なぼちょ 2


 ☆


「お待たせ」


 砧の声でハッとしました。

 あれ。ここ、どこだっけ。と一瞬思ったが、すぐに思い出した。

 砧がトイレに行っている短い間に眠ってしまっていたようだ。


「なんだ。また寝てたの?」


「遅いんだもの」


「ごめんって〜」


 沈み込んでいた居心地のよいソファから、うんしょと立ち上がり、玄関に向かう。


「あれ? コマキは?」


「明日仕事だからって帰っちゃったよ」


 ……少々の違和感。

 あれ? さっきは休みって言ってた気がしたけど。


「そうだっけ。忘れてたんじゃない? おっちょこちょいだし」

「確かに」「とりあえず、コンビニ行くっしょ?」

「行こう」


 立ち上がり二人でアパートを出た。

 扉を開けると冬の冷気が頬を突き刺す。部屋の中のぬくぬくした空気がもう恋しい。

 ブーツを履くのが面倒で砧のサンダルを借りてきたことを後悔する。


「早く春が来ないかなぁ」


 一昨年買ったダウンジャケットの中、肩を縮こませて夜道を歩く。


「ドーラは夏と冬どっちが好き?」


 砧が震えながら聞いてきた。どっちが好きかな。ちょっと考えていると、砧は私の返答を待たずに続けた。


「ウチは夏のが好きになってきたな」


「へーそうなんだ。なんで?」


「学生時代とかはさ、夏はいくら脱いでも暑いけど、冬は着れば着るほど暖かくなれるから、絶対冬の方がいいと思ってたんだよね。夏は汗でベタベタするのも嫌だし。でも、大人になってさ、寒い方が辛いって思うようになってきたんだよ。肩こりとか冷え症とか、やっぱ冬の方がズシンってくるし、思えば冬で体が硬くなってる時の方が怪我しやすいなって。中学の陸部の時も、高校の軽音部の時も、怪我したのは冬だったんだよね」


「陸上部はわかるけど、軽音部でなんで怪我したのよ」


「ライブハウスの狭くて暗い階段でこけて」


「冬、関係ないじゃん」


「関係あるって。冬で体が縮こまってたから、普段はコケないような所でコケたんだよ」


「そういうもんかね」


「そういうもんよ。で、ドーラはどっちが好き?」


「んー、夏は冬の方が好きって思うけど、冬は夏の方が好きって思うね」


「現金なやつだな」


 無駄話をしながら夜を歩く。

 寒くて歯がガタガタ鳴ってしまう。寒いのは苦手だ。いや、暑いのも苦手だけど。

 コンビニまでは表通りを行けば一〇分。城址公園を通り抜けていけば七分ほど。寒すぎて一秒でも早く目的地に辿り着きたいので城址公園を抜ける道を選んだ。

 城址公園は人の気配もなく街灯もあまり多くない。

 暗い道で『痴漢に注意』なんて看板もあるので一人ではあまり通らない。けど、二人だったら大丈夫。って思ったけど、この暗さは痴漢的な怖さより、お化け的な怖さの方が大きい。


「知ってる? ここで昔、焼身自殺して人がいてね……」


 夜の底にぽたりぽたりと落ちる雨粒みたいな不穏な調子で、砧が喋り出した。


「もう少し行ったところの石段のちょうど手前に焦げた切り株があるんだけど、そこがその自殺の現場なんだって」


 砧はホラー映画とか好きで、心霊系YouTuberの動画なんかもよく観てる。私は本当にホラーが苦手で、テレビCMとかでホラー映画の宣伝が出ただけでも画面を見ないようにするのに。それでいうと、映画館に行くと上映前に新作映画のCMとか入るけど、その時にホラー映画の宣伝を流すのは本当に勘弁してほしい。大画面と大音量でおどろおどろしい演出を出してくるの心臓に悪すぎる。じゃあ目を閉じて耳でも塞いでればいいじゃんって言う人もいるんだけど、映画館で流れるホラー映画のCMごときで目も耳も塞いでる独り身の女とか痛すぎるじゃん。まだ女子大生が「こわーい」とか甘い声出して男に縋り付いたりするのは唾吐きたくなるけど百歩譲って許せるけど、私みたいなモテない女がそれやってたら痛すぎるじゃんね。だから、必死に怖くないですよって顔をするんだけど、やっぱ怖いから必死でどうでもいいことを考えて、意識を集中させないようにする。

 ……っていうのを今やってるわけだ。最近、映画見てないなー。


「焼け死んだ人の影が切り株に残ってるとか残ってないとか……こわ~」


 まあ、砧は私がホラー苦手なことを知ってて怖がらせようとしてくるわけで、私がこうして強がっていることもバレているのだけど。


「へえ。こんな森みたいなところで焼身自殺なんて火事にでもなったら大変じゃんね」


 別に全然怖くないですよーっという顔をして軽口を叩く。軽口を叩きながらも砧のそばにピタッとよる。なんか幽霊的なやつが飛び出して来たら、砧をどんって突き飛ばして餌食にして私は逃げてやる。なんつーこと考えながら。

 木々が生い茂る真冬の公園は虫の声もない。シンと静まり返っている。

 ちょうど、砧が言っていた石段の近くまでやってきた。城址公園というだけあって、元々は天正時代だかそこらへんのナントカ城の跡地で、土塁やらお堀やら郭の跡が自然に埋もれながらも残っている。石段の上もそういう城の一部があるらしい。石段が急で高いから登ったことはないけど。


「ほら、そこそこ。そこの切り株」


 砧が指を差す。確かに切り口が焦げたような切り株があった。


「人の形に見えない?」


「わかんない」


 というより見たくない、という気持ちでテキトーにあしらう。

 と、その時だ。


 どしん!!


 石段の上の方から何かが転げ落ちてきた。鈍い振動が地面を伝いこちらまで届くくらいの衝撃だった。


「何!?」とっさに砧にしがみつく。


「……人だ」


 砧が青ざめた顔で言った。


「嘘でしょ?」


 長身の砧の背後に隠れていた私は、恐る恐る首を出してそれを見る。

 振り返ると数メートル先の石段の下に横たわる人影が見えた。

 石段の上から誰かが転げ落ちて来たようだった。


「あ、あの。だ、大丈夫ですか?」


 砧は声を投げかけた。こういう時の砧はえらい。および腰になっても、すべきことを瞬時に判断して行動できる。

 が、返事はない。横たわる人影は微動だにしない。


「い、生きてますか?」


 砧がおっかなびっくり近づく。砧にすがりつくような形で、私もついていく。


「「あっ!」」


 私と砧が同時に気づいた。

 うつ伏せで倒れる人のコートが真っ赤な血によって汚れていた。

 長い石段を転げ落ちてきた拍子でついた怪我には見えない。

 まるで、刃物で滅多刺しにされたようにコートの背中、何箇所も破れて血が流れていたのだ。


 今度は頭上で物音がした。反射的に見上げる。

 すると、黒いパーカーのフードを頭に被った男が、石段の上からこちらを見下ろしていた。

 背が高いが病的に体は細い男だった。フードの中から頬のこけた男の顔が覗く。

 ぎょろっとした瞳に高いワシ鼻。なぜかどこかで見たことのある顔のような気がした。

 石段の両脇に等間隔に並ぶ灯籠の灯りに照らされて、男の手先がきらりと光った。

 包丁だ。男の持つ血の滴る包丁からはポタポタと血が滴り落ちていた。


「や、やばい。ドーラ、逃げよ!」


 砧が踵を返して走り出した。

 こういう時の砧は行動が早い。ずるい。

 私が棒立ちの間にもう駆け出している。


「ちょ! 砧! 待って!」


 慌てて私も駆け出す。

 砧は元陸上部。私はただの帰宅部。

 砧は動きやすいスニーカーを履いている。

 私は砧から借りたサンダルを突っ掛けている。

 当然、砧の後ろ姿がどんどん遠くなっていく。


「ドーラ、はやく!」


 そんなこと言われても、こちとら全力疾走だよ。

 足は止めずに、ちらりと後ろを見る。男は殺人の目撃者を消そうと決めたのか、私たちを追いかけるべく、石段を駆け降り始めていた。右手には血のついた包丁。

 けど、石段は急勾配だし明かりは灯篭のぼんやりした灯りだけだし、降りるのに時間がかかりそうだった。

 とはいえ、こっちもサンダルだし普段運動なんかしない、か弱い乙女だ。逃げ切れるかわからない。


 薄暗い城址公園の緑道を砧は脇目も振らず走っていく。必死に砧を追いかけるけど彼女の足は早い。木々に囲まれた道はうねうねとしていて、砧の後ろ姿はすぐに見えなくなってしまった。昼間でも数回しか通ったことのない城址公園。ハイキングコースみたいにいくつかルートがあるようだが、どの道を砧が選んだのかもうわからない。

 分かれ道をあてずっぽうで選んで走る。後ろを見る。男は石段を降りるのに手間取ったのか、まだまだ十分に距離はあった。うまく曲がり角を使えば撒けそうな位置。けど、男は見えなくなった砧のことは諦めたのか、私を標的にしているのが視線でわかった。

 最悪。やばいやばいやばい、やばいって!!


 大声を出して助けを呼ぼうかとも思ったが、こんな夜中の公園に誰かいるだろうか。それに、誰かが助けに来るより男に追いつかれる方が早い。追いつかれたらあの包丁で滅多刺しだ。

 一生懸命走っているけど、全力で走ること自体が久しぶりすぎて脚がもつれるし、息はすぐ上がる。

 砧の後を追って、ちゃんと公園の出口にたどり着けば、大通りに出てすぐコンビニがあるのだけど、気がつけばなぜか人気の無い裏路地の方の出口に来てしまった。コンビニより砧の家の方が近い薄暗い道だ。どこかで道を間違えたのだ。

 ちらりと振り返ると男の姿が見えた。距離はまだある。けど、確実に距離は縮まっている。このままじゃ追いつかれちゃう。

 ほぼパニック状態の私は自分の走っている道すらわからない。どっちに曲がろうかなんて考える暇もなく駆け込んだ路地の先は、なんと行き止まりだった。私道で一軒家がいくつかとアパートがある袋小路。やばい。ミスった。


 戻ろうかと一瞬思ったけど、男は私がこっち側に走って来たのは見られているはずだ。鉢合わせの可能性のが高い。そしたらブスリだ。

 私は慌てて奥のアパートの塀と非常階段とゴミ捨て場の隅に身を屈めた。隠れ場所としてあまり良くない。時間をかけて探されたら、見つけられてしまいそうだけど、薄暗いし気づかれないかもしれない。そのくらいの博打な隠れ場所だった。必死に息を潜め、恐怖で震える体を必死に抑える。

 なんでこんなことになっちゃったんだ。砧とコンビニに行こうとしただけじゃん。何も悪いことしてないじゃん。通り魔に遭うなんて天文学的確立だと思っていたけど、こんなの無理じゃん。突然すぎて対処できないじゃん。怖すぎるよ。

 しゃがみ込んで震えていると、男の足音が聞こえてきた。この袋小路の入り口で足音は止んだ。来るな。来るな。行ってくれ。じっと目を瞑り耳を澄ます。

 男の足音は止まったままだ。こっちを見ている気がする。大丈夫だ。動かなければ見えない。見えないと思う。見えないはずだ。来ないで、来ないで。

 男は動かない。足音は聞こえない。様子を伺いたいけど、顔を出すのは怖すぎる。じっと耐える。


 永遠に続くような時間。自分の心臓の音すらうるさく感じる。

 男は二、三歩、行ったり来たりした後、そのままどこかへ走り去っていった。

 助かった……?


 足音は消え、暗闇に静寂が残った。

 なんとか助かったのだ。よかった。

 ……けど、男の足音が聞こえなくなっても私はその場から動くことが出来なかった。ドッと体が重くなる。普段運動もしないだらけきった体をさっきの全力疾走で酷使してしまった。ふくらはぎも太もも、なぜか鎖骨あたりも、全身が痛かった。それに体だけじゃなくて、精神的にも疲弊してしまって、体は震えているし力が抜けちゃって、もう立ち上がることもできない。っていうか、もしノコノコ出ていって、あの男と鉢合わせしたらと思うともう動けない。あの男の瞳が脳裏に焼き付いて離れない。


 どのくらい、そこでしゃがみ込んでいただろう。砧に連絡をしようと、コートのポケットをまさぐって、スマホがないことに気づく。砧の部屋に忘れたのか、どこかに落としたのか。落としたのだとして、あの男に拾われていたらどうしよう。スマホを拾われていて、個人情報が抜き取られてしまっているかもしれない。

 どうしたらいいか、わからず固まっていると通りの向こうから足音が聞こえてきた。男が戻って来たのかもしれない。体が縮こまる。


 コツコツとアスファルトを刻む足音はこちらに向かってくる。

 抵抗するにしろ逃げるにしろ、立ち上がって体制を整えなければいけないのに、腰が抜けてしまってそれすら出来ない。恐怖に負けた私はただ目を固く閉じた。

 しかし。


「きゃ!?」


 足音の主は私の隠れるアパートの階段の前まで来て、悲鳴を上げた。


 予想しなかった女の子の声に驚いて、恐る恐る目を開く。

 目の前に立っていたのは若い女だった。見れば足元はヒール。

 冷静になれば足音がさっきよりも全然軽いものだった。恐怖のあまり男の足音と聞き間違えていたみたいだった。


「あ、あれ……? もしかしてドーラさんですか?」


 名前を呼ばれたことに驚いた。


「ワタシです! ユメです! 本当に会えた……!」


 なにがなんだかわからないが、女は私を見て嬉しそうなそれでいて泣きだしそうな表情になった。

 ユメ。ユメって誰だっけ?


 どこにでもいそうな平均的な顔立ちの女。肩にかかるくらいの長さの黒髪。真っ直ぐに切り揃えられた前髪は眉毛を隠している。

 顔立ち自体は整っているが、決してパッとするような派手さはない。そのせいなのか、それとも今の状況に頭が混乱してるせいなのか、誰だが思い出せなかった。


「アルバンズの下高店でバイトしていたユメです。ドーラさん、よくヘルプで来てくれてましたよね?」


 確かに私は学生時代にアルバンズピザという宅配ピザのチェーン店でアルバイトをしていた。バイクの免許を持っているキッチンが私しかいなくて、人員不足だった隣の店舗へよく駆り出されていた。

 ただ彼女のことは覚えていなかった。けれど、彼女の嬉しそうな顔と親しみのこもった声が、覚えていないとは言いづらい雰囲気にしている。


「懐かしいです。……でもなんでこんなところに?」


 そうだ。こんなところで世間話をしている場合じゃない。この時にも男が戻ってきて、二人まとめて襲われてしまうかもしれない。


「と、通り魔を目撃しちゃって、それでその男に追いかけられて……それで」


 状況を説明しようとしたが、うまく口が開かなかった。それほどに恐怖が全身に染み渡ってしまっていた。


「え!? 本当ですか!? ともかく、うちに入ってください!」


 ユメは驚いて辺りを見渡し慌ててアパートのオートロックを開けた。

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