぞわぞわとにじり出るようにしてぶり返してくる。


 駅への到着が近いことを告げるアナウンスが耳に入って、私は現実へと引き戻された。

 吊り革から手を離そうとすると、私の指は何の抵抗もなく持ち上がり、覆い被さっていた手は輪の向こうへと引き返して姿を消してしまった。


 汗をかいていた。


 私の両手は、額は、気づけばじっとりと湿っていた。


 どういう理由の汗なのか、今となっては既によく分からない。


 速度を落としていく列車の中で、白くなった自身の手のひらをぼんやりと見下ろしながら、私はひたすらに扉が開くのを待つことにした。


 汗をかいていた。


 私の手に乗っていたあれは、僅かに汗ばんで、私の手の甲を確かに湿らせていた。


 もう、その夜は、吊り革へ手を伸ばすだけの好奇心は残っていなかった。

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