なぼちょ 3
☆
部屋に入るとユメはクッションを出してくれて私をカーペットの上に座らせ、温かいルイボスティーを入れてくれた。
深い赤褐色のお茶は冷えた体だけじゃなくて、心も温めてくれた。ようやく緊張の糸が解けたのか、いまさらボロボロと涙が溢れてしまった。怖かった。あーまじで怖かった。死んだと思ったー。
「顔が真っ青ですよ。怪我とか無いですか? ともかく警察に電話しましょう!」
ユメはすぐにスマホで警察に電話をかけた。ユメはスピーカーにして警察とのやりとりを二人でできるようにしてくれた。
近くの公園で殺人事件らしきものを目撃した。殺人犯のような男に追いかけられた。ということを伝えると、警察はすぐに現場にパトカーを出すことと、周囲をパトロールすることを約束してくれた。
そして、目撃情報を詳しく伺いたいので後日、警察署まで来てくれないかと言われ私は了承した。
「ひとまず、これで安心ですかね……。よかったら今日は泊まっていってください。今から外に出るのも危ないと思いますので」
ユメはコートを脱ぎながら言った。
そこで私は初めて気がついた。彼女が部屋に入ってから、自分のことは後回しで私のために色々としていてくれたことに。仕事帰りだろうか。コートの下はゆったりしたワイドパンツにテーラードジャケットにクリーム色のハイネックニット。ちゃんと今年のトレンドも取り入れたオフィスカジュアルで、私みたいに安物ばかりをテキトーに選んでいる自由業の人間と違ってオシャンティだ。服装を見ただけだけでもちゃんとした真っ当な社会人をやっているのがわかる。平日の夜中に酒を補充しようとコンビニに行くような雑な生き方をしている私のために、迷惑をかけたことが申し訳ない。
「何を言ってるんですか。ドーラさんのためならなんだってしますよ」
彼女はとても親切だった。それになんだか子犬を思わせる人懐っこい笑顔。
けど、やっぱり彼女のことを思い出せなかった。
お茶を飲み、少しだけ落ち着くと、ようやく周りを見る余裕も出てきた。
ユメの部屋をぐるりと見渡す。段ボール箱が並べられた殺風景な部屋だった。
「引っ越してきたばかり?」
私が尋ねるとユメは自分の部屋を見渡して首をすくめた。
「……ええ。仕事が忙しくて荷解きができてなくて、すみません」
「なんで謝るのよ。でも、こんな遅くまで仕事? 大変だね」
当たり障りのない会話から記憶を探る。
「はい。ブラックですよねー。みなし残業込みでも全然給料低いし。でも、楽しいんで今のところいいんですけどね。経験積んで転職しますよ。ドーラさんはなんでしたっけ? なぼちょ、でしたっけ?あのおかしなサークル活動はまだやってるんですか?」
むむ。なぼちょのことを知ってるってことは、やっぱり私が忘れているだけで、この子との関係は浅くないのか。それなりに親密だったのだろう。やばいなぁ。記憶力ってこんなに落ちるのかな。まだ二十代なんだけど、脳トレとかしたほうがいいかな。
「やってるよー。それにしても、アルバンズピザで働いてたのなんて、結構前だけど、よく私のこと覚えていたね」
「ドーラさんのこと、忘れるわけないじゃないですか」
当たり前のことを言わないでくださいよ。みたいな顔でケラケラとユメは笑った。
「高校生になって初めてバイトしたのがアルバンズピザだったんです」
初体験ってなんでも記憶に残る。彼女にとって初めてのバイトだったから、私のことは些細な会話とかも何かと印象に残ってるってことなのかなぁ。
「高校生だったらおしゃれなカフェとかでバイトしたいとか思わなかったの?」
当たり障りのない会話を続ける。どこかのきっかけで私も何か思い出すかもしれない。
「アルバンズが家から近かったんですよ。親が渋谷とか駅前の繁華街のお店は危ないからダメだって言って許してくれなかったんです」
過保護ですよね、とユメは照れたように笑った。
ユメが働いていたという下高店に私がヘルプで行っていたのは多分、そんなに長い期間ではない。
フリーターになってからだっけな。いや、就活が大変だという話を下高店の店長にしたような記憶があるから、大学3、4年の頃か?
まったくもって自分のことなのに記憶がない。
月に何回かヘルプに行かされていたのは覚えているし、バイクで向かうその道中で一時停止違反で警察に捕まって、違反はしていないと駄々をこねていたらパトカーが3台くらいきて、おおごとになって凄く反省したのは覚えているし、下高店は自分の働いている店より閉店作業がテキトーで楽な店舗だな、という記憶はあるんだけど、彼女のことは全く記憶にない。参った。ユメは私のことをとてもよく覚えているのに。
「ワタシ、ドーラさんに憧れていたんです」
「私に? どうして?」
「生まれて初めてのバイトで、右も左も分からなくて、それなのに人員不足で研修とかそんなにしてもらえないまま、キッチンに立たされて、電話対応も苦手だったし、先輩も厳しくて、バイトに行くのが辛くなったり帰りに泣いちゃったりしてたんです。そんな時期にドーラさんがヘルプで来てくれたんです」
なんとなく思い出す。そうだ。下高店はバイトリーダーが新入社員で配属された店長よりも仕事が出来て、それで増長しちゃって偉そうにしていて、店長の意見を無視したり、勝手し放題になっちゃって、店長派とバイトリーダー派で分裂するゴタゴタがあって、店長が飛んだり、堪忍袋の緒が切れたエリアマネージャーにバイトリーダーが辞めさせられたり、なんかめちゃくちゃ大変な時期があったのだ。バイトリーダーを慕ってたバイト連中もごそっと辞めちゃって、人手不足になってうちの店からヘルプを出すことになったのだ。ぼんやりとしていた記憶がだんだん戻ってきた。いや、彼女のことは全然思い出せないんだけど、ユメもそのタイミングで店に入ったのは間違いないだろう。多分。きっと。
「一番最初にドーラさんが来た日のことはよく覚えています。店の前に大きな黒いバイクがドコドコ爆音を鳴らしながらきたんです。テイクアウトのお客さんとかで、時々乱暴な人とかヤンキー系の人が来ることがあって、そういう人が来たのかと思ってビクビクしました。ちょうど注文が入って先輩バイトはデリバリーに行ってるし、店長も入金に行ってて、店にワタシ一人だったんです。バイクが店の前に停まって、バイクから降りた人が黒いヘルメットを被ったまま、テイクアウト用の受付カウンターを無視して、店の中にズカズカ入ってきたんです」
そうだ。あの頃、私は二五〇CC《ニーハン》のドラスタに乗っていた。スラッシュカットマフラーのサイレンサーが取れちゃって直管になってて、確かにうるさかったし、白バイに止められたこともあった。
「隣のお店からヘルプが来るということを聞いてなかったワタシは驚いて固まってしまいました。強盗じゃないかと焦りました。けど、その人はワタシの前でヘルメットを取って、髪をバサァって振って、瀬田店からヘルプに来ましたーってニカって笑って言ったんです。なんか凄くかっこいい大人の女性って感じがしました」
そんなことあったっけな。でも当事者が言うんだから、あったのだろう。
「それが一番最初でした。下高店のキッチンのバイトさんたちは物静かな女性が多くて、バイトする時は静かにしていなきゃいけないものだと、勝手に思っていたんです。でも、ドーラさんはハキハキしてて元気だし、すぐ変な冗談とか言ってみんなを笑わせようとするしドーラさんがヘルプに来てくれる日はみんな笑顔になって楽しかったんです。ワタシがピザのトッピングを間違えて、作り直さなきゃいけなくなっても、新人なんだからミスはするよ、気にしないでいいよって言ってくれて。心が軽くなったんです」
なるほど。そういうことか。私がヘルプに行くときというのは、下高店の店長が休みの日で、私が店長代行という肩書きだった。まじめなタイプのバイトーリーダーだと店長以上に厳しくしたりするのだけど、私はどちらかというと「店長いないからテキトーにやろうぜぇウェーイ」というタイプだった。他店舗で親しくもない知らないバイトの人たちに偉そうにするのが精神的に無理ってのもあったけど。
だから、下高店のバイトの連中には好かれていたような気がする。閉店後、みんなでラーメンを食べに行ったりもしたことがあった。そうか、その輪の中にユメもいたのだろう。
「いえ。ワタシは未成年で一〇時までしか働けなかったので、閉店後の集いには参加したことはなかったです」
……違った。むむむ。なるほど。と、なると本当に私が忘れてしまっただけなのか。我ながら薄情者だなぁ。
「でも、一度、ドーラさんのバイクの後ろに乗せてもらって、海に行ったことがあります」
え。そんなことあったかな。
「江ノ島まで行きましたよね。江ノ島に行くのって小学校の遠足以来だったんで、なんだか凄く思い出に残ってます」
ちょっと待って。本当に記憶にない。
バイクに乗ってた数年間、天気の良い日にちょっと走りに行くのに江ノ島はちょうど良いツーリングコースだった。第三京浜という高速道路を使えば小一時間で湘南に出れる。海沿いを走って、江ノ島に行って、海辺で少しぼーっとして、ソフトクリームとか食べて、それで帰るのだ。
バイト仲間数人で行ったことは確かにあるけど、他店舗のスタッフを連れて行った記憶はない。しかも、二人乗りなんてしてないと思う。
「ドーラさん覚えてないんですか? ほら、マックでハンバーガーを買って、海辺で食べていたら、空からトンビが飛んできて、奪われちゃったじゃないですか。あれ、びっくりしましたよね」
……あった。確かに、海辺でハンバーガーをトンビに強奪されてことはあった。けど、その時はひとりだったはずだ。
誰かと一緒に来ていれば、「怖かったー!」とか、「ハンバーガー返せー!」とか叫べたのに、ひとりだったから周りの人からの視線を集めちゃっても、何も言えず恥ずかしいやら虚しいやらで、そそくさその場を離れた記憶がある。その記憶は間違いない。絶対にひとりだった。……と思うんだけど。
「ドーラさん空に向かって、『ハンバーガー返せ〜っ』って叫んで、その後、『怖かったよ〜っ』ってワタシに抱きついてきたじゃないですか。いつもは頼りになる先輩なのに、なんだか凄く可愛くてキュンってしたの覚えてます」
嘘だ。……いや、でも彼女の表情を見るに、嘘をついているような顔はしていない。
なんだろう、この違和感は。ゾワゾワする。
「大学受験で忙しくなって辞めちゃいましたけど、今でもアルバンズピザでドーラさんと一緒に働いた時が一番楽しかったなって思い出すんです。いつかまたドーラさんに会いたいってずっと思ってたんですよ。こんな形ですけど、また会えて嬉しいです。……それも、これのおかげかなぁ」
ユメはそう言って胸元に光るネックレスを手のひらに乗せた。
銀色のチェーンの先、キラキラと光るペンダント。ぐるぐると螺旋を描くペンダントトップ。ユメの手のひらで一瞬、怪しく光った……ような気がした。
「それは?」
「実は最近、ちょっと嫌なことが続いてて、友達にお祓いでもしたらって言われていたんです。でも、ワタシ、神社とかそういうの苦手だし、それで占い師に見てもらおうと思ったんです。でも、占いってどこに行けば良いのかわからなくて仕事帰りにスマホで検索しながら駅に向かっていたんですけど、たまたま偶然、職場の最寄りの駅前に占い師がいたんです。高架下の薄暗い場所に赤いペルシャ絨毯みたいなのを敷いて、小さな机にぼんやりした灯りを立てて、『煉獄螺旋』っていう筆文字が書かれた不思議な看板が立っていました」
煉獄螺旋。なんだろう。どこかで聞いたことのあるような言葉だ。仏教用語とかかな。
「普段は駅前に占い師なんて立っていないんで、不思議には思ったんですけど、これも何かの縁とワタシはその占い師に見てもらうことにしました」
ユメはお茶を一口飲んで、そして話し始めた。
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