第19話 赦された涙

 気合で這いつくばっていたライラだったが、ジェトが階段の向こうに消えた事を確認すると、とうとう力が尽きて、ぐしゃりと崩れ落ちた。

 目を虚ろに浅い息を繰り返すライラの額を、リラが指でそっと撫でる。


「ライラ。大丈夫。私がついてるよ」


 魔術師の少女から頼もしい言葉をもらったライラは、微かに微笑むと瞳を閉じた。

 そのまま動かなくなったライラを、カカルは泣きそうな顔で見る。


「死んじゃったんですかい?」


 リラは首を横に振った。ライラの頭を両手で包み、


「眠らせたんだよ。痛そうだったから」


 と言った。

 そして、ハワラとカカルに順番に顔を向けると、いつもの笑顔で声をかける。


「じゃあ、ライラを聖なる池まで運ぼうか」


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 カエムワセトが礼拝堂に入ると、蛇の魔物は兵達の攻撃を受けながらも、まだ暴れ回っていた。幾つかの松明は倒され、床に散らばった薪が、まだ炎を燃やしている。

 蛇の魔物は、先程の傷が効いているのか、動きが鈍くなっていた。だがカエムワセトの姿を見つけると、鞭のように大きく身体をしならせて、周りの兵達を型破りな強力ごうりきで蹴散らした。

 四方に張り飛ばされた兵達だったが、そこは鍛えられた軍人である。すぐさま起き上がり、武器を構え直した。


「【邪魔立てするな!】」


 再び飛びかかろうとした兵士達に、蛇の魔物が声高に吠えて、彼らの動きを制止させた。

 そして、ゆっくりとカエムワセトの正面にその身をくねらせた蛇の魔物は、本来ならば蛇には存在しない下瞼を持ち上げ、その目に笑みを作った。


「【これより先は因縁の対決となる。無粋な横やりを入れるでないわ!】」


 その意味深げな発言に、カエムワセトは「因縁?」と眉を寄せる。

 蛇の魔物はカエムワセトの質問には答えず、シューシューと鼻を鳴らした。


「【女の屍を越えてきたか】」


 嘲りを含んだその言葉に、途端にカエムワセトの眼光が鋭くなり、全身に殺気を帯びた。

 兵士たちは、温和な男が見せたその驚くべき変化に、ぞくりと背筋を震わせた。だが蛇の魔物はむしろそれを楽しむように、傷ついた体を持ち上げて左右に揺れた。


「【人間ごときが、よくもここまで追いつめてくれたものだ。褒美に我の名を教えてやろう。我が名は『守護する者』だ。トトの書の最初の守護者である】」


 カエムワセトの目が驚きに見開かれる。

 予想だにしていなかった蛇の正体を告げられた王子は、古の王子ネフェルカプタハに倒されたと聞いていた大蛇の存在を思い出した。


 トトの書は初め、ナイル川の底深くに埋められ、それを蛇やサソリが取り巻き、更にそれを大蛇が守護していたと伝えられている。ネフェルカプタハは大蛇と闘い、トトの書を手に入れた。その時の大蛇が、目の前の蛇の魔物だった。

 カエムワセトは、トトの書を手にしたネフェルカプタハが神々の怒りに触れて命を落としたとは聞いてはいたが、トトの書を守っていた大蛇がその後どうなったのか聞き及んではいなかった。

 それがまさか、生きていようとは思ってもみなかった。


 驚きのあまり言葉を無くしている王子に、『守護する者』は身体を揺らしながら話を続ける。


「【ネフェルカプタハに書を奪われた罪で、我は天に帰る事を許されなかった。我はずっと、ナイルの川底を彷徨った。するとある日、奴と同じ高い魔力を持った王族の匂いがした。見上げると、王子が何人か水面を泳いでいた。そのうちの魔力持ちと、ネフェルカプタハの姿が重なった。我は復讐心に駆られた】」


 そこで、カエムワセトの手がぴくりと震えた。「まさか・・・私たちの・・・」と『守護する者』を困惑した表情で見つめる。

 『守護する者』は、カエムワセトの反応を楽しむように、再び目を細めた。


「【ようやく気付いたか。おまえの足を引いたのは、我だ!】」


 周りで武器を構えていた兵達も、『守護する者』が暴露した真実に騒然となった。

 昔、ナイル川で溺れかけたカエムワセトをプレヒルウォンメフが命を賭して助けた話は、当事者の意向を無視する形で、美談として城勤めの者に限らずに広く伝わっている。

 第3王子の死因に第三者の思惑が絡んでいようとは、誰も思ってもみなかった。


「【だが、お前の足を攣らせたはずが、川底に落ちてきたのはおまえの兄だった・・・】」


 『守護する者』はそう言うと、悔しそうにこうべを垂れた。


「【そして、あろうことか成長したお前は、トトの書を求めてそれを手にしおった。だがすぐに書を返したお前に、神は天罰を与えなかった。故に決めたのだ!我が貴様に罰を与えると。ネフェルカプタハが妻子を奪われたように、貴様の愛する者も奪ってやるとな!】」


 首を垂れていた『守護する者』は、言葉を重ねるごとに頭を持ち上げ、徐々にその語勢を強めた。


「では、兄はお前に・・・」


 カエムワセトが言わんとしている事を悟った『守護する者』は、「【はっ!】」と嘲笑気味に吐き捨てた。


「【我か?兄を死に追いやったのは間違いなくお前だ!お前に我を拒む力が足りなかった故だ!トトの書を求めた愚かな王子よ。その愚行を犯したのは確かにお前であり、ネフェルカプタハだ。お前は罰を受けねばならない。お前が撒いた種だ。ハワラの苦しみ、仲間の死、弟の身の危険。全てがお前を中心に起こっている事だ!】」


 『守護する者』の饒舌な語り口は、エゴイスティックとも言えた。元をたどれば、これは『守護する者』とネフェルカプタハが元となって引き起こされた災いであり、カエムワセトはそれに巻き込まれた人間の一人にすぎない。そして、そこに思い至らないカエムワセトではない。しかし、カエムワセトは災いの根源を追求するよりも、それを避けられなかった己の弱さと至らなさを恥じる人間だった。


「・・・お前の言う通りだ。私にもっと力があれば、皆をこんな目に遭わせずに済んだかもしれない。だから今はお前によりも、自分自身に憤りを感じる」


 そう言って、瞼を落としたカエムワセトの姿に、『守護する者』が高らかに笑った。


「【それでよい。どこまでも愚かな王子よ。己を憎み蔑むがいいわ】」


 そして、勝ち誇った笑みを浮かべると、首を前へ滑らせ、自責の念にとらわれている王子の顔を覗き込んだ。


「【我が真に欲っしていたのはお前の苦しみだ。血を分けた弟でもなければ、病死した装飾細工師でもなければ、神官でもなければ、弓兵でもなければ、お前自身でも無かった!お前がお前自身を殺めたい程に憎む心そのものだ】」


 その言葉に、カエムワセトはふと瞼を上げた。

 そして、再びその瞳に怒りと軽蔑の感情を宿した王子は、顔を上げ、『守護する者』の息遣いを感じながら、闇を貯め込んだ蛇の大きな瞳を睨んだ。


「私の苦しみなど、くだらない。そんなものを欲するなど、お前はその程度か」


 静かな口調の中にとてつもない怒りを含ませ、剣を握る手に力を込める。

 カエムワセトはその剣を、大きく横に薙ぎ払った。

 だがその一撃は、身体をくねらせた相手に呆気なくかわされてしまう。

 カエムワセトは素早く剣を構えなおした。

 いつの間にか、神殿は元の色と影を取り戻している。しかも、松明の幾つかは倒されてしまったため、暗闇も深い。

 もう本当に後がない事をカエムワセトは悟った。

 深く呼吸して、焦りを相手に悟られぬよう気持ちを落ち着かせる。


「私は子供の頃から、誰かに守られなければ何も成し遂げられない頼りない人間だった。そんな私がここまで来れたのは、お前が望んでいなかった者達の命があったからだ。だから、だからこそ私は――」


 言いながら、次の一撃の為に腰を落としたところで、新たな声が礼拝堂に加わる。


「そりゃ違うね。王子様」


 聞き覚えのある声は、礼拝堂のどこか見えない場所から響いてくる。


「あの女があんたの盾になったのは、あの女にとってあんたが真の主君だったからだ。あんたの周りに人が集うのは、あんたが頼りないからじゃなく、あんたに人を惹きつける才能があるからなんだ――よっ!」


 言葉の最後で、列柱の一つの影からキラリと光るものが飛び出した。そしてそれは、『守護する者』の首筋に命中する。


「よっしゃあ当たった!」


 柱の陰から、拳を掲げたジェトが現れた。

 これまでにない、身をえぐってくるような痛みを覚えた『守護する者』は、悲痛な悲鳴を上げてのたうちまわる。しかもその痛みは、まるで根を張るように、『守護する者』の身体を浸食していった。

 その様子からリラの魔術が効いている事を確認できたジェトは、カエムワセトに叫んだ。


「王子!今度の矢はリラ製だ。絶対抜けません!」


「すまない。恩にきる」


 カエムワセトは再び剣を構えなおす。


「【こしゃくなぁぁ~っ。その頭、食いちぎってやるわぁぁっ!】」


 『守護する者』はその身をくねらせると、最も近くにあった影に飛び込んだ。だが、首筋に刺さった矢が、その位置を的確に示している。


 礼拝堂の中を滑るように移動する矢を目印に追い、相手が出て来る瞬間を待っていたカエムワセトは、『守護する者』が真横の壁から飛び出してきた所で、剣を振るった。

 刃を中心にして、大蛇のその身体が大きな口から水平に真っ二つに分かれていく。

 そして、上下二つに分かれた『守護する者』の身体は、床に落ちると形を崩して泥水となり、やがて焦げ付く様な音を立てながらら干上がると、細かい粒子となって宙に消えていった。

 そこには魔術がかけられた矢が一本、残された。


 兵士達がおそるおそる敵が消えた場所に集まりざわめく中、ジェトがカエムワセトに駆け寄った。


「退治しちゃったんすか?」


 『守護する者』が消えた場所を見やりながら訊ねたジェトに、カエムワセトは「ああ」と答えながら剣の刀身を見る。そこについているはずの黒い血は、やはり本体の消失と共に消えていた。


 剣を鞘に戻したカエムワセトは、ジェトが持っている見覚えのある弓に目を留める。


「ジェト。その弓は・・・」


 途端、ジェトが慌てて弓を後ろに隠した。その意味を理解したカエムワセトは表情を曇らせ、「そうか・・・」と低く呟き、ジェトを通り越して礼拝堂を出て行く。


「あ、あのおっ!」


 ジェトは慌ててカエムワセトの背中に呼びかけた。


「さっき言った事、ちゃんと保障します。オレ、新しい頭目と反りが合わなくて盗賊団脱走するくらい人の好き嫌いはっきりしてるんで。・・・ラムセス大王は確かにすげえお方だと思うけど、俺はあんたのほうが好きっすよ。――あ、変な意味じゃなくてね!」


 わざと明るく振る舞おうとするジェトに、カエムワセトは顔を半分だけ振り返らせると、悲しげに微笑んで俯いた。


「ありがとう。だが、私はまた――」


 その時、「兄貴ぃ~」という間延びした声とともに、カカルが走って来た。

 ジェトはずぶ濡れの子分の姿に、目を丸くした。まるで川か池からそのまま出てきたようで、通った所にはところどころ水溜りができている。


「お前、何やってたんだ?ベタベタじゃねえか」


 濡れた身体でまとわりついてくる子分を避けながら、ジェトが訊ねる。

 カカルは満面の笑みで両手を腰にあてると、大仕事をやり遂げた子供のように誇らしげに胸を張った。


「リラと一緒にライラさんの怪我治してたんすよ。ほら」


 後ろを振り返ったカカルの向こうから、リラとハワラに支えられたライラが、壁に手をつきながら歩いてきた。三名ともずぶ濡れで、足元もおぼつかないが、ちゃんと生きている。


「凄かったっすよ。リラが自分の指から取った血を池に一滴入れて、そこにライラさんと入ったら水面がぱーっと光って。あっという間に傷がなくなったんスよ」


 カカルが興奮気味に、両手を広げてその時の現象を表現する。

 カエムワセトは瞬きも忘れて、自分の代わりに矢を受けた忠臣の回復した姿を見ていた。やがて足早に駆けだす。

 カエムワセトは腕を広げ目の前の忠臣を抱こうとした。が、その腕が届く直前に、ライラは身を低くして床に這いつくばった。

 いきなり視界から消えられ固まるカエムワセトの足元で、ライラは「お許しください!」と 土下座で許しを請うた。


「最後まで殿下をお助けできなかった上、臣下以外の者に己の弓を託した言語道断の行い!全て、私の不徳の致すところでございます!」


 カエムワセトは行き場の失った両腕を下ろし、困ったようにライラを見下ろす。

 カカルとハワラは可哀想な生き物を見るような目で、抱擁に失敗した王子を憐れんだ。


 本来ならばここで一言皮肉でも言いそうなジェトだったが、ライラの発した台詞に大いに不服なところがあり、主にひれ伏している女兵士に突っかかる。


「ちょっと待て!てめえが俺に弓を押し付けたんだろうが!」


 憤慨するジェトの文句にライラは身を起こすと、「うるさい!あんたに軍人の忠誠心が分かるか!」と言い返した。

 そしてあろうことか、「もういいでしょ返しなさい!」と、ジェトの手から自分の弓をひったくった。

 その可愛げのない態度に、ジェトは顔を真っ赤にして怒る。


「俺はちゃんと矢を中てたんだぞ!ちったあ褒めたらどうだ!」

「はいはい!よくできました!」

「心がこもってねえーっ!」


 二人の間で子供の喧嘩の様な応酬が始まったが、それはカエムワセトがライラを腕に抱きしめた事で終了した。

 そこにいる全員が驚きに言葉を失う中で、カエムワセトは「よかった。本当によかった」と繰り返す。

 全身真っ赤にして硬直しているライラがその言葉を受け取れたかどうかは不明だが、その他の面々は、二人の様子に闘いの終わりを実感して、笑顔で顔を見合わせた。


「ハワラ!――ハワラ!」


 突如、神殿の外から女性の呼び声が聞こえた。

 聞き覚えのあるその声に、ハワラは急いで声が聞こえた方に向かって走る。

 ハワラが神殿の前庭に出ると、そこには大勢のメンフィスの住民が集まっていた。殆どが南側の居住区に家を構えている者たちである。

 この騒ぎで目を覚まし、何事かと見に来たらしい。援軍の兵士達が家へ帰るよう促してはいるが、民衆たちは声高に、空から降って来た大蛇やアヌビス神、そして、足元にごろごろと転がっている蛇の死骸の説明を求めており、一向に帰る気配は無かった。


「母さん!」


 ハワラは群衆の中に、自分を呼んでいた人物の姿を見つけて駆けだした。

 ほかの住人達と同様に騒ぎで目を覚まし、目の前で起こっている不思議な現象の数々に、ミイラ処置室から消えた息子が関わっていると直感したハワラの母は、一心不乱に息子の姿を探していた。

 欲してやまなかった呼び声とともに自分の腕に飛び込んできた息子を、ハワラの母は、しっかりと抱きしめる。


 涙を流しながら抱き合っているハワラと母親を遠目で見ながら、ジェトがカエムワセトに問う。


「知ってる奴に会っちゃ、まずいんじゃありませんでしたっけ?」


「まあね。けれどもう、起こってしまったものは仕方がないんじゃないかな」


 苦笑いで答えたカエムワセトの寛容な意見に、ジェトは思わず声に出して笑った。


「そっすね。なんでもありな夜だしな。もうどうでもいいや」


 ジェトは清々しい気持ちで空を見上げた。

 暗雲が立ち込めていた夜空はいつの間にかいつもの快晴に戻り、東の方は、少しずつ明るみを帯びてきていた。


 夜明けであった。


―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・―・


 現場では、休む間もなく戦後処理が始まっていた。

 急に疲れの波が押し寄せてくるのを感じたカエムワセトは、倒れている石像の腕の部分に腰を降ろすと、ホルス神殿を見上げた。そして、隣に同じように座ったリラに話しかける。


「少しやりすぎたかな。この空間だけ、光と闇の均衡が崩れてしまった。私もなんだか、中身が空っぽになった気分だよ」


 リラはにこりと微笑むと、「大丈夫」と答える。


「そのうち戻るよ。それまでは、ちょっと影が薄くなるけど。ワセトの魔力もすぐには無理だけど、ちゃんと元のようになるから」


 リラの回答に、カエムワセトは「そうか」と微笑んだ。そして、胸のあたりを撫でながら不思議そうに首を傾げる。


「自分でも驚いているんだ。あれほど無茶をしたのに、この程度で済んでるなんて」


 なりふりかまわず魔術を連発するようになってから、カエムワセトはトトの書の反動による後遺症くらいは覚悟していた。しかし、今は強い疲労は感じるものの、後遺症の気配はおろか、魔術の使用時に感じた心臓の痛みすら無い。

 それを聞いたリラは、まぶしそうに目を細めると、カエムワセトの胸のあたりに目をやった。


「途中から、ワセトの中に別の魔力を感じたよ。イエンウィアと、もう一人の神官さんの」


 そして、愛おしむ様な声で続ける。


「助けてくれていたんだね」


 途端、カエムワセトが手の甲で両目を覆った。

 悲しみと謝意の涙を一生懸命こらえる青年の背中を、リラは優しくさする。


「もう泣いていいんだよ、ワセト」


 だが、まだ涙を流そうとしない様子に、リラは両腕をその震える背中に回して、周囲を行き交う人々に泣いている事を悟られぬよう、一軍の指揮を終えた王子の顔を隠してやった。


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る