煉獄螺旋 3
「はじめまして……で、いいかしら?」
少女は鈴の音のような透き通った声で言った。
「ど、どうもはじめまして」
この子ががさっきの猫の女神様が言ってた人だろうか。
なんだか、どこかで会ったことがあるような気がする。気のせいか?
「どうかしら。ワタシはあなたのことは知っているけれど、今のあなたがワタシのことを知っているのかは、わからないわ」
少女は柔らかい調子で唄うように言う。その仕草がなぜだか懐かしい気がした。
ともかく、猫の女神様の時のように勝手に好き放題言われて見捨てられてるのはごめんだ。
この俺の今の状況とか『門』とか『捻れてる』とか、そこらへんのことを聞き出さねば消えるに消えられないよ。
「色々、君が説明してくれるってあの猫の女神様が言ってたんだけど……」
尋ねると、少女はなぜか少し顔を伏せて困ったような顔をした。
「そうなの。ワタシも女神様にそう言われて困ってるの。あの女神様ったらいいかげんなのよ。だって、ワタシも別に詳しいわけじゃないのよ。ただ、経験しているから体験として知ってるってだけで」
「経験? 君は僕と同じで、なんかヤバい『門』をくぐっているって女神様に言われていたけど、その、ヤバいって言い方もなんか気にかかるんだけど、そもそも『門』って何なの?」
少女は口を開きかけたけど、言葉が出てこなかった。
「ごめんなさい。今のワタシにはうまく説明できそうもないわ。そうね、きっと前にどこかで説明したことがあるから、その時の映像を出そうかな」
少女は人差し指を空中でくるりと回した。するとその指の軌道に合わせて空間が歪み、まるで水面のように波紋がゆらめいた。そして、空中にモニター画面のように映像が映し出された。
「ま、魔法?」
「そんなようなものね」
食堂のような場所。たくさんの学生らしき若者がいて、そこに『俺』がいた。記憶にない映像。着ている服も記憶にないし、場所も記憶にない。
『俺』らしき人物はカレーを食べている。いかにも学食の一番安いメニューって感じの具の少ないカレーだ。
映像は少し引きの画面になり、正面に座る少女を映し出した。そこに座っていたのは、顔立ち自体は整っているが決してパッとするような派手さはない、どこにでもいそうな少女……つまり、いま目の前にいる少女そのものだった。
「この映像はなんだ?」
「ここではないどこかで起きたことよ。あなたとワタシが同じ大学に通っているのね」
確かにそこに写る『俺』は若くて、少女と同い年くらいだ。
少女は親しげに『俺』に話しかけているが、『俺』は少し面倒臭そうに相槌を打ち、目の前のカレーから目を離そうとしない。
集中して見ていると、食堂のざわめきが聞こえてきた。
少女の言葉に意識を向ける。
『……例えば、旅行に行ってホテルで迎える朝とか、部活で疲れて帰りの電車でうたた寝しちゃった時とか、目が覚めて一瞬、あれ、ここはどこだっけってなること、時々あるでしょ。大体が寝ぼけてるだけで、すぐに脳が覚醒して思い出してしまうんだけど、あれって実はそうじゃないのよ』
少女は『俺』に何かを説明していた。
知らない少女が知らない世界の『俺』に説明している映像だった。
これが現在の俺が少女に聞きたいことの答えなのだろうか。
耳を澄まして会話に集中する。
『世の中には並行世界への入り口がたくさんあって、人々は知らぬ間に並行世界へ続く次元の
少女の目の前には食べ物はない。少女は俺に話をするためだけにそこに座っているようだった。
『普通の人なら、並行世界に迷い込んでも脳がそのことに気づかないように上手くコントロールするのだけど、あなたはそうでもないみたいなの。自分でも感じない?』
映像の中の俺はチラリと視線をあげ、少女を見たがすぐにカレーに戻り、「別に」と言った。
カレーを食っている俺はとても真面目に聞くような態度ではない。むしろ迷惑がっている気配すらある。
なんだ、この映像は。記憶にない。
「このあなたはワタシのことを頭のおかしい人だと思ってるみたいね」
目の前の少女がクスリと笑って言った。
映像の中の少女は聴く気のない俺に向かって喋っている。
『これだけは覚えておいてほしいんだけど、本当に近づいてはならない危険な門が時々あるの。それは並行世界ではなく異世界に続く門よ。絶対に異世界に続く門には近づかないで』
映像の中の俺がようやく顔を上げた。
『並行世界と異世界って何が違うんだよ』
『全然違うわ』
『わかんねえよ。それに近づくなって言ったって、門ってのが俺には見えねえんだから気をつけようがないじゃん』
『なら、せめて螺旋階段には近づかないで。貴方と螺旋は相性が悪いわ』
『なんだよそれ。意味わかんね』
そう言い残して俺は空になった皿が載ったトレイを持って立ち上がった。
俺が立ち去ったところで宙に浮かんだ映像は揺らめいて真っ暗になった。
俺は混乱しながらも、映像の中の会話と今の状況を照らし合わせていた。
「つまり……今のは並行世界での君との会話ってことなのか? ここじゃないどこかの並行世界では君とは友達だったのか?」
「この映像を見る限り、そうみたいよね。あんまり仲が良さそうに見えないけど」
彼女は他人事みたいに言う。
ともかく、混乱しそうになる頭を整理する。
つまるところ、『門』ってのは並行世界への入り口で、それが世の中にはたくさんあるってことか。
そして、並行世界ではなく異世界に繋がる『門』も存在している……と。
異世界に行ったのは俺じゃなくて砧なんだけどな。
「あなたのお兄さんも異世界に行った事があるみたいね。でも、あなたも覚えていないかもしれないけれど、過去に通常では到達できない世界に迷い込んでしまったことがあるの。そのせいで煉獄螺旋に巻き込まれたの」
「煉獄螺旋……。それはなんなの?」
「やっぱり、あなたも知らないのね」少女は落胆したように目を伏せた。
「どういう事?」
少女は戸惑う俺を見て、再び空中に指を振った。するとまた映像が現れた。
今度は見覚えのある場所だった。机が等間隔に並んでいる広い空間。黒板があって教卓があって……、つまり、そこは教室だった。
驚いた。俺が通っていた高校のように見える。
放課後のようで夕暮れ時だった。窓が空いていてカーテンが柔らかく膨らんでいる。窓の外がオレンジに輝いていた。そうだ、ここは二年生の時の教室だ。二階で校庭側に面していた。懐かしい。ふと、誰もいないと思われた教室の窓辺に制服姿の少女が座っていた。頬杖をついて窓の外を眺めていた。少女の顔立ちは整ってはいるが決してパッとするような派手さはなく、どこにでもいそうな少女だった。肩にかかるくらいの長さの黒髪。真っ直ぐに切り揃えられた前髪は眉毛を隠している。少女は先ほどの映像とは違い、不機嫌そうな顔をしていた。
そこに学ラン姿の男がやってきた。その男は高校時代の『俺』だった。もちろん、こんな映像の記憶はない。これも並行世界の映像だと言うのか。
現れた学生時代の『俺』は親しげに少女に話しかけているが、少女は不機嫌そうな顔のままだった。さっきの大学での映像の互いの表情を取り替えたような構図だった。
少女は『俺』を睨みつけて言った。
『教えて。煉獄螺旋って何なの?』
驚いた。この映像では立場が逆のようだった。
『俺』は呆れたように肩をすくめて答える。
『前も言ったろ。煉獄螺旋ってのは、この宇宙すべての可能性を含んだものだ。解決していない全ての謎とも言えるし、ネジ式に続く輪廻の輪とも言える。同じ座標をパラレルに通過する並行世界と言っても過言ではないし、交わることのない放物線であるとも言える。解決されようとしている段階のまま放置され完結した推理、完成したハテナ。それが煉獄螺旋だよ』
『俺』は何を言っているんだ。今の俺には全くわからないことを『俺』はスラスラと並べ立てた。
『全然意味がわかんないよ』
少女が吐き捨てるように言って、窓の外に目を向けた。
少女の視線に釣られて窓の外を見る。そして、外の景色を見て驚いた。
窓の外には校庭が広がっていた。
どこまでもどこまでも。夕日に照らされた校庭が永遠と地平線の先まで広がっていた。そして、その先に螺旋状の塔が見える。天空高く伸びる塔は夕焼け雲に霞んで頂上は見えない。夕日を浴びて、螺旋の塔はキラキラと輝いていた。
見知った場所のようでまったく理解のできない風景だった。けれど、なぜか既視感があった。
『どうやったらここから抜け出せるのよ?』
画面の中の少女が問うと、学生姿の俺はやれやれと言いたげに笑った。
『簡単に抜けられるさ。それに気づけば』
『だからどうやって!?』
『どこまでも永遠に校舎と校庭だけが続く世界なんてどう考えても現実なわけじゃん。まるで夢の中みたいだろ? なら試したほうが良いことが一つあるっしょ?』
少女はまだ気づかないようで『だから、ソレは何よ』と語気を荒げた。
学生服の『俺』は自らの頬を掴んで引っ張る仕草をした。
少女は顔を赤くして何かを言い返したが、『俺』が再び何かを言うと、逡巡したのち、そっと自分の頬を細い指でつねった。
少女の頬はみょーーんとゴムのように伸びた。少女が驚いて手を離すと、頬はパチンと音を立てて戻った。
学生服の『俺』は声をあげて笑った。嬉しそうに笑っていた。
映像はそこで雲が散るように消えた。
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