三
悲鳴とともにアリシアは飛び起きた。
あたりは薄暗い。見慣れたとも見慣れないともいえる寝台にいた。
早鐘のように鼓動が胸を叩いている。
「いかがなされました!?」
天蓋から垂れるカーテンの向こうから声がした。荒い息はなかなか落ち着く気配を見せない。
「クラウスはどこ?」
ようやく吐いた言葉に返ってきたのは、けれど沈黙だった。
「あの女は誰だったの?」
氷のような空気は、汗を吸った夜着を通し、身体の芯までしみわたる。
アリシアは抱き締める肩に爪を立てた。
「クラウスはどこ」
「畏れながら」
ためらうような女性の声。
「クラウス・ラグレーさまは、既にお亡くなりになりました」
「……死んだ?」
「はい」
血しぶきをあげ、転がるクラウスの首が頭から離れない。
寒さとは違う震えが、身体の奥からこみあげてきた。兜の下から現れた顔。降りかかる鮮やかな血。
アリシアは寝台から転げ落ちた。カーテンをかき分けると、見知らぬ顔の女性が控えていた。いや、どこかで会ったことがあるような気がしないでもない。
夜着を引っ張り、彼女に見せた。
「ねえ。血がすごいの」
「……?」
「クラウスを殺したの。返り血がすごくて、どうすればいい?」
「あの。悪い夢でもご覧になられたのですか?」
「違うッ」
アリシアは叫ぶ。
「クラウスの血なのよ、ほら! 首を落とされて、骨になって……! あああ!」
顔を押さえ、くずおれるアリシア。
あれは夢なのか。どこからが夢なのか。どちらが夢なのか。
「あなた誰?」
「わたくしですか? お忘れですか、エノーヴェと申します」
「ヘレナは?」
「いいえ、そのような者は」
「いやッ!」
アリシアは激しく頭を振った。
「帰して! わたしを帰していますぐに! クラウスのもとに帰してッ!」
「落ち着いてくださいませアリシアさま、先程ヴォル殿下が」
「いやあああッ!」
「しっかりなさって!」
「帰して! こんな夢いらない! 早く覚めて覚めてお願い!」
アリシアは床に拳を叩きつける。と、目に入ったエノーヴェにも手をあげた。エノーヴェはなにも言わず、為されるがままに身をさらした。拳で胸元を叩かれても、ただじっといたわるようにアリシアを抱き締めている。
「いやだ……。やだ。早く覚めて……」
エノーヴェの胸の中、アリシアはうわごとのように涙にむせた声を漏らす。エノーヴェの優しさは、これが夢だとアリシアに思わせる。
カレスと遊ぶ自分に冷めた目を向けた侍女。カレスがいなくなったのは猫の特性だと逆に落ち込ませた侍女。エノーヴェはこんなふうにそっと抱き締めてくれるようなひとじゃないと、アリシアは思った。
だからこそこれは夢だ。
夢だから、早く覚めたい。目覚めたそこには、クラウスが待っているのだから。
そう信じて、アリシアは再び意識を手放した。
そっとまぶたを上げたとき、アリシアはひとり寝台に横たわっていた。
時間の経過ははっきりしない。夢の中よりもやや明るい気配がする。また夢なのだと、アリシアは小さく落胆した。
目の前の光景は、先程と変わらない。重く天蓋から垂れるカーテンは、240年後の世界で見たものだった。頬を叩いても、手の甲をつねってもそれは変わらなかった。
重い足取りでアリシアは寝台から降りた。室内は毒々しいまでの装飾にあふれている。窓の外から聞こえる鳥のさえずりに、明け方らしいと推測する。室内はしんと静まり返っていた。
なにかに導かれるように、アリシアはふらりと窓を目指した。鍵を外し、窓を大きく開け放つ。庭を抜けた風が、褐色の髪を踊らせた。
心地よい風に誘われ、窓枠に手をつき身体を乗り出す。
足をかけ、優しい風に身をまかせた。
ふわりとさらわれる感覚の直後、突然身体が後ろに引き戻された。
「なななんてことなさるんですかッ!」
裏返った悲鳴は、エノーヴェにものだった。彼女はアリシアの腰に腕をまわし、肩を上下させていた。だが、アリシアはその腕を乱暴に振り払い、窓に手をかける。
「目を覚まさなきゃならないもの」
「しっかりしてくださいませ! 夢などではございません! アリシアさまはもうお目覚めでいらっしゃいます!」
「そんなはずない」
身を乗り出そうとするアリシアの力は、エノーヴェの制止を軽く振り払ってしまう。
「おやめください、アリシアさまッ!」
「はなして!」
飛びつくエノーヴェを引き剥がしたとき、アリシアの視界はいきなり塞がれ、床に引き倒された。そして降りかかる声。
「いったいなにごとだこれはッ!」
男の声だった。
両目を塞ぐ大きな手は滑らかな感触だった。頭上からの声には、鋭く切りつける怒りがにじんでいる。身体を拘束する腕の力強さに、アリシアのもがきは封じられる。
「手をどけて! 邪魔しないで!」
「だめだ。なにがあったエノーヴェ」
「申し訳ありません。おそらく、ここが夢の中だと」
「夢だと?」
アリシアの視界がいきなり開けた。目の前から白い手のひらが消えると、代わって緑の瞳を持つ青年の顔が現れた。ヴォルだった
「夢だと思っているのか?」
アリシアは答えられなかった。答えようとも思わなかった。
「莫迦ばかしい。夢と現実の区別もできないとはな」
突き放す言葉は耳に入らず、アリシアは開け放たれた窓を見やった。その頬が鳴ったかと思うと、あとから痛みが肌を刺した。
「殿下……!」
エノーヴェが口を覆う。叩かれたと知ったのは、再び反対側の頬が鳴ったときだった。
「目が覚めたか?」
ヴォルのあまりに横柄な態度に、アリシアは絶句する。
「まだ寝ぼけているのか?」
「お、おやめくださいませッ!」
エノーヴェがヴォルの腕に飛びついた。
「女性に手を上げるなど、そんな野蛮なことおやめくださいッ」
「野蛮?」
ヴォルは鼻で
「上等だ」
「殿下ッ」
「この国は丸くなりすぎている。野蛮な男が上に立てば、多少良くなるだろう」
ヴォルの眼は本気だった。アリシアはぞっとする。心底、夢なら覚めて欲しいと願った。
「それで。目は覚めましたか?」
目を凝らしても、相変わらずヴォルの顔は消えてくれない。頬が鳴った。
エノーヴェははじかれるように部屋の外に向かった。
「判りますか」
ヴォルは訊く。アリシアは答えられない。黙っていると、再び頬が鳴る。頬を叩くたび、ヴォルはアリシアに問う。目を覚ましたか、と。
苦痛に
張り詰めた緊張が一瞬緩み、緩んだ瞬間、身体中を鋭いなにかが駆け抜けた。それは真っ白な光のような、けれど凄まじい衝撃だった。
「わたしが殺したんじゃないッ!」
気付くと、そう叫んでいた。
「わたしじゃないッ、わたしじゃない……!」
「そうか」
ヴォルは優しい声を返す。
「あんなこと、絶対絶対絶対してないッ! クラウスを愛してるもの、愛してるから!」
「そう」
「愛してるのよ!」
「愛しているんだね」
「ええ……」
ラデューシュを連れて部屋に戻ったエノーヴェは、窓辺で見つめ合う男女を見た。
「はん?」
横のラデューシュが唸る。
「君は姫と殿下がうっとり見つめ合うことが、一大事だと思ったわけ?」
壁にもたれてうとうとしていたところをエノーヴェに起こされた。ヴォルを止めて欲しいと血相を変えた彼女の様子に、ラデューシュは慌ててアリシアの部屋に駆けつけたのだった。
「まさか! アリシアさまの頬を何度も何度も叩いていらっしゃったんです! いくら殿下でも、あまりに酷うございます!」
「頬を叩く? 殿下がそんなことを?」
「偽りを申し上げるわけありませんでしょう!?」
「……すごいことなさいますねえ。それでこの展開なんてのがねえ。遥かな姫も、なかなか変わった方でいらっしゃる」
感心ともとれる息を吐くラデューシュの隣で、エノーヴェもまた深い眼差しをアリシアに向けていた。
アリシアはヴォルの腕を握り締めていた。
「クラウスは!」
声には涙が混じっていた。ヴォルはじっとアリシアを見つめている。
「クラウスはわたしを無視したりなんか絶対しない! あんな死に方をするようなひとじゃない!」
「そんな酷い最期だったのか?」
「夢よッ」
アリシアはヴォルをまっすぐ見上げた。その
「夢よ、あれは!」
「夢からは覚めた?」
「覚めたくなんか……」
「ここは、夢の中かい?」
瞳を覗くヴォルに、アリシアは力なく首を振る。
「夢は、終わったのよ……」
そう口にした瞬間、アリシアの中でなにかが遠く過ぎ去っていった。
そっと抱き寄せるヴォルの腕はたくましく、そしてあたたかだった。
それから3日後に開かれた夜会は、ひどくつまらなかった。なにもかもが色あせて見えて、まったく心が動かされなかった。
アリシアを240年の眠りに至らしめたあの
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます