名を呼ばれた。

 渺漠びょうばくたる白い世界に、身体も心もなく、霧のようにただただ漂っていた。

 遠くかすかに聞こえる心地よい声に、霧散していた想いが引き寄せられた。集まったかけらは、やがてひとつの想いになり、己の存在を知る。

 同時、すくいあげられる感覚に包まれる。

 なにかを通り過ぎる感触のあと、曇っていた意識が形を現した。

「アリス! アリス! 目を覚ますんだ!」

 すぐそばから聞こえる悲痛な声に重たいまぶたを上げると、突き刺さるように光が目に飛び込んできた。

「アリス!?」

「……、クラウス……?」

 声のほうを見やると、そこに、いるはずのない男がいた。

「よかった。正直もうダメかと思った」

「もうだめ、って?」

 安堵に眉を開くクラウスにアリシアは訊ねる。どうしてここに彼がいるのだろうといぶかりながら。

「覚えていない? あなたはロジェ神に眠りに就かされてたんですよ」

「お父さまの失言で……」

「そう」

「240年の、眠りに……」

 クラウスは小さな驚きを見せた。

「起き抜けにすごいこと言いますね。そんなわけないでしょ。24日間眠らされてたんですよ、それこそ死んだように」

 アリシアはぎくりとなった。

「24、日?」

「ご不満?」

 わけが判らない。

 なにが起きたのか。

 クラウスはそっといたわるように、頭を撫でてくれる。確かなその感触に、アリシアは困惑する。

 寝台に横になったまままわりを見渡すと、確かにここは間違いなく自分の部屋だ。

「不満とかじゃなくて。わたし……、240年眠っていたんじゃなかったの?」

「え?」

 クラウスの動きが止まった。

「240年眠って、あなたの遺体を見たの。ヴォルっていう王太子にも会った。ものすごく素敵な舞踏会に行ったり、賭け事したり、いろんなゲームもしたわ。わたし、……わたし、240年後の世界にいたの」

 懸命に訴えるアリシアに、クラウスは表情を曇らせる。

「……大丈夫? もう少し眠ったほうが、あ、いや、眠りすぎなのかもしれない。身体起こそうか? そうだ、その前に医師を呼ばなくては」

 クラウスはアリシアを気遣いながらも、その場を去ろうと腰を浮かせた。

「行かないでクラウス、ここにいて! そばにいて!」

 動きを止めるクラウスに、アリシアは重ねる。

「ひとりになりたくない。ひとりにしないで」

「アリス……」

「怖いの。あなたがいなくなってしまいそうで、これが夢だったらどうしようって、すごく怖い」

「ずいぶん弱気だね。大丈夫。夢なんかじゃない。240年後の世界のほうが夢なんだよ」

「本当に?」

「おや。わたくしをお疑いで?」

 アリシアは小さく首を振る。クラウスの眼差しが和らぐ。

「怖い思いはさせないから安心して。ついていてあげるから。ずっとアリスのそばにいる」

 クラウスは床几しょうぎに再び腰をおろし、上掛けの中に手を滑り込ませると、そっとアリシアの手を握り締めた。

 流れ込むあたたかなぬくもりは、アリシアのたかぶった心を落ち着かせてくれた。

「愛してるクラウス」

「わたしも愛しています」

「どこにも行かないでね?」

「どこにも行きません」

「ずっとずっとそばにいて」

「ずっとずっと、あなたのそばにおりますよ」

 剣を扱うクラウスの手は、ごつごつしている。荒れた感触に、懐かしさが胸に込み上がる。

 アリシアの目に、みるみる涙がたまってゆく。

「逢いたかったの……」

「わたしも。この24日、不安でなりませんでした。もしも目覚めなかったらと。あなたに逢いたかった」

 クラウスの声も震えていた。

「アリス」

「なに?」

「わたしは諦めない。何度でも陛下に申し上げる。アリスを妻にしたいと」

 アリシアはクラウスを見つめることしかできなかった。感極まった思いは、言葉を奪う。

「離れたくないのは、わたしのほうなんです、アリス」

 アリシアのまなじりから透明な筋が流れた。クラウスはそれをそっと拭うと、アリシアの唇に唇を重ねた。

 長い長い孤独な旅から、ようやく還ってこれたのだ。



 だが、目覚めたアリシアを祝う宴が始まるよりも、王宮内は緊張をはらんだ不穏な空気に支配されていた。王国西部に領地を持つサージ伯爵が叛旗を翻したせいだ。

 王立軍や男たちの緊迫感は、王宮奥のアリシアの部屋にまで伝わっていた。ぴんと糸が張られたような空気は、ひどく懐かしい。数年前まで、この緊張は生活の一部だった。

 侍女のヘレナがクラウスの到来を告げた。

 部屋に通されたクラウスの姿に、アリシアは目をみはった。

「どうしたの、その恰好……」

「これから、戦場に行かねばなりません」

 クラウスはくすんだ色の鎧に身を包んでいた。相変わらず舌の上で言葉を転がすような喋り方だ。アリシアは、そんな彼の言葉を信じられなかった。

「そんな。どうしてあなたが行くのよ!」

「サージ伯爵はなかなかのやり手でね。これ以上戦闘が長引いたら、彼に賛同する諸侯が出ないとも限らない。だから、わたしが呼ばれたんです」

 絶望的状況を打ち破ることのできる男。それがクラウスだ。そんなクラウスを誇らしく思っている。

 けれど。

「いや。行かないで。ひとりにしないで。お願い、そばにいて……!」

「アリス」

「そうだ、一緒に行くわ! わたしも戦場に行く!」

「無茶言わないで」

「行かないで、お願い……!」

 とにかくいまは切実にクラウスの存在が必要だった。いまここで彼と別れてしまうと、もう二度と逢えなくなる気がしてならなかった。

 恐ろしいあの夢は、アリシアのすぐ後ろで鋭い爪を研いでいるのだ。

「あなたを守るためなんだ」

「だったら」

 クラウスはその腕を摑むアリシアを引き寄せ、強く抱き締めた。

「必ずあなたのもとに戻ってくる。だから、すまない」

 アリシアの背にまわした腕に一度力をこめ、クラウスはそっと身体を離した。肩から垂れる黒いマントを翻らせ、彼は出陣していった。

 行ってしまった。

 アリシアはただ、震える思いを胸に、その背中を見つめることしかできなかった。



 クラウスが向かったセンジ高原グランジュが最前線であると知ったのは、彼の出陣後、しばらくした頃だった。

「お父さま!」

 閣議の間にいたマルクに、アリシアは鋭い声を叩きつける。閣僚たちの間抜けた顔の奥に、平然と表情を崩さない父の姿があった。この何年か遊びほうけていた人物には見えない。やはり、他の閣僚たちとは違い、マルクは戦国の頂点に立つ男だ。

 アリシアはマルクに詰め寄った。

「結婚に反対するだけじゃ気が済まないわけ!? どうして最前線に行かせたのよッ!」

 爆発するほどの怒りを抑えられなかった。

「ちゃんと判るように説明して! それともなにか後ろめたいことでもあるわけ!?」

 マルクは娘の激昂に対し、しかし目をうっとりと細めた。

「落ち着きなさいアリシア」

 ひと呼吸のあと、マルクはありきたりの言葉を吐いた。もちろん、こんな言葉でたぎる怒りを落ち着かせることなどできるはずがない。

「誰かさんのおかげで24日も眠らされて、目覚めたと思ったらなに? クラウスが最前線に飛ばされるなんて、なんなわけ!?」

「お前はますますリーナに似てきたな」

 いきなり頬を緩ませる父親に、アリシアは面食らった。リーナとは母親の名前だ。

「なに考えてるのよッ!」

「お前を守るためだ。我慢なさい」

「守る? いったい誰から? なにから守るのよ!」

「わしからお前を奪おうとする者からだ」

「は! 女々しいことを」

「女々しいだと?」

 剣呑な声を返すマルクに、アリシアは畳みかける。

「お母さまが恋しいんでしょう? だから一番似ているわたしを手放さない。お姉さまたちのように諸侯に嫁がせない! どんなに信頼している者にもやろうとしない! ずっとそばに置いておく、それが! それが、わたしを守るってことなわけ!? ふざけるのもいいかげんにして! なんのためにわたしずっと眠っていたの。いますぐクラウスを戻して! 公私混同するなんて最ッ低!」

「アリシア」

 マルクは目を丸くさせた。愛娘の言葉に驚きを隠せなかったマルクだったが、すぐにもとの芯の通った表情に戻った。

「公私混同はお前のほうだ。恋人だから夫だからと、いちいちそんなことを聞いていては、この戦国の世を制することなぞ無理なのだ」

「戦国の世?」

 アリシアは訊き返す。マルクは追うように頷いた。

「ノーマインのザクセン侯、シューメイクのルバイヤー侯、そしてわし。ひと言で言えば、この三者が三つ巴の状態だ。だがこの戦いでザクセン侯が崩れる。クラウスなら、それができる」

 確かに、そうだ。

 いまは戦国の世だ。

 どうして忘れていたのだろう。

 アリシアは唇を噛み締めた。

「才気煥発なクラウスにしか頼めないことなのだ。お前から引き離すためにグランジュに遣ったわけではない」

「クラウスが危険なことに変わりないわ」

「どの軍人だって同じだ。ここで玉座にふんぞり返っていても、どんな危険があるかしらん」

「そうかしら」

「なんだその顔は。なにが不満なんだ。お前だっていつも危険にさらされているんだぞ。昨日も、お前の毒見が死んだ。お前の代わりに、何人目か知らぬ娘が命を落としたんだぞ」

 アリシアは目を瞠る。

「わしが王になればこんなこともなくなる。そのために、クラウスに頑張ってもらっているんじゃないか。奴だって充分承知のうえだ」

「わたしを置いて最前線に行くことが?」

「そうだ」

 信じたくなかった。そんなわけないと、誰かが叫んでいる。いまのアリシアにはクラウスが必要だと判っているはずなのに。

 突然、扉が音をたてて開いた。いつの間にかアリシアとマルクは謁見の間にいた。

 現れたのはクラウスだった。

「!?」

 どうしてここにと訊くよりもまず、彼の凄惨な姿に目を疑った。身を包む鎧は生々しい血にまみれ、悪魔の爪痕を思わせるほどの傷が無数についていた。日に焼けた精悍な顔には重たい疲れがくっきりと浮かんでいた。漆黒のマントは切り刻まれ、おどろおどろしい不気味な染みに染まっていた。

 クラウスは左足を引きずりながら玉座に近付く。ぼんやり宙を見据える彼の瞳に、アリシアの姿は映っていない。

 はっと我に返ったアリシアは、いまにも倒れそうなクラウスに駆け寄り身体を支えた。だが、無造作に振り払われた彼の手に、無情にも拒まれてしまう。

「なにがあったクラウス」

 尋ねるマルクに、クラウスはがっくりと膝をついた。

「申し訳ございません」

 クラウスのそのひと言は、彼の姿の意味をアリシアに知らしめた。マルクの顔が、たちまち真っ赤に染まる。

「なんたることか!」

 唾を飛ばすマルクに、クラウスはひたすら畏れ入る。その姿に、アリシアの胸が痛む。

「グランジュを落とせなかったと!? それでのこのこ戻ってきたのか、この莫迦者がッ! ええい、よくもそれでアリシアとの結婚を願い出られるものだな!」

「それとこれとは話が別よッ」

「お前は黙っておれ」

 マルクは冷たい視線をクラウスに投げたまま吐き捨てた。

「覚悟はできておるな」

「はい」

「覚悟って、お父さま? どういうことなの、クラウス……」

 話の流れの変化にアリシアは戸惑う。クラウスはアリシアにまったく気付いていないのか、なんの反応も示さない。そこへ、ひとりの鎧姿が入ってきた。がしゃがしゃと金属のこすれる音が、胸にひそむ不安を逆撫でする。腰に下がるひとふりの剣ばかりが、目に焼きついて離れない。

「なんなの、これ。誰よ、あれは、お父さま!?」

 鎧姿はクラウスの前で止まった。顔を上げたクラウスは、虚ろな眼で鎧姿を見つめる。

 アリシアは、この人物の意味を知る。全身から、一気に血の気が引いた。

「ちょっと、やめてよ、やめなさい!」

 柄に手をやった鎧姿に、アリシアは飛びついた。鎧姿は小柄だったが、ものすごい力で抵抗された。

 揉み合ううち、兜が脱げ落ちた。途端、至近距離に飛び込んできた相貌に、アリシアは愕然とした。

 目の前に現れたのは、白い肌、褐色の髪、同じ色の瞳。

 見たことがあった。

 何度も何度も、鏡の中で目にしている。

 アリシア・エルフルト―――自分だった。

 展開についてゆけず呆けるアリシアの横をすり抜けた鎧姿の彼女は、すらりと剣を抜いた。

 振り返ると、何故かその偽アリシアが掲げているのは、いなくなったカレスだった。カレスの頭をむんずと摑み、ぴんと伸びたしっぽの先を高い天井に差し向けている。偽アリシアは抜け殻のようなクラウスを見据えていた。

 逃げて、と叫びたかったが、喉は恐怖に凍りつき、声が出てこない。身体は拘束されたように硬く、動けない。

 カレスが鳴いた。

 それが合図だったのか、偽アリシアはカレスを振り降ろした。その先に、クラウスの首。

 あっけなく、ひとの頭が飛んだ。

 後を追うように噴き出した鮮血が、偽アリシアを襲う。偽アリシアは暗い笑みをたたえ平然とそれを受ける。だが、血に染められたのはアリシアのほうだった。血しぶきは偽者に降りかかっているのに、彼女の鎧は僅かも汚れない。少し離れたところにいるアリシアのドレスが、みるみる真っ赤な血に染め上げられ、ぐっしょりと重みを帯びた。

 なにがなんだか判らないアリシアの視界に、血の海に崩れ落ちたクラウスが飛び込んできた。その光景に、アリシアは更に目を瞠らせる。

 クラウスの鎧はなくなっていた。筋肉に包まれた精悍な身体が、アリシアの目の前で急速に縮んでいった。

 縮んでいるのではない。

 判ったときは既に骨に皮がへばりついているだけになり、ついにはみすぼらしい白骨と―――



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