三章――⑤

 小学生の頃に、雅太の学年で輪ゴムを飛ばす遊びが流行った。

 きっかけはクラスメイトだったように思う。夏休みの自由工作で割り箸と輪ゴムを組み合わせた鉄砲を制作してきて、その格好良さに教室中の男子が盛り上がった。

 休み時間には黒板に的を描き、鉄砲を一人ずつ順に回して得点を競っていた。やがて興奮は別のクラスにも伝わって一大ブームになったのだけれど、雅太はいまいちその輪に入れず遠くから見守りがちだった。

 面白そうだなと思ったし、鉄砲を貸してほしいと言おうとしたこともある。が、控えめで恥ずかしがりやな性格が大いに影響してしまい、自分の席から動けないまま、娯楽に興じる同級生たちの背中を眺めることしか出来なかった。

 ある日、教室の掃除中に輪ゴムを一つ見つけた。誰かが使ったまま回収し損ねたものだろう。上履きに踏まれ、箒で掃かれたそれには埃が絡まり汚くなっていた。

 ――これってもう、誰も使わないよね。

 他の生徒たちは箒をバットに、丸めた紙をボール代わりに野球をしていて、雅太が輪ゴムを拾ったことに気づいていない。まるで盗みを働いたかのように、手にしたそれをこっそりズボンのポケットに押しこんだ。

 今にして思えば、わざわざ汚れたものを拾うだなんて、当時の自分はなにを考えていたのだろう。クラスメイトの使い古しを手にしたことで、自分も輪の中に入れたと思えたのかも知れない。

「……はー……」

 セイレイさまを祀る祠堂の前に立ち、雅太は憂鬱な吐息をこぼした。

 日課の挨拶をすべくここまで来たけれど、気が乗らないまま時間だけが過ぎていく。なにかしら祈ったところで効果が無いのは薄々感じており、月日を重ねるごとに虚しさが募る。

 それでも両親に怒られるかも知れないと思うと、手を合わせないわけにはいかない。

 周囲の音を聞きつつ目を閉じる。秋津家の繁栄と末永い加護を祈るのは毎日変わらない。ただ雅太には、もう一つ願わなければならないことがある。

 ――どうか、どうか俺の罪をお許しください。

 まぶたの裏に蘇るのは、輪ゴムを拾ったあとの一幕だ。

 学校からの帰り道で、雅太は指に輪ゴムを引っかけて遊んでいた。絡みついていた埃を取り除き、水で洗い流したそれはすっかり綺麗になって新品同然だ。まだそれほど使われたわけでは無かったのだろう、試しに引っ張ってみれば、輪ゴムは力強く数メートル先まで飛んだ。

 それだけのことがなぜか妙に面白い。どうすればもっと遠くまで飛ぶだろう。狙ったところにしっかり当たるだろう。クラスメイトが作った鉄砲が無くても、自分の手でいくらでも工夫が出来る。

 ふと横に目を向けると、道ばたに一輪の花が咲いていた。名前も知らないそれに向かって、雅太は輪ゴムを飛ばしてみた。

 輪ゴムは命中し、花を勢いよく揺らした。当たり所が良ければ茎を折ることだって出来るかもしれない。

 そのつもりでもう一度輪ゴムを引っ張ったのに、命中した先は花ではなかった。

 すい、と飛んできたトンボに当たってしまったのだ。

 タイミングが悪かったとしか言いようがない。あっと思った刹那、輪ゴムはトンボの頭と胸の間に当たり、分かたれた複眼が草むらのどこかに消えた。

 全身に冷や汗が流れた。トンボがセイレイさまの使いで、セイレイさまは我が家の守り神だ。自分は神の使いを殺してしまった。

 トンボの死体が残る道から逃げるように帰って、雅太が真っ先に相談したのは兄だ。

 セイレイさまを熱心に信じて厳しい両親と違い、十歳年上の兄は陽だまりのように優しく温かな存在だった。怒っているところを見たことが無く、泣きじゃくって胸に飛び込んできた雅太を、兄は制服の学ランが汚れるのも気にせず抱きしめてくれた。

『お兄ちゃんどうしよう、ぼくトンボを、トンボがね、来ちゃって、でもわざとじゃなくて』

『うん、うん。そうか。たまたま当たっちゃったんだな』

『ぼくどうすればいいんだろう。セイレイさまにおこられる?』

『そうだなあ。怒ってるかもしれないし、俺が一緒に謝りに行こう。ごめんなさいって本気で伝えたら、セイレイさまだって分かってくれるはずだから』

 雅太は兄と手を繋いで祠堂の前に行き、トンボを殺してしまったことを一心に詫びた。兄も手を合わせて弟の行為を許すよう祈り、きっとこれで大丈夫だと肩を撫でてくれたのだ。

 結局そのあと、両親にバレてしまったけれど。

 挨拶の時間でもないのに祠堂の前にいたのを父が不審がり、しつこく詰問された末に雅太はトンボを殺してしまったと白状した。あの頃は――というより、あの頃から嘘をつく器用さは無かった。

 怒りが凄まじかったのは母だ。寅雄と比べて信仰心が低いだとか、寅雄よりも頭が悪いだとか、とにかく兄との差を列挙して徹底的に雅太を叱責し続けた。なにより恐れたのは息子の罪をきっかけにセイレイさまの加護が薄れることだったらしく、「今後我が家に災いが訪れれば、それは全てお前のせいだ」と睨みつけられた。

 ――兄さんが慰めてくれたのが、唯一の救いだったな。

 目を開けて祠堂を見上げる。その周囲をトンボが数匹飛び回っているが、雅太を避けるようにこちらに近づいてこない。

 まるで、セイレイさまからの「お前にもう加護は無い」というメッセージのようだった。

 塀の向こうから車のクラクションが聞こえてきた。そのあとに耳の奥で響いたブレーキ音と母の悲鳴は、二年前からずっとこびりついて消えることは無い。

「駄目だ、行こう」

 トラウマの連鎖が始まるより先に、足早に本館へ戻る。今日は学校の授業が午後からであっても午前が暇なわけでは無い。両親は教室の生徒もとい信者との面会へ出かけてしまい、雅太は掃除洗濯など全て押しつけられたのだ。十二時前に家を出なければ電車に間に合わないため、それまでになにもかも終わらせなければ。

 少しでもやり残したことがあると、出来の良かった兄と比べられてしまう。

 まずは和館の掃除から始めよう。掃除機と箒を引っぱり出し、窓を拭くためのタオルと、それを浸すバケツも準備する。手を抜くと目敏い母に気づかれる。丁寧に、かつスピーディーに手を動かした。

 廊下の窓を拭きながら外に目を向けると、松越しに離れが映る。

『あのさ、秋津くんにちょっと聞きたいことあんねんけど』

 三日前、急に電話をかけてきた美希の言葉を思い出して、自然と手が止まった。

 仙嘉が消えてからというもの、彼女は雅太がいくらはぐらかそうとも執拗に安否を訊ねてきた。それもそうだ、二人は傍から見ていても非常に仲の良い友人だった。行方を気にするのは当然と言える。

 だから電話も、仙嘉捜索の進捗を伺うものだと思った。出ないまま無視することも考えたけれど、両親からの電話に三コール以内に出る癖がついていたおかげで、指は反射的に応答ボタンをタップしていた。

『仙嘉ならまだ見つかってないよ。俺も一生懸命捜してるけど、どこにいるのか全然……』

『ああちゃう違う。ちょっと別のこと聞きたぁて電話してん』

 話を遮られて雅太は眉根を寄せた。

 仙嘉以外の別のこととはなんだろう。ひとまず苦しい言い訳をくり出さずに済みそうで、内心少しだけ安堵した。

 だがそれもわずかな時間だった。

『秋津くんのお兄さんの子どもの名前って、秋津大和やまとくんでうとる?』

『……え』

『年齢は四歳やろか』

『な、んで、それを』

 なぜ美希が兄の息子の名前と年齢を知っている。

 彼女は仏壇――に両親が手を加えたセイレイさまの祭壇――を見たようだし、そこには兄一家の写真を置いてあった。本来ならば片付けておかなければいけなかったのだが、雅太がうっかりしまい忘れたのである。

 とはいえそこに名前が記してあったわけでは無い。他の場所にも名前や年齢が分かるようなものは置いていなかったはずだ。

 肯定と否定、どちらを選ぶべきか。スマホの持つ手に汗が滲む。

『ち、ちが……』

『ふうん?』

 声が震える。視界が歪む。

 雅太の異変に気づいた様子もなく、美希は『それだけ知りたかってん。ありがとね』と電話を切ってしまった。全身から力が抜けて、雅太はその場にへたり込んだ。

 ――あの電話はなんだったんだろう。

 離れをぼんやり見ながら考える。翌日、美希とは学校で顔を合わせたけれど仙嘉について聞かれることもなく、そもそも話しかけられることも無かった。雅太もまた、彼女に近づきすらしなかった。

 兄の息子の名前をどこで知ったのか、雅太に確認してどうするつもりなのか。聞きたいことは次々に湧いたのに、下手に声をかければこちらが墓穴を掘る自信しか無かったからだ。

 ばたばた、と。

 不意に離れの方から音が聞こえた気がして目を見開いた。

 あちらには誰もいない。それどころか、今の秋津家で自由に動き回れるのは雅太一人だけのはずだ。

 ――でも、今の音は。

 ――誰かが離れの中を走り回ってた、みたいな。

 しばらく待ってみたものの、音が再び聞こえることは無かった。

 ほっと胸を撫で下ろす。恐らく鳥が羽ばたいた音を聞き間違えでもしたのだろう。一週間近く緊張しっぱなしな日々が続くストレスで、些細な出来事さえ過敏にとらえてしまうようだ。

 離れから目を背けようとした間際、小さな黒い人影が縁側を走り抜けていった気がした。

 ひゅ、と息が止まる。指から力が抜け、タオルがべしゃりと床に落ちた。

 ――ち、違う。あっちには誰もいない。

 ――だから、そう。見間違えたんだ。虫とか鳥とか、なんでもいい。

 恐怖が足元から上ってくる。誰かに足首を掴まれたような感覚に陥ったのと同時に、ぴんぽーん、と軽い音が洋館から響いて、何者かに転ばされたかのごとく、雅太は驚きのあまり尻もちをついた。

 インターホンが鳴っただけだ。仰天した自分が恥ずかしくなって、雅太はがしがしと頭をかいて立ち上がる。

 秋津家には日々信者から野菜や米、酒など食べ物を中心に、セイレイさまに願いを叶えてもらうための捧げものが届けられる。今日も誰かがなにかしら持って来たのだろう。洋館の居間にあるモニターで相手を確認すると、黒髪の若い男が立っていた。

「……この人って」

 見覚えのある顔だ。確か三日前に「大学の偉い方がセイレイさまのことを聞きに来るの」と両親が言っていたが、その時に訪問してきた男ではないか。直接顔を合わせはしなかったが、お茶を出す時に横顔だけ見たのだ。

 今日も午後から取材があると耳にしていたけれど、予定の時間よりずいぶん早い。雅太は小走りで数寄屋門に向かった。

「こんにちは、秋津さんの息子さんですか?」

 応対した雅太に対し、男は低く落ち着いた声音で訊ねてくる。

 歳は二十代後半か三十代前半だろう。身長は雅太より五センチほど高く、黒いタートルネックと琥珀色のジャケットといういで立ちは、あまり〝大学の偉い方〟風に見えない。

 彼の横にはもう一人、もう少し歳が雅太と近そうな男がいた。こちらは黒髪の男よりさらに背が高く、栗色の髪と白いシャツ、灰色のニットにデニムのパンツとカジュアルな服装だ。

 二人から見下ろされる圧迫感を覚え、雅太はひっそり足を引いた。

「そうですけど、あなたは」

「申し遅れました。A大学で文化人類学を教えている福辺ふくべと申します。民俗学が専門でして、今は秋津さんのところで信仰しておられるセイレイさまについて、色々とお話を伺っております」

 福辺と名乗った男に名刺を差し出され、「受け取り方に作法ってあったっけ」などと考えながら雅太はそれを両手で摘まんだ。

「福辺……榛弥」

 ――あれ、なんか聞いたことあるような。

 雅太が首をかしげる前で、福辺は隣の男についても紹介してきた。

「彼は僕の生徒です。今回の調査に興味があるから是非同行したいと言うので連れてきました」

 どうも、と男に会釈されて、雅太も同じように返す。

「あの、うちに来られるのは午後からと両親に聞いていたのですが」

「ええ。前の予定が早く終わったので、少し早く着いてしまったんです。久美彦さんと玻璃恵さんはご在宅でしょうか」

「すみません。二人は今ちょっと出かけてて」

「おや、そうですか。何時頃に戻られるのでしょう」

「ちょっと分からないです。お約束の時間までには戻ってくるはずですけど」

「ほんならそれまで、中で待たせてもらうことて出来ます?」

 生徒だという男に問いかけられ、雅太の肩がぎょっと跳ねる。

 両親が戻ってくるまでだいたい三時間から三時間三十分ほどある。掃除も洗濯も済んでいないし、雅太も登校の準備をしなければならないことを考慮すれば、二人を家の中に招くのは難しい。

「……すみません、それはちょっと。申し訳ないんですけど、どこかで時間を潰してきていただけませんか。昼ご飯とか食べるなら近いお店も教えます」

「まあやっぱ、そんなあっさり入れさせてくれへんわな」

 どうするハル兄、と男が腰に手を当てて福辺に言う。

 ――この人たち、先生と教え子、なんだよな?

 ハル兄とはずいぶん気安い呼び方をするものだ。雅太が疑問を抱える前で、福辺は薄い唇にかすかな笑みを乗せる。

「言っただろ。門さえ開けてもらえばどうにでもなる」

「……え。あの」

 ぬう、と。福辺に顔を近づけられ、雅太は後ろへたたらを踏んだ。

「悪いな、秋津くん。中に入らせてもらうぞ」

「はっ? いやっ、ちょっと」

「君の両親が帰ってくるまでに調べたいことがあるんだ。構わないな?」

 先ほどまでの丁寧な口調はどこへ消えたのか。福辺から有無を言わさない圧を感じ、それでもどうにか「困ります」と首を横に振る。

「調べるってなにをですか。両親もいないのに勝手なことをされるのは」

「そんなら秋津くんが近くにったらええやんね」

 二人の後ろから高い声が聞こえて、雅太は言葉を詰まらせた。

 福辺と男が左右に避け、その隙間からよく知った顔が現れる。雅太より二十センチ近く低い背に、男とよく似た栗色の髪。鳶色の大きな瞳は、獲物を狙う猛禽類のごとく輝いている。

「暁戸、さん」

「あたしらだけで動くんがあかんのやったら、秋津くんが見とったらええわ。それやったら勝手しとることにはならへんやろ?」

 すぐそばまで迫ってきた美希に、じいっと顔を覗きこまれた。

「ここでぎゃあぎゃあ言い合いしとる時間あらへんねん。仙嘉がどこに居るかこっちも見当ついとるし、入らせてもらうで」

 屈してはいけない。断らなければいけない。家に入れたことを両親が知れば確実に怒られる。

 頭の中で警鐘が鳴り響いていたけれど、美希の一言にびくりと全身が震えた。

「……適当なこと言ってる、わけじゃない、ね」

 美希が力強くうなずいたのに続いて、福辺も「ああ」と応える。

 これ以上はもう、自分にはどうにも出来ない。諦めの境地で全身から力を抜き、雅太は三人が門を通り抜けるのを黙って見送った。

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