なぼちょ 5
「ど、どういうこと?」
冷蔵庫の真ん中に、ローストビーフのパックが二つ無造作に置いてあった。
「ワタシ、お惣菜なんか、ローストビーフなんか買ってない!」
ユメは悲鳴混じりにへなへなと尻餅をついた。
「つまり、えっと、この部屋に誰かが入っていたっていうこと?」
ユメがこのローストビーフを買っていないということは、ユメが今日仕事に出掛けて帰ってくる間に誰かがこの部屋に入り惣菜を冷蔵庫に入れたってことだ。ユメはさっき鍵を開けて入ってきた。この部屋はアパートの五階だった。窓やベランダから侵入される可能性は低いと思う。窓は閉まっていたし。
ということは部屋に侵入した何者かは鍵を開けてこの部屋に入り、内側から鍵を閉めたということだ。
鳥肌が立った。ゾワって全身に。この部屋のどこかに誰かが潜んでいるかもしれない。誰もいなくても鍵を閉めて外に出たということなら、そいつはこの部屋の合鍵を持っているということだ。たった今誰かがここに入ってくる可能性もあるってことだ。
ここがまったくもって安全な場所じゃないという事実が脳裏を駆け抜けた。不安が全身を包んだ。
その時、
『ピンポン』
インターホンがなった。
咄嗟に時計を見る。深夜二時。この時間に来客?
ってか、オートロックのアパートなのに、玄関のチャイムが鳴るっておかしいよね。
顔を見合わせる。
ユメは怯えた目で私をみていた。そんな目で見られると、こっちまで怖くなってくるじゃん。
静寂。
意識を玄関に向ける。シンとした静けさ。部屋の暖房の音だけが耳に入る。ユメと二人、息を潜めて玄関のほうを見る。
カチカチという金属音が玄関の方から聞こえてきた。
何かを差し込む音。
少しの間の後、ガチャリと鈍い音。扉が開く音。
私たちは子羊みたいに震えるだけで身動きひとつ取れなかった。
バタンと扉の閉まる音。
誰かが部屋に入ってきたのが気配でわかる。
硬い足音。
靴も脱がず玄関に入った何者かは、一直線に短い廊下を抜け、私たちのいる部屋へゆっくりと姿を現した。
黒いフードを被った異様に背の高い男だった。
猫背の体を揺らして、男は私たちの前に立った。
「……どこだ」
男は暗い声で言った。右手にはナイフが握られていた。
「『カケラ』はどこだ」
尻餅をついたまま震えているユメの肩を抱いて男を睨む。
「な、ななんだよ、あんた。け、警察を呼びますよ」
スマホをなくしていたことが頭によぎったが顔には出さない様にする。
「煉獄螺旋のカケラはどこだと聞いている」
「し、知らないよそんなの! なんか勘違いしてんじゃないの」
必死に己を奮い立たせて言い返す。けど、俯いて顔の見えない男の口調とか、喋ってるちんぷんかんぷんな内容とか、話が通じる相手じゃない感じで焦る。
「お前は……誰だ?」
しかし、突然男は私を見て困惑した声になった。
「こ、答える必要なんかないよ!」
もしかしたらコミュニケーションが成立するかもしれない、と恐怖の中にも一縷の望みが見えかけたのだが。
「なぜ、お前がここにいる?」
「そ、そんなの、勝手でしょ!」
「お前は……この世界に存在してはいけない存在だ」
「何言ってんだよ」
「お前は……この世界に存在してはいけない存在だ」
男は壊れたテープみたいに同じことを繰り返すと、突然ナイフを私に向け、まっすぐに突進してきた。
「きゃあ」
避けようとしたが、一瞬、しゃがみ込んで震えているユメの心配をしたのがまずかった。
ユメを守ろうと体を前に出してしまった。
男はワタシだけを狙っていた。背の高い男の体当たりをモロに喰らって、突き飛ばされて食器棚に突っ込むようにして倒れ、眩暈と激痛に目をひらけば腹にナイフが深々と刺さっていた。
「か……かはっ」
ジュワリと、熱した鉄を体に流し込まれたように、腹から全身へ痛みが広がった。
激痛に悶え、床に臥す。
「……お前はこの世界に存在してはいけない存在だ」
男はそう吐き捨てると、ユメには見向きもしないで身を翻し部屋を出ていった。
ユメが駆け寄ってきて、私を抱え上げた。
「ドーラさん!ドーラさん!」
悲鳴をあげてユメが私の名前を呼ぶ。けど、私は返事ができないほど意識は混濁していた。
嘘、やだよ。こんなんで死んじゃうの私。
痛みよりも全身が世界にドロリと広がるような不思議な感覚に揺られていた。
息もできない。激痛の走る腹部を押さえて悶えるだけ。
死ぬのか。
結局、誰だか思い出せない子の家で、誰だかわからない男に刺されて……。
私は死ぬのか。
視界が暗くなっていく。深い海の底に沈むように心が閉じていく。おしまいか……
とんだ悪夢だよ。
「……そう。これは夢です」
私を抱えているユメの声が突然、淡白なものになる。
なんて今言った?
苦痛に顔をしかめながらユメの顔を見上げる。
「ならどうしたらいいんでしたっけ?」」
ユメの表情が見えない。どんな顔をしているのだ、そして、何を言っているのだ。
視界は霞み。痛みだけが全身を包む。痛い、痛い。
悶える私を見下ろして、ユメは続けた。
「あなたは煉獄螺旋の渦にいるんです。ドーラさん……あなたは誰なんですか?」
私は……。
そうか。私は何かを思い出した。
それが何かよくわからなかったが、何かを忘れていたことを思い出したのだ。
私は最後の力を振り絞って頬をつねった。
みょーんと情けなく私の頬は伸びた。痛みはまったくなかった。
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