2.離婚
前半のフリータイムが始まるとすぐに、由木が近づいてきた。目を見開き、肩をすぼめている弥生に、アイスティでいい? と気軽に尋ねてくる。弥生は首を縦に振るのが精いっぱいだった。
「どうぞ」
アイスティの入ったグラスを渡されて、弥生は小さくお礼を言った。由木の一連の仕草は、緊張しっぱなしの自分と比べて卒なくスムーズで、慣れているなと思う。
「何度か参加したことあるの? こういうの」
弥生の心を見透かしているかのような質問に、弥生は大きく首を振る。
「う、ううん! 今日もね、あの、友だちに言われてね、友だちは急に来られなくなったんだけど……!」
「そうなんだ。オレは婚活パーティ、三回目」
焦る弥生に、由木は舌を出して微笑んだ。さらりと正直に言われて、弥生は頬を赤らめる。下唇を軽く嚙んだ。
とっさに嘘をついた自分が、恥ずかしくてたまらなくなる。確かに婚活パーティには初めて来たが、誘ってくれる友だちなどいない。
「ねぇ」
右手に持ったアイスティのグラスに目を落としている弥生の顔を覗き込むように、大柄な由木が少し体を屈めた。
「もしいい人が誰もいないならさ、カップルになっちゃおうか?」
「えっ!?」
弥生は素っ頓狂な声を上げて、思わずグラスを取り落としそうになる。辺りの男女が一斉に振り向いたので、慌てて左手で口をふさいだ。口に触れた手が細かく震える。
突如訪れた偶然と、由木の申し出に弥生の脳内はパニックの飽和状態となって、もうどうしていいのか分からない。
だって、相手はあの由木なのだ。そう、中学の女子の多くが憧れていた、あの由木。
「こんな場だけどさ、せっかく再会できたんだし、この後一緒にお茶でもしようよ」
「あ……」
なんだそういうことかと、弥生は猛烈に恥ずかしくなる。そうだ、婚活パーティでカップリングしたところで付き合うわけではない。連絡先を交換するだけだ。
それなのに先走って勘違いして、不馴れさの丸出しである。婚活パーティに対しても、恋愛に対しても。
いくら二十年以上の時を経ても、あの由木がこんな自分と付き合うわけないではないかと戒めた。
約束通り『カップルになった』由木と弥生は、パーティ会場であるホテルの二階のラウンジにいた。ホテルは一階のロビーから三階までが吹き抜けとなっており、ラウンジからは全体が見渡せる開放的な造りになっていた。
「まさかこんなところで会うなんてね」
「すごい偶然ね」
席に座ると、改めて今回の奇遇すぎる出会いにお互い照れ笑いを浮かべた。中学を卒業してからは、遠くの高校に野球推薦で行った由木のことはたまに駅で見かける程度だった。高校を出ると、見かけることさえなくなった。
弥生が同窓会に出たのは二回だけだが、二回とも由木とは顔を合わせていない。そもそも中学の時ですら、大して話したこともなかったはずだ。
「オレ、大学は都内に行っちゃったから。それからしばらく東京に住んでたんだ。南さんは?」
道理で見かけなくなったわけだ。
地元から都内へは二時間以上。通う人は稀で、殆どが一人暮らしを始める。
「私は28の時に出たけど、それまではずっと実家で」
28歳の時に、弟が結婚するからと弥生の会社近くのさいたま市内のアパートを出ることになったので、そこに弥生が入居して一人暮らしを始めたのだった。実家から会社まで片道一時間半。通えない距離ではなかったが、地元も実家も、いつまでも結婚する素振りさえ見せない弥生に鬱陶しくし始めた頃だった。
「オレも28歳の時に、都内からこっちにきたんだ」
弥生は合点がいき、運ばれてきたティーカップにそっと手を添えると目線だけを上げて、白い歯を見せて笑う由木を見つめた。
「由木くん、大学出てすぐ結婚したって地元で聞いた」
地元に残っていた同級生とは、外に出ればすぐに顔を合わせる程の、小さな町だった。そこでさらりと聞いたのだ。
由木くん、結婚したんだって。すっごい美人と、と。
地元に残る子たちの結婚は割と早いが、都心に出て早くに結婚する人は珍しい。しかもあの由木が。地元ではちょっとした話題だった。
「うん、大学の時の彼女とね……そんで28歳の時に離婚しました」
もう八年も前のことなのか。だけど由木のことだ、それからずっと一人ということはないだろうけど。
「すごーく綺麗な人だって……」
言いかけて弥生は慌てて口をつぐんだ。もう奥さんではない、元奥さんなのだ。
八年も前に別れた妻の話題を振られた由木は、コーヒーカップに口をつけたまま目を大きく見開いて一瞬固まった。しかし目の前の弥生の動揺を感じ、表情を緩ませた。
「雑誌の読者モデルもやってたからね……美人でした」
読モ! 本物の美人ではないか。
弥生といえば、今回のこの婚活パーティのために久々ファッション誌を買った。そこに載っていた服を――買う勇気もなく、通販で買った程度である。しかも着てみたものの、モデルの雰囲気とは全く異なり鏡を見てため息を一つついたのだった。
「結局別れたんだけどね」
(由木くんでも、綺麗な奥さんと離婚してしまうんだ)
弥生はどんな表情をしていいか分からず、ティーカップを持ち上げて口をつけた。
「奥さん、綺麗だったからなー。どんどんハゲて太っていくオレが許せなかったのかも。いや、まあ他にも理由はあるだろうけど」
「えっ!?」
由木の言葉に驚き、弥生はカップを手から落としそうになった。確かに今の由木の髪は大分後退して、あの細身の中学時代に比べたら大分がっしりとはしたけれど。決してデブではないし、そんな理由で別れるなんて。
「いやいや冗談だけどさ」
由木は弥生の驚きように、慌てて右手を顔の前で振る。眉を下げ、少し困ったような笑みを浮かべて、人差し指で頬をかいた。
「まあハゲは努力でどうにもなんないしね……さすがにそれはないと思うけど。でも体重は今より20キロ以上あったのよ。野球辞めちゃったこともあるし、まーだらだらと食べたり飲んだり」
「由木くんが?」
弥生はティーカップを持ったまま、小さな目を三回ほどしばたたかせた。
「大学の時に膝を痛めちゃって。元々自分の限界も見えてきて、プロも無理なんだなあと思ってた頃だったから、敢えて全然関係ない電気屋に就職したんだけどさ。夢を失ったオレは、自分にも嫁さんにも優しくできなくなっちゃってね」
――そんなことが。
弥生はティカップに目を落とす。
中の琥珀色の紅茶にはラウンジの照明が光り、ぼんやりとした自分の顔がおぼろげに見えていた。
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