端が黒く焦げた本を開いたまま、アリシアは今朝のエノーヴェの言葉を思い出していた。

 いい御身分だと。

 王族ならば。

 これまでの自分は、ただ太祖マルクの娘だからというだけで保障されていたのか。自分が自分らしくありたいともがいていることも、すべて王族という名に守られていたのか。

 そして、その王族という出自は、己をきつく縛り、なにをするにもつきまとう。

 机の上の歴史書に目を落とし、誰に問うわけでもなく問う。

「王族って、なに? わたしはわたしなのに」

 インクの薄れた本からは、なんの答えもない。

 内乱によって焼けた書庫から僅かに残った本は、煤と時間によって、そのほとんどの情報を闇へと葬り去っていた。クラウスの名前どころか、アリシアの名前すらどこにもない。ただ、数ヵ月前のあの日、240年の眠りから覚める姫がいると一冊の歴史書に記されているだけだ。そこには、王の失言が神の怒りを誘ったと書かれていた。実際に目の前で繰り広げられた出来事が、数行の薄い文字になり歴史の中に埋まっている。

 薄暗い閲覧室にはアリシアしかいない。官僚も誰も、図書室に近付く者はいない。身分の高い者は、薄汚れた図書室になど興味を持たないという。

 王族ならば。

 王族らしくないアリシア。

「王族なんて知らない。そんなの、知らない」

 戦国武将の娘だった。アリシアはずっとアリシアでしかないのに。

 ―――生きると言うことは、一筋縄じゃいかない。

 そう言ったのはクラウスだ。つらいのは当然だと。

「わたしは……。わたしはここにいてもいいの? ここで生きていてもいいの? 誰か教えて……!」

 不安に押し潰されそうだった。

 自分の存在自体が不安でならなかった。生きていること自体が罪に思えた。自分は、許されない生き方をしているのか。

 自分らしく生きたいともがく苦しみ。それならば堪えられると思った。クラウスを思い、やっていけると思った。けれど。

 自分らしさを求めようとすることが、まわりに迷惑をかけている。自分の生き方を求めることが、白眼視されてしまう。

 ここでは、異端は邪魔者なのだ。

 決められたルールに沿った生き方でなければ、許されないのだ。

 許されない。

 許しを、得たいわけではなかった。

 自分が自分に恥じることのない生き方ができれば、それでよかった。

 それなのにいまは、誰かに許して欲しいと切実に思う。

 それでいいのだと、認めてもらいたい。お前はひとりきりじゃないのだと、誰かに断言してもらいたかった。

 ―――わたくしも、正直そう思います。

 エノーヴェの声を思い出す。

 彼女の包み隠さない言葉。

 ―――わたしは待っています。

 オーヴルのあたたかな言葉が引き出される。

 もしかしたら、ひとりきりではないのかもしれない。

 彼らなら信頼できるかもしれない。

 信頼したい。

 たった数行の過去を指で辿りながら、アリシアはそう思った。



 数歩後ろに護衛官を連れ、アリシアは廊下を部屋へと向かった。

 陽はすっかり落ち、宮殿内は夜会の準備に大わらわだった。楽団は楽器の調子を合わせ、そこここで張り出し燭台の蝋燭の点検が終わろうとしている。着飾った警備兵の顔に緊張がみなぎり、馬車寄せに人々が集まりだす。

 その中を、目の下を薄く腫らしたアリシアがゆく。

 既に王宮では、アリシアの奇異な行動は有名だった。これまで親しかった者たちとの付き合いはほとんど途切れ、特に親しかったロシーヌ王女からも、故意に避けられていた。

 王女とは結局、遊び仲間でしかなかった。遊ばなくなれば付き合いが途切れるのも当然だと、アリシアは割り切った。

 すれ違う者たちは横目にアリシアを舐めまわす。彼らには、古代からの異端者が恰好の話のタネとなっている。貴族たちのそんな態度に、アリシアはただ毅然とした態度で臨むしかなかった。

 いまにも脆く崩れそうな心は、彼らの視線に晒されるたび悲鳴をあげる。

 声にならない悲鳴に、アリシアの胸は締めつけられる痛みを抱えていた。



「暁の女神は、まだ微笑んでくれないのかい?」

 中庭を抜ける歩廊の真ん中で、アリシアは若い男の声に気付いた。

 不思議なもので、一度聞いてしまうと自然に意識はそちらに傾いてゆく。イェリスやレーディスたちとのことがあってから、さまざまな噂話を耳にした。いちいち根も葉もない噂話を聞いていられないと思えるようになっていたのだが、思わず足を止めてしまったのは、オーヴルの声が聞こえてきたからだった。

「彼女はいまだ、深い夜の闇に隠れていてね」

 暁の女神は、以前オーヴルがアリシアをなぞらえた女神だ。どうやらオーヴルはすぐそばの木立の陰で友人とアリシアのことを話しているらしい。お互いに死角となっているせいで、向こうは気付いていない。

「早く射止めてくれよ? お前が暁をものにするって大金賭けてるんだから」

「ひとの恋路を賭けの対象にしないでくれよ」

「なにが恋路だ。話題性で落とそうとしているだけのくせに」

 アリシアは息を呑んだ。思わず自分の耳を疑った。

「女神はそんな浅はかな思いでは振り向かないよ」

「女神の夜明けのごとく冴えわたる美しさを、この手にしたいと思わぬ男はいない」

「それは否定しないけど」

「ほらね」

 青年が我が意を得たりと言う。

「誰だって自分の恋人が女神ならばって思うはずさ。おかしな性格してても、見栄えが良ければそれでいいってものだ。隣に置くにはもってこいの美貌だろう。なんといっても、神話を生きた女神だし?」

「太祖の娘だものな」

「でも、彼女、微妙な立場とは思わないか?」

 頷く気配のあと、

「王族とはいっても、宙に浮いている立場ではあるね。わたしたちと直接的な血の繋がりは、あってないようなものだから」

「だけど。由緒正しき王族には変わらない。女神を落とせば、お前の立場はぐっと良くなるぜ?」

「まあね」

 アリシアは真っ青になる。これは本当に、オーヴルなのだろうか。

「見目がいいから、絵にもなるし」

「そばにいると注目をあびられるから鼻は高いね。太祖の娘が味方になってくれれば、怖いものなしだよ」

 アリシアは愕然とした。オーヴルの、まるでアリシアを利用していると言わんばかりの言葉に、全身から力が抜けた。

 膝が震え、その場に立っていられなくなった。支えきれず、後ろに身体が崩れた。

「アリシアさま!」

 護衛官のズィーフが後ろからアリシアを支える。その声に、木立からの声がはたと途切れた。

 わけの判らない色ばかりが目の前に現れた。その色は、突然はっきりとした形になる。オーヴルだった。青い顔をして、呆然とアリシアの前に立っている。

「姫……」

 オーヴルの横には彼と同じ年頃の赤い髪をした青年がいた。確かファルムス・オレンスと言ったか。ファルムスは苦い顔をして、アリシアとオーヴルを交互に見ていた。

「新緑の葉擦れのみを、聞いたわけでは、ないのですね……?」

「……最低」

 ズィーフの肩を借り、懸命に身体を起こし、絶望と失望をこめてオーヴルを睨み上げた。

「最低の人間よあなたは」

「姫、違うんです、これは」

「聞きたくない。あなたは裏切ったのよわたしを! 優しい顔と言葉の裏で、あなたもわたしを裏切ってたのよ」

「姫ッ!」

 アリシアは悲しく笑む。

「そうよ。わたしが莫迦だったんだわ。あなたを信頼しようとしたわたしが莫迦だったのよ」

「待ってください姫、弁解を」

「もうなにも聞きたくない!」

 そう吐き捨て、アリシアは歩廊を駆け出した。

「姫!」

 背中を追うオーヴルの声は、泣いているようにさえ聞こえた。

 泣きたいのはアリシアのほうだった。泣きたくても涙が出てこない。あまりにも深い絶望に、涙さえ涸れてしまった。

 オーヴルは他の者とは違う。そう漠然と淡い思いを抱いていたのに。

 ずたずたに切り裂かれた想い。

 血を吐くような絶望。

 アリシアは心底、時代に絶望した。



「姫。扉を開けてください」

 オーヴルが部屋の前で懇願をする。アリシアは彼の言葉を呑まなかった。

「傷付けるつもりではなかったんです。あなたへの想いに偽りはないのです」

「言い訳するつもり? はいそうですかって、気がおさまるとでも?」

 部屋を歩きまわる足を扉に向け、おさまらない苛立ちと情けなさを吐き捨てる。

「それは……」

「もう声も聞きたくない! あなたの声を聞くだけで苛々してくるッ」

「信じてください、あなたを愛しているのは本当なんです」

「よくもそんなこと。あんなこと言っておきながら!」

「あれは言葉のあやです。本気でそう思っているわけではありません」

「だから信じられないの。あなたはわたしのどこを愛しているの? なにを見てたの! 太祖の娘という血筋? それともこの顔? 単なる見た目? それでわたしが喜ぶと思ってたの!? ちやほや褒めちぎれば落ちると思ってたのね!」

「……」

 図星なのか、沈黙だけが返ってきた。

 アリシアは悲鳴のような声をあげる。

「わたしが欲しいのは飾られた言葉じゃない! 残酷でもいい、真実が欲しいの!」

「わたしの想いは真実です! あなたを愛している、アリシア。誰よりもなによりも深く愛しているんだ」

 オーヴルの言葉は、まっすぐに飛び込んできた。不覚にも胸が震える。

「どうすれば判ってもらえる? 何度言えば信じてもらえる?」

 扉が音を立てた。オーヴルがやるせなく拳を叩きつけた音だ。深い迷いが、アリシアの中に生まれる。彼の言葉には、真実の色しか見られなかった。

「あなたを愛してる」

 アリシアは扉を見つめたまま動けなかった。

「どうしようもなく愛している」

 ―――答えられない。

 強い引力に引かれてしまう。

「胸が引き裂かれそうなほどに、愛しくてならない」

 一歩、扉に足を踏み出す。

「アリシア……」

 さらに一歩、ゆっくりと足を運ぶ。静かな足取りでアリシアは扉に近付く。そっと手を扉に添え、その向こうのオーヴルの気配を肌に感じた。

「いつも探してしまうんだ。あなたの笑顔を探してしまう。晩餐会や舞踏会で見せるあなたの屈託のない笑顔。あなたがいないとなにもかも色褪せて見えて。そばにいて欲しい。もう一度あなたと踊りたい、笑い合いたいんだ。あなたが貴族たちにいいように言われるのは堪えられなくて、身を切られるようにつらくて。アリシアはそんな、みんなに嗤われるようなひとではないのに悔しくて。アリシア、戻ってきてくれ、わたしのところに」

 アリシアの眼に、涙が浮かんだ。

 涸れたと思った涙が、急にあふれた。

 アリシアは小さく嗤う。

 言葉が出なかった。涙とともに大きななにかが流れていった。

「―――ごめんなさい、オーヴル」

「アリシア……?」

「やっぱりわたしたちは合わない」

 流れたものは、期待でもあり、喜びでもあった。諦めばかりが胸の中で大きくなった。それなのに、こみあげてくるのは涙と微笑みだった。

「何故……!」

「あなたやっぱり、本当のわたしを愛してくれたわけじゃない。あなたの求めるわたしは、わたしじゃないの。わたしの幻想を愛しているだけ。わたしはたぶん、あなたを愛せない。あなたはわたしと違いすぎてる」

 たぶん、それがものすごく悔しい。

「アリシア……」

 オーヴルの声が悲嘆を帯びる。

「結局あなたはわたしを見てくれなかった」

「そんなことは」

「わたしは遊び浮かれるような性格じゃない。戦い死んでいった者たちを忘れたくない。頑固だと言われても、忘れてはいけないことなのよ」

 マルクに感じた憤り。それを、自分自身に向けたくはない。そんな自分を認めたくはない。

「彼らの犠牲を忘れて、浮かれ騒ぐことなんてできない。この国は遊びまわるために建国されたんじゃない! そのために彼らは命をなげうったんじゃない! それが判るから!」

 扉の向こうから、戸惑う気配が伝わる。

「わたしは」

 胸が熱くなる。

「わたしはそのために眠らされたんじゃない」

 はっきりとした強い意志は言葉とともに生まれ、失われていたアリシアの胸の隙間にするりと落ちた。

 耳によみがえるクラウスの言葉。なにか意図があって眠らされたという。

 アリシアは思い知る。

 240年の眠りには意味があったのだと。

 なにかを為すために、ロチェスター公爵に選ばれたのだ、と。

「わたしは……」

 どうしようもないほど身体が震えていた。

 呆然と立ち尽くすアリシアの肩を、エノーヴェがそっと抱き寄せてくれた。



 優しい匂いが花園にたちこめている。

 アリシアが進むたび、角燈の明かりに草花が闇から可憐な姿を現す。色とりどりの花々は、輝くように夜空に咲き誇っている。石の隙間に見える僅かな地面からは、裏庭全体を覆うほどのたくさんの花が咲き乱れていた。

 アリシアは裏庭をそぞろ歩く。

 なにも考えたくなかった。すべての煩わしさから解き放たれ、緊張に張り詰めていた心を安らげたかった。

 裏庭に足を運べば、クラウスが語りかけてくる。今日もご苦労さまと、ねぎらってくれる。

 頭の中を占めていた悩みが、彼の声を聞くだけで霧散する。深い夜空に吸い込まれてゆく。

 裏庭だけが、なにもかも忘れられた。

 なにも考えなくてもいい。

 アリシアは静かに静かに、流れる風に身をまかせ、花の中を歩いた。

 柱に支えられた幾つものアーチの正面に、小さな噴水がある。噴水横に崩れ落ちた石が、アリシアの場所だった。そこを目指し、角燈を手に赤や黄色の花を愛でながらぼんやりと歩く。

「!」

 アリシアの心臓がはっと跳ね上がった。落としそうになった角燈を握り直す。

 視点を結んだそこに飛び込んできたのは、花ではなかった。

 静かな、けれど心の奥底まで見透かすふたつの目が、そこにはあった。

 アリシアがいつも腰を下ろす石の上。そこにゆったりと座る、ひとりの青年。

 じっと彼女を見つめていた。

 闇に紛れそうな暗い上着を羽織り、炯々とした眼差しを寄こしている。

 緑の瞳の青年。

 ヴォルだった。



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