三章――③
「取材終わったん?」
美希の問いに榛弥が無言でうなずく。彼の問いに答えたのは壮悟で、柱を恐る恐るつついてなにか刻まれていると伝えていた。
「誰かが遊びで彫ったっちゅうより、飾りつけっぽい感じやねん。
ふむ、と榛弥が柱に目を近づける。二分ほどじっくり確認してから、「多分だが」と前置きして続けた。
「蛇が彫ってあるんだと思う」
「蛇?」
予想外の生き物の名前が飛び出して、美希はきょとんと目をまたたいた。
セイレイさまが祀ってあるのだとしたら、その使いであるトンボが刻まれているべきではないか。なぜ無関係そうな、しかも虫ですらない蛇が柱に残されているのだろう。
榛弥に問いを重ねようとしたのだが、彼は眉間にしわを寄せて社を見上げ、美希と壮悟など忘れたかのようにぶつぶつと呟いていた。
「そうか、むしろこっちが正しいのか……伝わる過程で本来の姿が失われたとすれば……」
「榛弥兄ちゃん?」
「ああなったら反応せえへんで」
やれやれと壮悟が肩をすくめて笑う。
ひとまず自分の中で仮説が出来上がったようで、榛弥が美希に目を向けてくれたのは五分近く待ってからだった。放置された不満を訴えるべく頬を膨らませて腕を組めば、素直に「すまん」と謝られた。
「ほんで、なんか収穫あった? こっち来んの結構遅かったやん」
「三時間も待たされんねやったら、俺だけでもその辺ふらついてきたら良かったわ。ずっと男の子に付きまとわれるし」
「男の子? ああ、例の幽霊の」
美希から男の子の幽霊について榛弥に話した記憶はない。榛弥は壮悟の目に幽霊が映るのを信じていると聞いたことがあり、それもあって兄が知らないうちに相談していたのだろう。
「そんなに暇だったなら園の外に出てても良かったのに」
「そうしよと思たら再入場不可やて言われたんや! また金取られんの嫌やし、しゃーないでずっとここに居ったんやないか。取材もすぐ終わるやろ思てたし」
「なに言ってるんだ。あれこれじっくり聞くのに三十分やそこらで終わるわけないだろう。大丈夫だ、そのぶん色々分かったから。美希の友だちが消えたことに関してもな」
「! ほんま?」
立ったままここで喋っているのもなんだから、と美希たちは先ほどまでいた休憩場所に戻った。ふと園内を見ると客の八割はいなくなっている。ほとんどの客は園を一周したら出て行くようで、絵を描いたり写真を撮ったりせずに三時間超も居座っている美希たちの方がおかしい。
丸太のベンチは二人掛けだ。右側に美希、左側に榛弥が腰を下ろし、座り損ねた壮悟が渋々二人の前にしゃがみこむ。
「さて、まずセイレイさま周りのことについてだ。恐らく信仰のベースになっているのは
「陰陽道? ……ってなに?」
「話したこと無かったか?」
美希は唇をへの字に曲げて天を仰いだ。
昔から榛弥は様々な知識を語ってくれたけれど、その大半が興味の範囲外だったため右から左へ聞き流すことが多かった。恐らく陰陽道とやらも聞いたことはあるのだろうが、具体的な詳細は完全に忘れている。
誤魔化すことなく白状した美希に、榛弥は気を悪くした様子もなくうなずく。
「陰陽道は古代中国で生まれた〝
「俺なんとなく覚えとんで」
まるで教師を前にした生徒のように、壮悟がぴしっと手を挙げる。
「〝陰陽説〟と〝五行説〟を組み合わせたんが〝陰陽五行説〟やっけ」
「正解。他に覚えてることは?」
「あー……陰陽説が、太陽と月とか、プラスとマイナスとか、男女とか、世の中のもんはだいたい二つに分けられますよーみたいなアレやった?」
「大雑把に言えば。じゃあ五行説は?」
壮悟はしばらく悩んだ末に、両手を挙げて降参を示した。美希も必死に記憶を探ったがぴんとくるものが無く、大人しく榛弥の説明を待つ。
「五行説も古代中国の思想でな。全ての物は〝木・火・土・水・金〟の元素から成り、これらが互いに作用し合うことで盛衰をくり返すという考え方だ。これとさっきの陰陽説が組み合わされたのが〝陰陽五行説〟。陰陽道はここへさらに神道だとか仏教だとか、その他諸々の要素も重なって発展した日本独自の思想をいう」
「なんやエラいややこしいな」
「お兄ちゃんに同意。けどとりあえず、セイレイさまを祀っとんのはそのへんが
そうだな、と首肯して榛弥が胸ポケットに手を伸ばす。いつもならそこに煙草が入っていたはずで、美希は園内禁煙なのを伝えようとした寸前で言葉を止めた。
榛弥が人差し指と中指で挟んでいたのは白く細い棒だ。しかし煙草ではなく、先端にはビニールで包まれた丸い物体がついている。
「飴ちゃん?」
「子どもが生まれたからな。絶賛禁煙中だ」
「ほえー。いっつも口に咥えとったからその癖抜けへん感じ?」
「そういうこと」
なぜか自慢げな榛弥に対し、壮悟が呆れたようにため息をつく。
「ここ飲食禁止て入り口に書いてあったで。見やんかったん?」
「……完全に見落とした」
「諦めて飴戻しとけ。ほんで、他になにが分かったん」
言われるがまま榛弥は飴を胸ポケットに戻していたが、気のせいか眉がしょんぼりと下がっている。壮悟から注意されたのがそんなにショックだったのか。珍しい様子に写真を撮りたくなったが、ぐっと拳を握って堪えた。
「僕を出迎えてくれたのは秋津夫婦だったんだが」潔く気持ちを切り替えたのだろう。語りだした榛弥の表情はもう元に戻っている。「家に入る前にまずご挨拶を、と庭に連れて行かれて」
「セイレイさまが祀られとるお社みたいなとこ? 祠堂て言うんやって秋津くんが教えてくれたけど」
「ああ。それは間違ってない。で、僕が気になったのはこれだ」
榛弥がスマホに画像を表示する。兄妹は揃ってそれを覗きこみ、壮悟は軽く首をかしげて、美希は「あっ」と声を上げた。
美希も目にした虫カゴの風鈴だ。夫婦の目を盗んで撮影したのか、少々ピントが合っておらずぶれている。
「あたしも最初これなんやろと思てん。あたしと仙嘉が泊まっとった離れにもぶら下がっとったし」
「入り口の門にも設置されていたぞ」
榛弥は画面をスワイプして別の写真を見せてくれた。確かに数寄屋門に同じものがある。美希の身長では視界に入る位置に無く、それゆえ気づかずにいたようだ。数寄屋門のそれは短冊が黒く、他は特に変わった点は無い。
「美希はこれについて秋津くんからなにか聞いたか?」
「んー、と。中に黒いもんが入っとんの分かる? トンボの置き物らしくて、こうやって飾っといたらセイレイさまが喜ぶんやて。全部で五個あるて言うとったけど」
「五ヵ所か。短冊の色と照らし合わせて考えたら、あと二ヵ所が大体どのあたりか見当つきそうだな」
「? そうなん?」
「さっき言った五行説に少し戻るんだが、〝
「木ィってあんま青のイメージあらへんねんけど」
「俺も。青てなんとなく水な感じすんのに」
「難しく考えないで、とりあえず『そういうものなんだな』と思っておけ。ちなみに〝水〟だと色が黒で方角は北。さて、ここまででなにか分かることは?」
突然問題を出されて、美希も壮悟も目をまたたいて黙りこんだ。二人の反応を楽しむように、榛弥は薄い笑みを浮かべて長い脚を組む。
――分かることはて言われても、そもそもなに聞かれとるんや。
美希は両手で己の頬を包みこみ、眉間にしわを寄せて唸った。
――虫カゴの風鈴があと二ヵ所どこなんやって話やったよな。短冊の色と照らし合わせたら見当つくて言うとって……ほんで五行説には色と方角があてはめられる……。
榛弥が見せてくれた数寄屋門にある虫カゴの風鈴の短冊は黒だった。そして門は、秋津家の敷地の中で最も北にある。
かち、と頭の中で歯車が動いた気がした。
「榛弥兄ちゃん」美希はぐいっと体を近づけ、従兄の目をまっすぐ見る。「白色は? 離れにあった短冊は白かってん。五行説やと白色の方角はどっち?」
「白に対応してる五行は〝金〟で、方角は西だ」
「ありがとう。ちょっと待ってな。考えるで」
雅太と手分けして仙嘉を捜した際、美希は西から歩いて確認した。その際真っ先に通りかかったのは離れだった。
つまり。
「……風鈴がぶら下げられとる方角と、短冊の色が五行説と同じなんちゃう?」
「よく分かったな」
怖々と訊ねた美希の頭に、榛弥の大きな手のひらが乗る。そのまま労うように軽く撫でられて、嬉しいような恥ずかしいような心地で頬が熱くなった。
「美希が言った通り、風鈴が下げられた位置と短冊の色は明らかに五行説を意識してある。だから残り二ヵ所の風鈴がだいたいどこにあるか、ついでに短冊が何色かも自然と導き出せるわけだな」
「ん? けどおかしないか?」
榛弥の説明に壮悟が待ったをかける。困惑した様子の兄の頭上には、目に見えない疑問符が大量に浮かんでいるようだった。
「方角って東西南北の四つやろ? けど五行説なんやったら、五つあらな計算合わへんのちゃうん」
指折り数えて疑問を呈した壮悟に、榛弥が「問題ない」と冷静に答える。
「五行説は東西南北のほかに〝中央〟っていうのがあるんだ。中央に対応してるのが〝土〟で、色は黄だな」
「……中央が黄色?」
今度は美希が疑問符を浮かべる番だった。
黄色い短冊がぶら下がった風鈴は祠堂に設置されていた。しかし祠堂の奥には塀の角が見えたため、どう考えても秋津家の中央に位置するとは思えない。
美希が悩み始めたのを察したのか、榛弥はカバンからノートとペンを取り出して太ももに置くと、慣れた手つきでなにやら書きこんでいく。
「上を北として、風鈴がある位置を推測するとこうなる」
「え。けどハル兄これ、北と東西はちゃんとした位置にあるっぽいけど、南だけ二つあって真ん中なんもあらへんやん。さっきまで中央があるとか言うとったのに」
「まあ聞け。ひとまず北は数寄屋門の黒、西は美希が見た離れの白だろ。五行説に沿って考えるなら恐らく東に設置された風鈴の短冊は青だ。で、問題は南、厳密に言えば南西と南東の二ヵ所だが、このうち祠堂が南西に位置している。反対の南東にはなにがあるのか知らないが、そこに設置された風鈴の短冊は赤のはずだ。で、それぞれを線で繋げ合わせると――」
「……お星さまの形んなった」
一般的に〝
「ちなみにこの星型の別名に〝晴明桔梗〟ってのがあってな。陰陽師の安倍晴明が五行の象徴や魔除けとして用いたと伝わっている」
秋津夫婦は取材の中で「我が家にはセイレイさまの加護が至るところに働いているのです」と語ったそうだ。陰陽道がルーツになっている点だけでなく、夫婦の言葉も合わせて考えれば、風鈴は高確率で魔除けとして敷地内に配置されている。
「で、祠堂でセイレイさまに挨拶したあとようやく家の中に入れてもらえて。セイレイさま信仰がいつからか聞いてみたけど、『歴史は深く長いのです』の一点張りでかなり曖昧だった。まあ具体的な成立時期が分かることの方が少ないんだが」
榛弥は他にご神体はなにか、経典はあるのか、信者の数はどれくらいかなど訊ねたらしい。答えは「ご神体は存在するが、神聖なものなので我々でも滅多に目にすることはない」「経典は無い」「信者はだいたい二千人ほど」だったそうだ。
「二千人? そんな多いん?」
美希は驚きに目を丸くした。秋津夫婦が多く見積もった可能性が無きにしも非ずとはいえ、事実志村のように熱心な信者がいるのは確かである。
人がなにを信仰しているかなんて、ひと目で判別できることの方が少ない。道をすれ違っただけの他人が、実はセイレイさまを信じて祈りを捧げているかも知れないのだ。
「セイレイさま――というか、秋津夫婦はもっと増えることを望んでるらしいけどな。信仰する人数が多ければ多いほどセイレイさまの力は強くなって、いかに難しいお願いでも叶えてくれるようになるんだと」
「取材も受けたんも、ハル兄がセイレイさまは本物やて発表するとか言うたからやもんな。そんで信者が増やすんが目的やて」
「あれやろ? 榛弥兄ちゃん、悩みがあるて玻璃恵さんに言うたんやろ? なに相談したん」
「大したことじゃない」とうなずいた榛弥の横顔は、なんとなく憂いている。「将来的に娘に『パパうざい、嫌い』って避けられたらどうしようって言っただけだ」
「……はあ?」
「なにそれ。榛弥兄ちゃん本気でそんなん聞いたん?」
美希が少しだけ体を引いて距離を取ると、榛弥はすかさず「そんなわけあるか」と口を挟んできた。
「あいにく僕は日常的に悩みを抱えるタイプじゃない。適当に思いついたのがこれしか無かったんだ」
「その割に顔がまあまあ本気っぽかったけど」
けらけらと笑った壮悟の頭に、榛弥が容赦ない拳骨を落とす。鈍い音が周囲に響きわたった。
「相談したあとにまた祠堂に連れて行かれたよ。十分くらいお祈りしたあとに『これで娘さんに嫌われる心配はありませんが、定期的にいらっしゃった方がセイレイさまの力は持続しますし、叶う確率も上がります』って旦那の方――久美彦さんに言われたよ。『その時はぜひ捧げものをご持参ください』ともな」
「捧げものって、志村さんが言うとったみたいなお肉? お金?」
「どっちもだろ。しかしまあ、秋津夫婦はどこまで本気でセイレイさまを信じているんだか。少なくとも玻璃恵さんはセイレイさまの存在を疑ってないみたいだったが」
「ていうかセイレイさまって、結局なんなん? ご利益も秋津くんが言うとったんと志村さんから聞いたんと全然違うし、どういう姿なんかも分からへんしさ」
「姿ならだいたい分かるぞ」
当たり前のことのように言われて、美希はぽかんと口を開けた。
「秋津家の名字と〝セイレイ〟って響きで多少は予想できた。セイレイさまを漢字で表すと、恐らくこうなる」
榛弥が五芒星の脇にペンを走らせる。
そこには〝蜻蛉〟の二文字が、流れるような筆跡で記されていた。
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