亡霊2



 僕は恐怖のあまり年甲斐もなく悲鳴を上げて逃げ出しました。調整造林は規則正しい間隔で樹木が植えられた人工の森です。なだらかな傾斜はありますが地面は整備されています。脚がもつれても転ぶことなく走れたのは幸運でした。けど、同じようなスギやヒノキ系の改良種ばかりが広大な土地に等間隔に規則正しく植えられているため、自分がどこに向かって走っているのかわからなくなるのです。

 あてもなく僕はひたすら走り続けました。女はうめき声を上げながら僕を追いかけてきます。女の足取りは重く速度は出ていないはずなのに、それでも距離は広がりません。一定の距離を保ったまま、両手を突き出して追いかけてくるのです。


 広大な調整造林の中をいくら走っても、女は諦めることなく、うめき声を上げながら、僕のことを追いかけてきます。

 どのくらいの時間を逃げ回っていたのでしょうか。僕もいい加減、体力の限界になりました。

 息が上がり脚がもつれて、つんのめり転びました。


「だー!!もう限界だ! くそ! なんだってんだよ!」


 限界をとうに過ぎていました。脇腹が猛烈に痛く、足はパンパンになり、もう立ち上がることすら困難でした。

 やけくそになりながら上半身だけ起こし、追いかけてくる巨大な女を睨みつけました。


「なんだってんだよ! てめえ! このやろー!」


 恐怖を振り払うため叫びました。声は裏返ってしまいましたけど。

 僕の声に一瞬、大女はわずかに動きを止めました。


「き、来てみろ! このやろー! ただじゃやられねえぞ! 中学までジュードーを習っていたんだ! てめえなんか投げ飛ばしてやるぞ」


 少しでも威嚇をしようと、喚き散らしました。

 しかし、大女はもう僕の言葉には反応を見せず、振り子時計のように、ゆらりゆらりと上半身を不気味に揺らしながら近づいてくるのです。

 一歩一歩、うめき声と共に大女が迫ってきます。

 目の前まで来ると、女はさらに巨大に見えました。

 僕は体の震えを必死に抑えながら、女に立ち向かおうと全身に力を込めました。でも、腰が抜けてしまって立ち上がることもできませんでした。

 万事休すか、と諦めかけたその時です。


「ウヴァ……バァンソォコオ、アルヨォ」


 女が突き出した手をくるりと仰向けにして、手のひらを見せました。

 枯れ枝のように細く骨の節が浮き出た腕の先、平べったい手のひらには、一枚のシートのようなものが載せられていました。


「え……、ば、絆創膏?」


「ヒジィ……スリムイテ……イルゥ。ソレニ、ヒザモ……ウァア、イタソウ」


 骨と皮だけの指が僕の肘を指しています。

 見ると僕の右肘が切れて血が出ていました。女は呻きながら、その白眼のない真っ黒な不気味な眼で僕を見つめているのですが、どうもその瞳は僕に危害を加えようとしている色味が感じられませんでした。


「お、お前……まさか俺の怪我を心配して追いかけてきたの……?」


 恐る恐る尋ねました。


「アア、ゔああ。ソウ……」


 女は頷き、僕の前にポトリと絆創膏落とすと、ゆっくりとした動作で隣に腰掛けました。


「ヴォア……ツカ……レタ……」


「つ、疲れたって言ったのか?」


「アア、ゔああ。ソウ……」


 僕の隣に体育座りをした女はカクカクとした不気味な動きで頷きました。


「お、お前……なんなの?」


「ワ、ワタシハ……ヴァオア……ユードウイン」


「ユードウイン? あ、誘導員?」


「アア、ゔああ。ソウ……」


「何の?」


「ジブンガ、シンダコトニ、キガツイテ、イナイ、ヒトノ、タマシイヲ……タダシイ、バショニ、イザナウ、ユードウイン。ハイカラ二……イエバ、ナビゲェタァァア」


「ナビゲイターの言い方が怖いよ! ってか、え? つまり、僕は死んでいると?」


「アア、ゔああ。ソウ……」


 そっか。と僕は納得しました。あれだけの事故でかすり傷ひとつ負わないなんておかしいと思っていたんです。

 奇跡なんてそうそう起きないものです。ショックは意外とありませんでした。死ぬ時なんてあっけないものです。


「ココハ、セイト、シノ、ハザマ。テンゴク、デモ、ジゴク、デモナイ。」


「天国でも地獄でもない……」


「イクラ、ハシッテモ、ココカラハ、デラレナイ」


 なるほど。だから逃げても逃げてもこの女との距離は広がらないし、調整造林から抜け出せなかったのか。


「アア、ゔああ。ソウ……」


 でも、そしたら、この肘の擦り傷とか、膝を打ってできたアザとかはなんなのか。死んでいるのに怪我をするか、僕は疑問に思いました。


「アア、ヴァア……ソレハネ」


 うめきながら大女は教えてくれました。

 簡単にまとめると、霊体に傷がついたということでした。死んで霊体になってから、成仏せずにうろうろしていると、何かの拍子にこうして怪我をすることもある、ということでした。

 早く成仏しなければ、どんどんと霊体が傷つき、化け物のような姿になってしまう。と彼女は続けました。


「ヴォェア……ワ、ワタシノ……ヨウニ」


 女の喋りは途切れ途切れだし、うめき声混じりだし、聞き取りにくかったのですが、その声は深い悲しみがこもっていました。


「お前も、元はそんな姿じゃなかったの?


「アア、ゔああ。ソウ……。ケッコウ、カワイカッタト、オモウ」


「自分で言うのかよ」


 思わず笑ってしまいました。


「アア、ジョウダン、デス……」


 冗談とか言うのか、その見た目で。ってツッコみたくなりました。

 なんだか、この見た目は呪いのビデオから出てきたような女のことを怖いと思わなくなっていました。


「お前は成仏しないの?」


「ン……デキナイ」


「出来ないの? なんで?」


「エット、ソレハ……。ナガク、ナル……。」


「いいよ。もう死んでるから予定もないし。僕で良かったら、話くらい聞くよ」


 むしろ、ちょっと可愛らしさすら感じてきたのです。


「アア、ヴああ……。ジカンハ、タシカニ、アルネ」


 女はうめきながら、語り出しました。


 女はこの調整造林ができるよりももっと前の生まれだと言いました。

 スカイウェイが開通して、自空車が人々の足になり始めた頃です。

 彼女は今はなき、バードシティの地下街にあるデパートで働いていました。

 週六日勤務で、月給は二十万ほど。自空車で一時間ほどかけて職場へ通っていたそうです。

 給料も待遇も現代の基準から見れば、あまり良くなさそうですが彼女は特に文句はなかったそうです。

 それにはいくつか理由があったようですが、一番大きな理由は彼女が恋をしていたからです。


 相手はテナントのマネージャーでした。


「右も左も分からない女子校を出たての世間知らずの私に、彼はとても優しくしてくれました」


 ……という旨のことを女はうめきながら言いました。


 僕に言わせれば、彼女は都合よく使われただけのような気がしましたが。

 だって、話を聞けば、その三十代のマネージャーには妻子がいるというのです。

 妻子がいる男が若い女の子に手を出すというのがまず最低ですし、時に厳しく時に優しく指導してくれる上司がかっこ良く見えたと女は言いましたが、聞けば、怒鳴ったと思ったら髪を撫でてきたりと、聞いているだけでDV男的な臭いが沸き立つようでした。

 ですが、若い彼女はそんなことには気付きません。愛は盲目とはよく言ったものです。

 女はその男と深い関係になりました。

 いけないとわかっていながら、彼女は彼の唇を拒むことができませんでした。

 男は彼女に言いました。


「君のことを愛している。妻とは別れる。そしたら、一緒になろう」


 女はその言葉を信じました。

 後になって冷静になれば男の口車に乗せられていたのだと思う、と女は笑いました。

 まあ笑ったと言っても、ボロボロの歯を見せて「クヒ……グギ……ヒヒ」と地獄の釜が沸いたような音を立てながら肩を震わせただけなので、ちょっと怖かったですけど。


 男は案の定、いつまで経っても離婚はしませんでした。

 二人はダラダラと爛れた関係を続けました。


 そして、ついにその日が来るのです。


 仕事終わりに二人はいつものように別々にデパートを出ました。

 二人の関係は同僚にも、もちろん秘密です。


 別々の自空車で退社して、少し離れた場所にあるレストランで落ち合い、食事をとった後、女の自空車はレストランに停め、男の自空車に同乗してホテルへ向かうのが定番でした。

 その日も今日のように雨が降っていました。

 レストランまでの道中、ちょうど僕が事故を起こしたあの交差点の辺りで事故は起きました。

 女の車の前に信号無視をした自空車が現れました。女は避けようと咄嗟にハンドルを切りましたが、慌ててしまいコントロールを失い、信号機に接触して、まだ農地だったこの辺りに墜落してしまったのです。


 墜落した時、女はまだ生きていたそうです。重傷でしたが、すぐに手当てをすれば命に別状はなさそうでした。

 前を走っていた男の自空車が慌てて墜落現場まで降りてきました。空は雨雲が垂れ込めていて、スカイウェイからは墜落した自空車になど気がつきそうもありません。

 大破する女の自空車へ駆け寄った彼は、彼女が生きていることを確認すると、


「通信端末が無くてレスキューを呼べない。君のものを貸してくれ」


 と言いました。女は朦朧としながら助手席に置いたあった鞄を指差しました。

 男は鞄から通信端末を拾い上げました。


「よし。これさえあれば……。今から、レスキューを呼んでくるから、君はそこから動かないように」


 そう言って、男は通信端末を握ったまま、その場を離れました。


 ……そして、二度と戻ってきませんでした。


 すぐにレスキューが来れば、女は助かったでしょう。しかし、男はレスキューなど呼んでいなかったのです。

 彼女との不倫が露見しないように、男は女とのメールのやり取りが残っていた通信端末を奪ったのです。


 その後、男がどうしたのか誰にもわかりません。

 ただ、女はその男の言葉を信じて待ち続けました。こんなに朽ち果てた悪霊の如き姿になっても、彼が戻ってくることを信じ、ここにいたというのです。

 それで、成仏できなくなり、地縛霊のような形になってしまったのだそうです。


 この話を聞いて、僕は腹が立ちました。もちろん、その最低男に対してです。

 僕は女にその男の名前を聞きました。今からでも、なんとかしてその男に復讐してやろうと、思い立ったのです。

 しかし、僕は馬鹿でした。だって、彼女が死んだのはもう一〇〇年以上も前なのです。復讐も何も、その男はとうの昔に死んでいるはずです。


 女は男の名を言いました。

 その名を聞いた時、僕は衝撃を受けました。


 彼女が告げたその名は、なんと、あろうことか、僕の祖父の名前だったのです。

 まさかと思い、男の住んでいた場所や奥さんの名前を聞きました。

 女は住所や奥さんの名前までは覚えていませんでしたが、男の生まれたばかりの娘の名前だけは覚えていました。

 その名前は、僕の母の名でした。男は僕の祖父で間違いがありませんでした。

 祖父は僕が生まれる前に既に亡くなっていたので、僕は祖父のことを直接見たことはありませんが、母からは女癖の悪くてロクでもない爺さんだったと伝え聞いていました。まさか、僕の祖父がこんな酷いことまでしていたなんて。僕は絶句しました。

 僕は祖父と自分との関係性を説明し、祖父の非礼と愚行を詫びました。


「アア、ゔああ。ソウダッタノ……。ケド、アナタハ、ワルクナイ。アナタト、アノヒトハ、ベツ」


 女はそう言いました。

 だけど、僕の祖父のせいで彼女はこんなにボロボロになっても成仏できずにこの場所をさまよっている。

 申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。


「サア。ソロソロ、ジカン。アナタハ、ココニ、イテハ、ダメ。アナタハ、テンゴクニ、イケル」


「君は?」


「ワタシハ、ユードウイン。ズット、ココニイル、サダメ……」


「天国でも地獄でもない、こんなずっと雨の降っている暗い森で?」


「アア、ゔああ。ソウ。ズット。ココニイル。ヒトリデ……」


 表情があるのかないのかわからない、真っ黒な瞳の化け物みたいな顔なのに、それでも、彼女は少し寂しそうでした。


「君が天国に行ける方法はないの?」


「……アルニハ、アル、ケド。ダイジョウブ。キニシナイデ」


「大丈夫ってなんだよ。あるなら僕も手伝うよ。一緒に天国に行こうよ」


 僕は女のボロボロの手をとり、祖父の非礼と愚行を詫びました。


「ダメ。ワタシハ……イイノ」


 女は渋るように首を振ります。


「どうして。天国に行ける方法があるなら教えてよ」


 僕は食い下がりました。

 女は黙って俯いて、絞り出すように言いました。


「ワタシノ、シゴト、ミガワリ、ミツケレバ……。ワタシハ、テンゴク二、イケル」


 身代わり。つまり、彼女の代わりにこの地に彷徨う魂を天国に誘導する係をする者が現れなければ、彼女はずっとここにいなければならないということでした。

 僕の心に一瞬の迷いが生じました。


「ケド、イイノ。ワタシミタイナ、ヒト、ツクリタク、ナイカラ」


 女が僕の迷いに気付いたのかはわかりませんが、俯いたままそう言いました。

 彼女は自分の体が傷ついて元の面影も無くなっちゃっているけど、それでも優しい心は朽ちてはいないんだ。

 ずっとこうして人々を見送ってきたんだ。彼女のひとりぼっちの姿を想像したら決心がつきました。


「わかった。なら僕もこの世界に残る。天国にはいかない。ここで君と誘導員ってのをするよ」


 僕の言葉を聞いた女は戸惑ったような困ったような表情を見せました。まぁ真っ黒な開きっぱなしの瞳とだらしなく開いた口のままでしたけど。


「コノヤクメ、フタリモ、イラナイ」


「いいよ。一人より二人のが楽じゃん。君みたいな怖い外観のやつが迫ってくるより僕みたいな若くてかっこいい奴が話しかけた方が死者の魂も話を訊いてくれるって」


「アア、ゔああ。ソウ……?」


「そうそう。だから、僕もここに残る。僕の爺さんのせいで君がここにいるってのも申し訳ないしさ。いいんだ、どうせ死んじゃってんだもん。なんだか君とは意外と楽しくやれそうな気もするし。いいだろ?」


「メガミサマニ、キカナイト、ワカラナイ」


「なら、その女神様ってやつの所に行こうよ。そんで頼んでみるよ」


「アア、ゔああ。ソウ……?」


「そうそう。じゃあとりあえず女神様んところに向かおう。道案内してよ」


 そういうわけで、僕は彼女と一緒に、女神様の所へ直談判しに行くことにしたのです。

 僕は後悔なんてしませんでした。

 彼女とここで誘導員としてずっと一緒にいようと思ったんです。


 でも、これは夢です。


 ちょうど、そこで目が覚めたんです。

 そしたら、ドーラさんも砧さんも見当たらなくて、走って追いかけてきたんですよ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る