三章――④

「なんて読むか、これくらい教えなくても分かるか」

「トンボやろ」

 幸い美希は国語の成績が悪い方ではなく、漢字検定に挑戦したこともある。おかげで読みを言い当てるのに時間はかからなかった。期待していた回答に満足したようで、榛弥が「正解」と漢字の横にカタカナで読みを書きこむ。

「これをそのまま音読みしたのが〝セイレイ〟だ。つまりセイレイさまはトンボの姿をした神だと推測できる」

 確かに雅太からもトンボはセイレイさまの使いだと説明された。なんとなく頭の中で神さまめいた姿のトンボを想像してみたけれど、普通のそれより体や翅が大きいとか、人の言葉を喋るとか、それくらいのイメージしか湧かない。

「もとは神の使いとして扱われていたはずだが、前にアニミズム信仰について話したのを覚えてるか」

 少しだけ考えてから、美希は控えめにうなずいた。

「樹とか岩とか、そのへんのもんには全部神秘的な存在が宿っとる、やったよな」

「そう。そういう存在を〝精霊〟と称するわけだが、読みが蜻蛉と同じ、つまり同音異語だ。それがきっかけで、いつの間にか使いそのものが神として見られるようになった可能性がある。〝勝負ごとにご利益がある〟っていうのも納得できる。昔からトンボは真っすぐ前に進む習性や害虫を食べる習性にあやかって『必勝祈願・立身出世』の縁起物とされてきたからな」

「害虫を食べる……ってことはトンボって肉食なん?」

「そうだぞ。特にトンボの中でも最大級と言われるオニヤンマはスズメバチを捕食する」

 聞いたことのある種類だ。けれど見た目がすぐに思い浮かばずにスマホで検索すると、画像欄に大量のオニヤンマが表示された。

 ひと目見た瞬間、美希の脳裏に秋津家に訪問してすぐの時の光景がよみがえる。

 ――これあたしが見たのと同じやつちゃう?

 体長は人の手のひらと同じくらいで、ゴーグルに似た目は鮮やかなエメラルドグリーンだ。薄く透明な翅はガラス細工さながらの美しさで、黒い体や腹には等間隔で黄色い模様が入っている。

 同時に秋津家の洋館が脳裏をよぎった。漆黒の外壁に、玄関ポーチの庇や窓枠の山吹色はオニヤンマの配色にそっくりではないか。

「ほんなら名字は?」問いかけたのは壮悟だ。美希からオニヤンマの画像を見せつけられないようにか、顔の前で手を広げて防御している。「ハル兄の言い方やと関係あるみたいやったやん」

「大昔の日本でトンボは〝秋津虫〟と呼ばれてたんだよ。秋津家の名字はこれに由来したものと僕は考えている」

 思い返せば玄関を入ってすぐのホールに設置されていたシャンデリアにも、トンボの飾りが施されていた。あれもセイレイ信仰の一端だったのだろう。

 すい、と美希のそばをトンボが通り過ぎていく。それはそのまま壮悟に近づいて、兄はか細い悲鳴と共に立ち上がった。かと思えば足元に目を向けて、まるで磁石が反発したように勢いよく左に跳ぶ。

 傍から見れば奇怪かつ愉快な動きだが、美希と榛弥は彼になにが起こったのか察しがついた。

「男の子を踏むか、蹴り飛ばすかしそうになっただろ」

「どっちもや! ハル兄の話聞いとって横に居るん忘れとったわ、あっぶな!」

「幽霊って踏めるん? 透けとるもんや思とってんけど」

「いくらはっきり見えとっても煙みたいなもんやからな。触ろとしてもすり抜けてくけど、なんか気持ち的に嫌やん! 特に子ども蹴飛ばすんは幽霊やとしても罪悪感あるわ!」

「そういえばその男の子のことやねんけど」

 美希は仙嘉を捜していた際に、近所に住む女性から聞いた話を榛弥たちに話した。

 交通事故で死んだのは雅太の兄の寅雄で、彼の妻子は二年ほど前から姿が見かけられていない。そして壮悟に視えている男の子は秋津家になにかしら関係がありそうで、ずっと「お父さんがいなくなっちゃった」と血まみれになりながら訴えている。

「秋津くんは『亡くなったのはお嫁さんと子どもの方』て言うとったけど、それやと近所の人の『寅雄さんが亡くなった』って話と食い違うやん」

「どっちかが嘘ついとるかも知れへんってことか」

 仮に女性の話が嘘だとして、証言を偽るメリットが思い当たらない。秋津家になんらかの恨みがあって貶めようとしているなど隠された理由があるのかも知れないが、玻璃恵の体調を心配していたし特に因縁は無さそうだ。

 雅太が嘘をついたと考えればどうだろう。本当は兄が死んだのに、その妻子が死んだと話したのはなぜなのか。

「それもまた神隠し、か」

 ふ、とまるで榛弥が儚く息を吐く。煙草は咥えていないはずなのに、紫煙が宙に浮かんで見えるようだった。

「神隠し……仙嘉と同じ?」

「僕が前に『神隠しには願いが込められてるんじゃないか』って話したのを覚えてるか」

 電話口での榛弥の言葉を思い返して、はっと美希は彼の顔を見た。

 ――大事な人がいなくなってしまったけど、事件や事故に巻き込まれて、挙句死んでしまったなんて誰だって信じたくないだろ。そういう時に『あの人は神隠しに遭ったんだ』と理由付けして、どこかで生きているはずだと願うんだ。

「秋津くんのお兄さんもそういうこと?」

 近所の女性の話によれば、事故直後の玻璃恵はかなり取り乱して泣きじゃくっていた。それだけ愛していただろうし、息絶えてしまった現実を受け入れたくなかったに違いない。

 しかし、だ。

「……ケーキ……」

「なんやねんいきなり」ぽつりと呟いた美希に、壮悟が不審そうな眼差しを向けてくる。「腹でも減ったんか」

ちゃうわ。誕生日ケーキ! 仙嘉が誕生日やったからって、玻璃恵さんがケーキ出しとってん。確かそれ『寅雄にまだご飯届けてないから』って一切れ持ってったよなあって思い出して。やからもしかして、ほんまは生きとる、んかも……」

 悲惨な状況から奇跡的に一命をとりとめ、介護を受けながら生きながらえている可能性が無くもないのだ。

 仮にそうだったとして、雅太の「死んだのは妻子」という嘘を改めて考える。

 ――ちょっとひどいかも知れんけど、寅雄さんを介護したぁないから子ども連れて出てってしもた、とか?

 それに秋津家の面々が激怒して、二人はもう死んだものとして扱うことにしたとすればどうか。あり得ない話ではないが、かなり無理がある気がした。

 ――お兄ちゃんに視えとる男の子も誰なんか、分からへんままやし。

 ――さすがに仏壇にあった遺影は撮ってへんから「お兄ちゃんに視えとんのこの子?」とか聞かれへんかったもんな。せめて名前が分かったら……。

「ところで興味深い話がもう一つあってな」

 榛弥が丸太のベンチに手をつき、とんとんと指の先で表面をリズミカルに叩く。そのわずかな振動が、思考の沼に入りかけていた美希の意識を現実に引き戻した。

「セイレイさまのパワーを貰う教室とやらに、僕も参加出来ないか聞いてみたんだ。けどすぐに『無理です』と断られてしまって」

「? なんでなん?」

「男はセイレイさまからパワーを貰えないそうだ」

 くくっと低い声で笑って、榛弥がどこかに目を向ける。柱に蛇が彫ってあった社に視線を注いでいるようだ。

「玻璃恵さん曰く『セイレイさまに祈りを捧げ、願いを叶えていただくのは出来ます。しかしパワーを貰って体の中に宿せるのは女性に限り、残念ながら男性には諦めていただくほかありません』と。例外は秋津家の血を引く男だけだ。彼らには生まれた時からパワーが流れてるらしい」

「でもなんで女の人しかあかんの? セイレイさまってケチなん?」

「ただの女好きなんちゃう? やから男にはパワーあげたぁないんやろ」

 兄妹から思い思いの予想を聞いたあとで、榛弥が「違う」とばっさり否定した。

「じゃあ女性に出来て男性に出来ないことはなんだと思う?」

 またクイズかい、と面倒くさそうに壮悟が唇を尖らせる。

「そう不貞腐れるな。難しい問題じゃない」

「女の人にしか出来んこと……なんやろ」

「ヒントを出そう。美希はまだ経験してないが、僕の妻は数ヵ月前に経験した」

「……あたしも将来的に経験するかも知れへん?」

 榛弥はうなずいたあと「相手が居れば、だけどな」と付け足す。

 一人では出来なくて、美希がこれから経験するかも知れないこと。悩んだ末に思いつくものが無くて、美希は大人しく首を横に振った。

「正解は〝妊娠と出産〟だ」

 言いながら榛弥が己の腹を撫でるのを見て、美希もなんとなく自身のそこに手で覆う。

「『セイレイさまからパワーを貰っていい』と判断された女性は、特別な場所に十月十日とつきとおかこもる。一歩も外に出ず無心で祈る修行を経た末にパワーが宿る、というのは久美彦さんの説明だな」

「それも陰陽道が関係しとんの?」

 美希が感じた疑問を壮悟が代弁してくれた。榛弥は迷うことなく「いや」と首を緩く横に振る。

「これに関しては古代日本の土着信仰が影響してると思う。諸説あるうちの一つだが、大昔の日本人は、目に見えないはずの神を目に見えるようにした。その方法に〝憑依〟があって、巫女が神社ほか聖域とされる場所に一定期間こもり、体に神を身籠り――もとい神の力を降ろし、自分自身が神となって人々の前に現れた、とされている」

「確かにちょっとセイレイさまからパワー貰うんと似とる、かも……?」

「だろ。で、問題はここからなんだが」

 声のトーンを一段低くして、榛弥が厳めしい表情で腕を組む。いつになく困惑した様子の従兄に、美希も一層ただごとではない雰囲気を察した。

「美希の友だち――仙嘉さんだったか。彼女はこれを強制されている可能性がある」

「……どういうこと」

「パワーを貰う修行が出来ないなら、せめて修行をする場だけでも見せてもらえないか駄目もとで頼んだんだ。けど玻璃恵さんに『修行中の方がいらっしゃるのでお断りいたします』と言われて」

 美希の聞き間違いでなければ、志村は「お屋敷にどこかにセイレイさまが降臨される場所がある」「でも誰も場所を知らない」と言っていたはずだ。そこに一番乗りするのが目標とも聞いたが、彼女と会ってからわずか三日の間に、別の信者が修行を始めたというのか。

「榛弥兄ちゃんはそれが仙嘉かも知れんって思とんの」

「確証はない。ただ秋津家の息子と交際していて、かつ『セイレイさまに気に入られた』っていう説明と、僕が取材で見聞きした情報を組み合わせた結果、仙嘉さんは高確率で関わってるな、と」

 居てもたってもいられなくなり、美希は弾かれたようにベンチから立ち上がった。走り出しそうになったところで腕を壮悟に掴まれ、キッと睨みつけるように振り返る。

「なんで止めんの!」

「どう見ても落ち着いてへんから止めたんやないか! あれやろ、あっちの家に乗りこむつもりやったやろ」

「仙嘉が無理やり修行させられとるかも知れへんのやったら、早よ迎えに行ったらなあかんやんか!」

 闇雲に腕を振って兄の手から逃れようとしたものの、爪が食いこむほど強く握られては敵わない。もどかしさと痛みが重なって、美希の目尻に涙が滲んだ。

「お前一人で行ってなんかあったらどうすんねん。家族でグルんなって女の子閉じこめとるかも知れへんヤバい奴らなんやぞ」

「それは、そう、やけど……」

 正論を返されて、少しずつ美希の勢いがしぼんでいく。それでも諦めきれず、駄々をこねる子どものごとく頬を膨らませて俯いた。悔しさに唇を噛めば、口内に鉄の味がじわじわと広がる。

 すぐそこで仙嘉が危険な状況に置かれているかも知れないのに、なにも出来ない自分に腹が立つ。もし秋津夫婦や雅太に危害を加えられそうになった場合でも、武術などの心得が無い美希に出来るのは逃亡と防御だけだ。

「ハル兄も『確証はない』言うてたやろ。秋津さんとこが無関係で、家に突撃してっても友だちがどこにも居らんかったらお前ただの迷惑な奴んなるで」

「でも無関係な気ィせえへんもん」

「『せえへんもん』ちゃうわ。とりあえずもっかい座れ。ほんで深呼吸せえ」

 壮悟が手から力を抜いて、美希をベンチに優しく座らせる。言われた通りに何度か深呼吸をくり返せば、昂っていた気持ちが少しずつ鎮まった。

「お前、意外にちゃんと兄貴らしいとこあるんだな」

 黙って見守っていた榛弥が関心の眼差しを壮悟に向ける。兄はぶっきらぼうに「うっさいわ」と返していたが、照れ隠しの表れだろう。

「ほんまに修行しとるんやったら、本人がやりたぁてやっとるかも知れへんよなて思ただけや。もしそうやったら美希が迎えに行くんはありがた迷惑になるやろ」

「確かにな。一理ある。けど泊まってる間にそのあたりの話は一切無かったんだろ?」

「全然。セイレイさまにお参りした以外はなんも。でも仙嘉と秋津くんは付き合うとるわけやし、あたしが知らんとこで『修行しよう』て話になっとってもおかしないんかな、てちょっと思い始めた」

 仮にそうだったとしても、それならそうと言えば良いだろうに。

 仙嘉から「神さまのパワーを貰う修行に行ってくる!」と言われていたら、大いに怪しみはしただろうけれど、本人の意思ならば美希は止めないだろう。それを無視して行われているのであれば黙って見過ごすのは無理だ。

「なんにせよ、直接行って見るのが確実だな」

「行って……? ハル兄またあっち行くん? 今から?」

「安心しろ。今から行くわけじゃない。水曜日の午後なら時間が取れると言われたから、午前に行こうかと」

「いやいやいや、おかしいやろ。午後に来いて言われとんのになんで午前に行くねん」

「午前は秋津夫婦が不在だからだ」

 壮悟が苦笑しながらツッコむと、榛弥は至極生真面目に答えを返す。

「玻璃恵さんと久美彦さんが居たら、まず間違いなく仙嘉さんを捜させてくれない。特に修行の場には一歩も入れさせてもらえないだろう」

「けど不在なんやったらそもそも家ん中に入るのも無理ちゃう?」

「ああ。けどな」

「……午後授業……」

 考えながら呟いてはっとした。美希の声をうまく聞き取れなかったようで、壮悟と榛弥が同時に首をかしげる。

「水曜日は授業が午後からやねん。やから午前は秋津くんが家に居ると思う」

「そういうことだ」と榛弥がぱちんと指を鳴らした。「僕が訪問する日を決める時に『午前なら雅太がいるけど、あの子に任せるわけには』って話してるのが聞こえてな。誰もいない家に侵入するのは犯罪だが、家人がちゃんと居て、挨拶したうえで入るならなにも問題ないだろ?」

 どうだ、と言わんばかりに胸を張る榛弥に、壮悟が呆れたような目を向けている。

「入れてもらえる前提で話しとるけど、美希の同級生にも妨害とかされたら意味あらへんやんけ」

「多少非常識を演じることになるが『お約束の時間より少し早く着いてしまったのですが、中で待たせていただくのは可能でしょうか?』とか言えば門くらい開けてくれるだろ。そこさえ突破すればこっちのものだ。真っすぐ修行の場に向かえばいい」

「榛弥兄ちゃんはそれがどこか分かっとんの?」

「おおよその位置なら」

 彼は自信ありげにうなずいて、美希にノートを渡してきた。五芒星を描いたページが開かれており、榛弥がその中心を指で示す。

「五芒星の中心は最も守護の力が強いとされている。これを秋津家の敷地に当てはめて、かつ『セイレイさまのパワーをもらう特別な場所』っていうのも足して考えればいいんだ」

「ふうん……あのさ、榛弥兄ちゃん。あたしもついてって良い?」

 美希は縋るような眼差しで榛弥を見上げた。

 なにもしないでただ待つのは嫌だ。自分の目で仙嘉がいるか確かめたいし、修行を強制されているのなら連れ出してやりたい。怖い思いだってしたかも知れないのだ。おこがましい考えかも知れないが、友人である美希が行けば彼女も安心するだろう。

「足手まといにはならへんから。お願い」

「分かった」

 深々と頭の下げた美希の耳に、なんの躊躇いも無い了承が届いた。

「え、えの? いや、お願いしといて『良えの』て聞くんも変なんやけど」

「人数は多い方がいいからな。ただし僕の指示をちゃんと聞くこと。それが約束できるなら連れて行く」

 榛弥に右手の小指を差し出されて、逡巡することなく小指を伸ばす。絡み合った箇所の力強さに、これがお遊びではない本気さを感じた。

 水曜日まで少し日が空くのが焦れったいが、我慢するしかない。万が一危険が及んだ時のための対策も講じておかなければ。両手の握りこぶしに気合がこもる。

「あっ、そうや。お兄ちゃん、ちょっと聞きたいねんけど」

 美希はひょいとベンチから降りて、壮悟から左に一人分のスペースを空けてしゃがみこんだ。

「幽霊の男の子ってこのへん?」

「いや、お前が居るとこの逆。……マジで見えてへんのやな」

「一言多いねん。逆ってことは、えーと、このへんやね」

 改めてしゃがみ直して、美希は男の子がいるであろう場所をじっと見つめた。

「幽霊ってさ、生きとる人間とお喋り出来るん?」

「出来る奴と出来へん奴とおるけど……なあ美希、お前まさか」

 じり、と壮悟が青ざめた顔で少しずつ後ずさる。逃亡を防ぐためか、兄の背後に榛弥が立ちふさがった。

「あたし今からこの子に質問するから、なんて言うたかちゃんとお兄ちゃんが教えてな」

「質問てなに聞くつもりやねん。ていうかそいつが会話出来るタイプなんか俺知らへんねんけど!」

「そんなようけ聞かへんよ。一つか二つ、簡単なことだけ」

 太陽が雲に隠れたらしく、周りがわずかに陰る。鳥のさえずりも池の鯉が跳ねる音もなく、ほんのり寒気さえ感じる静けさが漂った。

 ほんなら聞くで、と壮悟に目配せしてから、美希は口を開いた。

「あなたのお名前と年齢、教えてくれへんかな」

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