三章――②

 榛弥から美希に電話があったのは日曜日の朝だった。「今から名古屋駅を出るから、三十分後くらいに迎えに来てくれ」と言う。よく分からないまま了承して、仕事が休みだった壮悟も伴い言われた通りに駅のロータリーまで迎えに行けば、先日テレビ電話した時と同じ装いの榛弥がカバン一つを小脇に抱えて待っていた。

 彼は後部座席に腰を下ろしてシートベルトをつけるなり淡々と目的地を告げたのだが。

「まさかいきなり秋津くん家行くとは思わへんかったなあ……」

 赤やピンク、紫など色とりどりの花が咲き乱れるのをぼんやり眺めて、美希は感心とも呆れともつかない呟きをこぼす。丸太をくりぬいて作ったらしいベンチは座り心地が良く、秋らしく和らいだ日差しの温かさも相まって、気を抜けば眠ってしまいそうだ。

 微睡みに身を任せかけた美希だが、それを複数人の談笑が遮る。いまいち定まらない視線の先では、夫婦や友人であろう年配の男女たちがそれぞれ花を愛でて写真を撮り、あるいは絵を描いたりと楽しんでいた。

「あんま人居てへんやろ思てたのに、意外とお客さん居るんやな。あの人たちみんなセイレイさま目当てやったりすんのやろか」

「知るかそんなん」

 美希の予想に、右隣に座っていた壮悟が妙に攻撃的に答える。言葉のわりに声に覇気がなく、どこにも視線を向けまいと俯いたまま微動だにしない。

「なんで俺まで連れてこられなあかんねん。別に来んでも良かったんちゃうん」

「榛弥兄ちゃんがお兄ちゃんも連れてこいて言うたんやからしゃーないやん。文句やったら榛弥兄ちゃんに言うてよ、いちいちあたしに八つ当たりせんといて」

「文句言わなやっとれへんわ!」

 壮悟は一瞬だけ怒りで赤く染めた顔を上げたが、すぐにぎょっと肩を縮めて項垂れる。兄は美希に比べて背も高く体格もいいけれど、今は普段より一回り以上も体が小さく見えてさすがに哀れになってきた。

「さっきからなんなん。変なもんでも視えとんの」

「……ここ来た時からずっとな……」

 美希にはさっぱり分からないが、どうやら兄の目にはこの世ならざる者が映っているらしい。

 ――前から言うとった幽霊の男の子やろな。

 なんとなく壮悟の前を一瞥したものの、なんの変哲もない石畳があるだけで幼い子どもの人影はない。それでも壮悟の怯えようを見る限り、確かにそこに存在するのだろう。

 早く榛弥が戻ってこないか。祈るようにスマホをつけたが、今のところ電話もメッセージアプリも着信は無い。美希は花々を越えた先にある塀を見つめ、さらにその向こうにいるはずの従兄に「早よこっち来てよ」と声もなく訴えた。


「秋津家に取材しに行く」

 榛弥が車に乗りこむなり言ったそれに、美希は危うくアクセルとブレーキを踏み間違えるところだった。危ないやんけ、と助手席の壮悟がシートベルトを鷲掴みにする。

「取材て、えっ? なんで急に?」

「安心しろ。事前にアポは取ってある」

「そういうことちゃうねん。てかどうやって連絡取ったん。あたし秋津くんの電話番号とか教えてへんやんね」

「連絡先が書いてあるチラシの写真くれたの美希だろ」

「……そういえばそうやったな」

 榛弥はそれを見落とすことなく、すぐにそこへ書かれている番号に電話をかけたという。

 掲載されていたのは玻璃恵の連絡先だったそうだ。榛弥はある筋からセイレイさまの話を聞いたていで、自分が准教授であること、各地の風習や信仰を研究していることを包み隠さず伝えてから、セイレイさまについて深く興味があるため取材させてほしいと申しこんだらしい。

「ほんで『ええよ』て言うてもらえたん?」

「いや、初めは渋られた。『どなたかのご紹介でもない方にお話しすることはございません』『面白半分は迷惑極まりない』ってな」

「めっちゃ断られとるやんけ」

 壮悟が馬鹿にしたように笑えば、榛弥が無言で身を乗り出して壮悟の肩を殴りつける。柔道経験者からくり出された一撃はそれなりに重い音がした。

「ほんならどうやって取材取りつけたん」

「美希がこの前話を聞きに行った人の名前を出した」

 榛弥は自分の母が志村からセイレイさまの話を聞いたことにして、それをきっかけで興味を引かれたと玻璃恵に伝えたようだ。

 知り合いの名前を出されたことで、榛弥は彼女の警戒が薄れたのを感じ取った。そこへさらに自身が悩みを抱えていること、それをセイレイさまに解決してほしいこと、悩みが解消されればセイレイさまの力が本物として研究結果を発表したいと熱弁を重ねた。

「結果、無事にこうして今日訪問出来るというわけだ」

「なんかエラいチョロないか?」壮悟が殴られた箇所を手で擦り、窓にごつんと額をつける。「こういうんてもうちょい何回か話したりしてから、ほんじゃお宅にお邪魔しますーってイメージやねんけど。信用とか信頼とか大事やろし」

「無名に等しいとは言え、民俗学を専門に扱う准教授が『セイレイさまは本物です』って発表してくれるかも知れないんだぞ。今後誰かにセイレイさまを紹介する時に『専門家にも認められたんですよ』だの言えば、疑り深くない奴なら『専門家が証明したなら』と気持ちがなびく」

「玻璃恵さんはそこまで見越しとるかもってこと?」

「恐らくは。美希がこの前聞いてきたセイレイさまのパワーを貰う教室とやらの参加者も増えれば、同時に舞いこむ金額も増える。それを狙ってる可能性もあるが、純粋にセイレイさまを信じてほしいだけかも知れない。そのあたりは取材中に探るさ」

「……榛弥兄ちゃんはセイレイさまが本物やて思てる?」

 美希はハンドルを握る手に力をこめた。ルームミラー越しに榛弥を窺うと、彼は仕事中に愛用している眼鏡を拭きつつこちらを見つめ返してくる。

「美希は受験の時とか神社なりお参りしに行ったか?」

 問いかけたはずなのに逆に問いが戻ってきて、「え?」と戸惑いながらもうなずいた。

「一回だけ行ったよ。高校受験の前に『合格祈願しに行かなあかんで』ってお父さんと一緒に名古屋の……なんやっけ、学問の神さまが祀られとるとこ」

「上野天満宮か? 僕も行ったことある。壮悟は行ってなさそうだが」

「偏見やぞ! まあ面倒くさぁて行ったことあらへんけど!」

「とりあえずそれは置いといて、美希はそこに神さまがいると思ってお参りしたか?」

 どうだろう、と美希は首をひねる。

 足を運んだのは中学三年生の頃だ。あの時は自分の実力より少し上の高校を目指していて、がむしゃらに勉強に打ち込んでいた。それでも合格出来るかギリギリのラインで、頭を抱える美希に父が息抜きがてら外出に誘ってくれたのだ。

 賽銭箱に小銭を投げ入れて目を閉じた時、自分はなんと願っただろう。奥にいるかも知れない神に対して「どうか希望している高校に入学出来ますように」と切実な祈りを胸の内で唱えた覚えがある。

「帰りにおみくじとお守りもうたよ。おみくじが大吉やったからお父さんが『これで安心やな!』言いながら背中叩いてきて、めっちゃ痛かったん覚えとるわ」

「結果はどうだった? 目指していた高校に合格したか」

「うん。合格発表ん時にお守り持ってっとって、それ握りながら『力を貸してくれてありがとう』みたいなこと思ったこと気ぃする。今考えたら単純にあたしの努力の成果やろけど」

「けどその時は、お守りに感謝を伝える程度には神さまを信じていたんだろう。参拝したことで合格出来た――ご利益は本物だと感じたわけだ」

 それと同じだよ、と榛弥が眼鏡をかける。理知的な眼差しはまだ見えない秋津家に向けられているようだった。

「本物だと思えば本物なんだ。逆に不合格になっていたら『神さまはいない、ご利益なんてない』と考えたはずだろ。結局は自分の受け取り方次第だ。まあ僕はセイレイさまの力が本物だろうがでっち上げだろうが、正直どっちでもいい」

「そうなん?」と兄妹の反応が重なった。

「僕が興味あるのはセイレイさまなる未知の神と、それを信仰する宗教体系だから。どういうルーツから派生したのか、全くのオリジナルなのか。パワーを貰う教室があるなら他の儀式もある可能性が高いし、それを詳しく知りたいんだよ」

「……仙嘉捜しに行ってくれるわけちゃうん?」

 少し期待していたのに。隠しきれない落胆を察してくれたようで、榛弥は「悪いな」と肩をすくめて詫びてくる。

「僕の主目的はそれじゃない。ただ美希の友だち失踪に関して不審な点は明らかに多いからな、僕に出来る範囲で手がかりは探ってくる。だから安心しろ」

 低く落ち着いた声音が、焦燥感に満ちていた美希の胸を宥めていく。

 それこそ神に縋るような思いで、美希は榛弥に力強く「よろしく」と頼んだ。


「んぉわっ」

 壮悟が奇怪な叫び声をあげてのけぞった。なにごとかと目を向ければ、兄は今にも目玉がこぼれ落ちそうなほど大きく目を見開いている。

「なにしてんねん」

「いやっ虫が……でっかいトンボが目の前通り過ぎてったもんでびっくりして」

 反射的に叫んだのが恥ずかしくなってきたらしい。壮悟は耳を赤くして再び項垂れる。

「あー、なんかトンボはセイレイさまの使いやて秋津くん言うとったで。ていうか、いつんなったら虫嫌いなん克服するん。あたしよりビビっとるやん」

「うるさいわ、っとけ。苦手なもんはいつまで経っても苦手や。うわっまた来た」

 トンボは何匹も飛んでいた。次々にやってきては通り過ぎるそれを、壮悟はいちいち手を振って追い払う。

 よく見ると美希たちの周りだけではなく、庭全体にトンボが大量に発生していた。色も大きさも様々で、秋津家の門をくぐったところで見たのと似た黒っぽい種類の個体も悠々と翅を羽ばたかせている。

 手を振り過ぎて疲れつつある壮悟を横目に、美希はもう一度スマホに目を落とす。先ほど確認してから五分も経っておらず、榛弥が取材中なのをうかがわせた。

 彼が秋津家に行っている間、美希たちは隣にある庭園で待機することになった。初めは美希もついていこうとしたのだが、美希が仙嘉を捜しているのは雅太から両親に報告されているだろうし、そんな美希の関係者だとバレれば厄介だからと榛弥に断られた。

 庭園は雅太が「祖父さんの兄弟が住んでたんだけど、未婚のまま若くして亡くなったから祖父さんが庭園として一般開放してる」と言っていたはずだ。かつて住まいだったらしい小さな洋館は入園口として使われ、大人一人五〇〇円を支払った。園内の広さは秋津家の庭より気持ち狭いかも知れないが、それでも一般家庭の庭に比べれば遥かに規模が大きい。

 土を踏み鳴らした細い道が迷路のごとくあちこちに張り巡らされ、鯉が泳ぐ池も二つある。庭園の中央にはお茶会で使用する茶室が備わっているが、普段は立ち入り禁止らしく誰かが出入りする様子はない。

「風あらへんし、じっとしとると暑いな……」

 日差しに晒された首筋を撫でて壮悟がため息をつく。美希にはちょうどいい気温だが、暑がりな兄はもう少し涼しい方が好きらしい。

「日傘持ってきたら良かったのに。今は男の子も日傘使う時代やで」

「こんな待たされると思わへんかったんや。くそ、前も思たけどなんでここの休憩場所屋根あらへんねん……」

 休憩所の屋根は格子状の骨組みがむき出しになっており、日光だけでなく雨もそのまま降りそそぐのが想像出来た。そこと柱には細い木とその枝が蛇のごとく絡みついているけれど、時期ではないのか花も葉もない。

 じっとしているのも暇で、美希は適当に庭を歩いて回った。後ろからは同じく暇を持て余した兄がついてくる。立ち上がったついでに疑問を解消すべく、近くにいた人当たりの良さそうな夫婦に声を掛けてみた。

 セイレイさまを知っているか、と訊ねた美希に、夫婦は揃って首をかしげる。他にも三、四組に同じ問いをしてみたが、反応は夫婦と同じか、もしくは不審な眼差しで無視されるかどちらかだった。

「ここに来とる人みんながセイレイさま知っとるわけちゃうんやな」

 ひょい、と池の飛び石に美希は片足で飛び乗った。そのままテンポよく反対側の道に辿り着いて振り返ると、壮悟は時々後ろを気にしながら慎重に足を踏み出している。どうやら幽霊の男の子がついてきているらしい。

「入園料もバカ高いわけちゃうかったし、そこそこ広いで近所のじいさんばあさんにはちょうどええ散歩コースなんやろ」

「そうなんかもね。景色も綺麗やし」

 園内には花のほかに、苔むした石製の五重塔だとか、豪快に枝を張った松だとか見どころがそこそこある。駅の近くはビルやマンションが林立して都会的なぶん、自然豊かなここは地域住民の憩いの場でもあるのだろう。

 小鳥のさえずりを聞きつつ歩いていた時、美希は「あっ」と声をあげて足を止めた。

「なんやねん、急に立ち止まんなや」

「お兄ちゃん、あれ見て」

 美希が指さしたのは、正面にある小さな社だ。

 見た目は秋津家の庭にある祠堂とそう変わらない。大きさは一回りほど小さいだろうか。あちらには手前に灯籠が並んでいたが、ここは賽銭箱があるだけで全体的に小ぢんまりとした印象だ。閉ざされた格子戸の向こうは暗すぎて不気味さが漂い、自然と背筋が伸びてしまう。

 なんの神が祀られているのかどこにも記されていないが、庭園の所有者が誰なのか考えればだいたい想像がつく。

 ――もしも、ほんまにセイレイさまが居るんやったら。

 壮悟が興味深そうに社を見上げる隣で、美希は真っ暗な内部を鋭く睨みつけた。

 ――気に入ったんかなんか知らんけど、早よ仙嘉返してや。願い事なんでも叶えてくれるんやろ。

 捧げものなどしてやりたくも無いが、なにもしないのは失礼かもと思ってしまう真面目な自分もいる。美希は財布から一円玉を取り出し、賽銭箱に投げ入れた。軽く乾いた音を聞いてから二礼二拍手一礼をすると、壮悟もなんとなく参った方が良いと感じたのか、小銭を投げてから手を叩いていた。

 目を開いて足を一歩引き、改めて社の全体を眺める。ここには秋津家の祠堂にあった虫カゴの風鈴がついていない。瓦屋根には落ち葉がたっぷり乗り、屋根を支える柱には蜘蛛が巣を張って獲物を待ち構えていた。あまり頻繁に手入れされていないのだろうか。

「うん?」

 不意に首をかしげた美希に、壮悟が「どうしたん」と問いかけてくる。

「柱がさ、よう見たらただの柱ちゃうなって」

「? そうやろか」

「正面から見たら分かるて。――ほら、なんか彫ってあらへん?」

「……言われてみたら……?」

 黒ずんだ柱には足元からだいたい美希の目線の高さ辺りまで、細長くなにか彫られた形跡がある。適当な傷がつけられたわけでは無くはっきりした形がありそうだが、風雨に晒されるだけでなく、経年劣化もあって判別しにくい。

「二人してなに唸ってるんだ?」

 不意に背後から声が聞こえて、兄妹そろって振り向く。そこにはどことなく浮かない表情をした榛弥が立っていた。

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