3.可愛げのない女
由木は、とにかくモテた。
野球がうまくてカッコいい中学生なら当然だろう。だから常に彼女がいた。初めは石原さんだった。その次が麻生さんで、いや永田さんだったか、前田さんだったか。桜沢先輩とも熊谷先輩とも付き合ってたし、後輩とも付き合っていた。どの彼女もみんな美人で可愛かった。とにかく中学じゅうの綺麗な子と付き合っている印象だった。
高校でもそんな感じだと、風の噂で聞いた。
予定のない土曜。枕元に置いたスマホの着信音で目が覚める。既にカーテンの隙間から、眩しい光が差し込んでいた。朝の九時。ぼんやりした頭でスマホ画面の時刻を確認しつつ、今届いたメッセージを開く。
「えっ!?」
今まで半分眠っていた頭から、一気に眠気がすっ飛んだ。由木からだった。
背中に由木の視線を感じつつ、弥生は落ち着くよう自分に言い聞かせながら、洗面所の蛇口にモンキーレンチを当てる。石鹸しか置かれていない、綺麗に整頓された洗面台だった。家に来てすぐに玄関横の洗面所に入ってしまったが、玄関も物が少なく整然としていた。
蛇口下のナットを緩め、パイプを外す。外したパイプの中から黒いゴムの輪を取り出した。それは年月を経た結果、ゆるゆるとたわんでいた。
「水漏れは、多分このパッキンの経年劣化かな」
ここに来る途中にホームセンターに寄って買ってきた、新しい黒いゴムの輪を紙袋から取り出してパイプの中に入れる。蛇口の品番を詳しくは聞かなかったが、こんなものだろうと予想した。
良かった、ぴったりの大きさだった。
「パッキン?」
「この黒いゴムね」
たわんだ黒いゴムの輪を由木の手に乗せると、弥生は難なく再びモンキーレンチで外したパイプを閉め直した。
「ふええええ」
閉めていた止水栓を緩め、蛇口を捻って水を出し、今度は水を止める。パイプの根本から水が漏れていないことを確認する弥生に、由木は大きくため息をついた。
「すっごー……」
今朝、由木から来たメッセージには、水道業者を紹介して欲しいとあった。朝から何事かとメッセージを返したら、今度は電話が掛かってきた。蛇口と壁の隙間から水がポタポタと漏れて困っているのだという。
なぜ自分にそんな話をと首をひねったが、由木の答えに苦笑いをした。
「これ、別に私が不動産屋に勤めてるのとは、関係ないからね」
弥生は振り返り、まだぽかんと口を開けている由木に笑って見せた。
由木は弥生が不動産屋に勤めていることを思いだし、連絡してきたそうだ。ただ弥生は入社以来ずっと経理部だし、そもそもメンテや施工は直接的には不動産会社は関係ない。
「なんで? 趣味?」
「これくらいのことはできるって」
一人暮らしを始めて、もう八年。大抵のことはネットで調べたり、雰囲気で出来てしまっていた。
「えーオレ、全然わっかんねえけどなあ」
由木は眉をハの字にして後頭部に手をやる。お礼を言った由木が洗面所を出たので、弥生もそれに続いた。
由木は玄関とは逆の、すりガラスがはめ込まれたドアを開いた。そこは六畳ほどのダイニングキッチンだった。家具はローテーブルとテレビとその横に本棚が置かれているだけで、ここもシンプルで綺麗に片づいていた。
「じゃあさ、もう一個。出来たらでいいんだけど、頼んでいい?」
「できることなら……」
あまりじろじろ見るのも失礼かなと思いつつ、ついそっと視線を動かして部屋を見渡してしまう。本棚に生理学の本や解剖学の図鑑に混じって、野球に関する本がいくつかあるのが見えた。
由木は離婚してから学校に通い、三年前に独立してスポーツ整体院を開業したと聞いた。だから人体の本は分かるのだが、野球に関する本は何故だろう。その道は諦めたといっても、趣味の範囲で読んだりするのだろうか。
「網戸なんだけどねー」
リビングの先、ベランダから由木の声が聞こえて弥生ははっと我に返る。間もなく沈もうとする夕日のオレンジ色の光を背に浴びた由木が、自分の背丈ほどの網戸を抱えてベランダに立っていた。
「外れちゃったんだけど、直せる?」
弥生の顔に、答えるより先に笑みが広がった。中学の時の、あの野球部のエースが網戸を抱えて眉を下げ、心配そうな表情をしてこちらを見ているのだ。
「できるできる、貸して」
弥生の快諾に、由木が抱えていた網戸を窓に立て掛けようとした時だった。
「ぎゃああああああ!!!!」
由木の突然の悲鳴に弥生は身体を固くし、目を見開いてリビングの床に立ち尽くした。
「あっ、ああっ、これこれこれこれ……」
顔を歪ませて由木は声を震わせ、必死に弥生に訴える。悲鳴の割には何かが落ちてくるわけでも、破裂するわけでもないので、弥生は身体の力を緩めてベランダに歩み寄った。震える手で必死に由木が指差す先の、立て掛けた網戸を見た。
「……ヤモリ」
大きく開いた指で網戸をつかみ、長い尻尾をくねらせているヤモリがそこにいた。なーんだと小さくため息をついて由木の顔を見たが、由木は真っ青な顔をして首を小さく横に振っている。
ヤモリは家守と書く幸運の象徴であり、害虫も食べてくれるありがたい存在なのだが……由木にはそんな風には見えないだろう。
弥生は由木の腕を優しくつかみ、家の中に入るよう促す。そして由木が脱いだサンダルを履くと、そっと網戸に張りついているヤモリに近づいた。ヤモリが動きを止めたタイミングでさっと右手を伸ばし、その胴体をつかむ。
「えっ!」
弥生の行動に、由木が驚きの声を上げた。
弥生は薄緑色のヤモリが、自分につかまれて手足をバタバタさせているのを見てそっと微笑み、ベランダの手すりに置いた。ヤモリは振り返りもせず、一目散にベランダの壁を伝い、するするすると下へと降りていった。
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