三章――①

 流行りの洋楽のピアノアレンジが流れる店内に、挽きたてのコーヒーの香りが漂う。巨大な一枚板のテーブルには主に一人客が間隔を開けて座り、新聞や文庫などを広げ、時たまカップに口をつけたりケーキを味わいながら午後のひと時を楽しんでいる。

 美希は駐車場と道路を見渡せる窓際のボックス席に腰かけ、時々水で唇を湿らせて店の入り口に目を向けた。今のところ待ち人が現れる様子はない。視線の先にあるショーケースにはケーキが二十種類ほど並べられ、赤子を連れた若い夫婦が楽しそうにどれを持ち帰るか選んでいた。

 木曜日の午後である。本来なら学校に行っていなければならない時間だが、やむを得ず欠席した。

 仙嘉捜索は思うような進展がない。昨日も登校してすぐ雅太に進捗を聞いたが「まだ見つからない」「ちゃんと捜してるから心配しないで」と会話を打ち切られてしまう。榛弥から「セイレイさまに関するなにかを引き出せたら伝えてくれ」と頼まれていたのに、それすらままならない状況だ。

「ご注文はお決まりですか?」

 席に着いてから十分は過ぎているのに、なにも注文しない美希が気になったのだろう。深緑色のエプロンをつけた店員がそばに寄ってくる。美希は慌ててメニューを広げ、適当に目についたカフェモカを注文した。

 直後、ぽーんと弾むような音がする。客の来店を知らせるベルだ。はっと視線を向ければ、ふくよかな体型の女性が店内をきょろきょろと見回している。

 ――茶色い髪がドリルみたいに巻いてあって、ちっちゃい花がいっぱいのワンピースに、カブトムシみたいな色のカーディガンよう着とるてお母さん言うとったよな。ってことは、あの人か。

 何名で来たのか訊ねる店員に、彼女は「待ち合わせをしていて」と答える。美希が「ここです」と手を振れば、女性は丸みを帯びた顔に笑顔を浮かべて軽い足取りで近づいてきた。

「ごめんねぇ、待たせちゃったかな」

「いえ、あたしも今来たところです。気になさらないでください」

「そぉ? 良かった。もうなにか注文した?」

「ついさっきカフェモカを」

「飲み物だけなんてもったいない。ここのお店、ケーキがとても美味しいからぜひ食べて。お金なら私が払うから」

 のんびりと気安い口調に一瞬だけ「いいんですか」とメニューを開きそうになるが、初対面の相手に甘えるわけにはいかない。美希は丁重に首を横に振った。

 女性は店員にロイヤルミルクティーとチーズケーキを注文して、水を一口飲んでからようやく落ち着いたらしい。肩からずり落ちかけていたカーディガンを直し、美希に向かってほんのり微笑む。

「お目目が万梨子さんにそっくりね。お名前はなんて言うんだっけ」

「美希です。職場では母がいつもお世話になってます」

「そんなそんな。むしろ逆よぉ。私の方こそ毎日泣きつきっぱなしでお世話されてるんだから」

 あはは、と女性は朗らかに笑う。化粧の濃い目尻に深いしわが刻まれた。

 彼女は志村由比子ゆいこといい、母の同僚であり、例のお茶会に招待した張本人だ。

 一昨日の夕方、美希は榛弥に一度「秋津くんからセイレイさまのこと聞けそうにない」と泣きついていた。榛弥は諦めずに頑張れと激励をくれたほか、もし本人から聞き出せそうになければ別のところを当たってみろとも教えてくれたのだ。

 秋津家の人間以外でセイレイさまを知っていそうな誰か――考えて思いついたのが、母をお茶会に誘った同僚だった。

 思い立ったが吉日というやつで、美希は母から同僚に「娘がセイレイさまのこと知りたいって言ってる」と連絡を取ってもらったのだ。返事は五分もしないうちに来て、志村の勤務時間の都合上、一番早く会えるのが木曜の午後しかなく、すぐに約束を取りつけた。

「それで、セイレイさまのことなんですけど」

 余計な世間話をする余裕はない。美希は注文した品がそれぞれ届いてから本題を切り出した。志村はチーズケーキをフォークで上品に切り分けながら、少女のごとく嬉しそうに目を細める。

「万梨子さんから聞いたんですってね。良かった、あの時万梨子さんたら途中で帰っちゃったから、てっきり興味が無かったのかと思って心配だったの」

「ああ、まあ……母本人はあまりだったみたいなんですけど、あたしは気になっちゃったっていうか。セイレイさまは願いを叶えてくれるんですよね」

「そうなの! もう凄いのよ。本当になんでも叶えてくれるんだから。最初は半信半疑だったけど、セイレイさまにお参りしてから良いことづくめで」

 お茶会に誘われるまで、志村の生活はいまいちパッとしなかったらしい。二人の息子は反抗期に入り、夫と会話すれば八割がた喧嘩に発展する。職場でも失敗続きで、上司に叱られ後輩には見下され、心身ともに疲弊していた。

 けれどある日、友人とランチを楽しみながら日々の愚痴をこぼしていた際「それならぜひお茶会に来て。きっと気分が楽になれる」と誘われたそうだ。

 同じことをくり返す毎日に少しでも刺激になれば。そう思ってお茶会に足を運んだと志村は語る。

「楽しくお喋りしたあとに、お友だちが『セイレイさまにお願いしたいことがあるんです』って言いだしてね。初めは『なにそれ?』って感じだったんだけど、よくよく聞いたら願いを叶えてくれる神さまだって言うじゃない? もうほんと、藁にも縋る思いで私もお願いしちゃったわ」

「例えばどんなことをお願いしたんですか?」

「そりゃあもちろん、息子のことでしょ、夫のことでしょ。あとは仕事がうまく行きますようにって、数えたらキリがないくらい。私ってば欲張りな性格だから。でもセイレイさまはお願いを聞いてくれたの! 息子は急に優しくなったし、夫とも新婚みたいな仲に戻れたの。上司から怒られなくもなったし、後輩なんか『志村さんのこと世界で一番尊敬してます』って言ってくれて!」

 当時を思い出して喜びもよみがえったのか、志村はただでさえチークで赤い頬を更に赤くさせる。

 なるほど、と相槌を打つ美希に、志村はさらに言葉を続けた。

「でもお願いは叶いっぱなしじゃないみたい。息子はまた『うるせえババア』なんて言ってきたりして、夫とも言い合いになる時があったの。だからセイレイさまにまた『悩みを解決してください』ってお願いして叶えてもらった」

「へえ……」

 セイレイさまの素晴らしさを熱弁する志村であるが、美希の中では胡散臭さが増す一方だ。

 息子や夫の態度はその時々の気分によって変化するものだろう。人間なのだから当たり前だ。上司に叱られたり、後輩に見下されたりというのも、本人の失敗続きが原因と推測される。

 もし〝不治の病を完治させた〟とでも言われたら、信心深くない美希でも多少は信じたかもしれない。けれど志村が語る様々な事例は、はっきり言って本人の努力や感じ方次第でどうとでもなるものばかりで、セイレイさまが叶えてくれたとは断言しがたい。

「セイレイさまには捧げものをするとも伺ったんですけど、志村さんはいつもどんなものを持って行くんですか」

「そうねぇ。お肉をお供えすることが多いかも。セイレイさまはお肉、特に内臓が大好物だって秋津さんから聞いたものだから。お願いをする時と、お願いを叶えてもらってからと、二回持って行くの。あと、そうそう。セイレイさまのパワーを貰う修行っていうのに、最近参加し始めて」

「パワーを貰う……?」

「セイレイさまからパワーを貰うとね、体が常に浄化された状態で病気一つしなくなれるんですって。でもパワーを貰うためには修行が必要だから、週三日で秋津さんのところに通ってるの」

「修行って、例えばどんなことを?」

「色々よ、色々。パワーを受け入れられる体を作るための体操は、秋津さんの旦那さんが教えて下さるの。秋津さんは他のセイレイさまにお見せするお花を生けたり、セイレイさまに食べていただく食事を作ったり盛りつけたりっていうのを担当してて。お二人とも優しいから気楽に参加できるの」

 恐らくそれらは秋津家の和館で行われているのだろう。美希たちが訪れた日も生け花を教えていたと玻璃恵が言っていたはずだ。

 志村はまだセイレイさまのパワーとやらを貰えていないらしく、しばらく通い続けると気合十分に言う。その際にも捧げものを持参し、それとは別に教室の受講料としていくらか払うらしい。額は特に指定されていないものの、多ければ多いほど貰えるパワーも多くなると教えられたため、少なくて一万円、多くて五万円を渡すという。修行の参加人数は日によって異なるが、多い日は十人を越すそうだ。

 ――仮に十人全員が五万持って来とったら、単純に計算して一回で五十万の儲けやんな。

 ――ほんでそれが週三日……合計で百五十万……。ひと月に五週あるて考えたら六百万。それが十二ヵ月……?

 頭の中で計算して、弾きだされた額に瞠目する。志村が参加する日以外にも修行を開催していて、参加者も他にいるとするならば、さらに多くの金額を受講料として秋津家は預かっていることにならないか。

「私はまだ参加し始めたばかりだから駄目なんだけど、パワーを貰うにふわさしいって認められたら、セイレイさまの力が一番強い場所に連れて行ってもらえるそうなの。どんなところなのか気になって他の人に聞いてみたら、なんでもお屋敷にどこかにセイレイさまが降臨される場所があるみたいで。でも誰も場所を知らないから、今はそこに一番乗りするのが私の目標」

「はあ、そうなんですね……」

「それでねえ、主人がセイレイさまを全く信じてくれなくて」

 志村が深いため息をつき、悶々とした様子で唇を噛んだ。

「『そんなものに金と時間を使う暇があるなら、もっと家庭のことに目を向けろ』ってうるさくって。セイレイさまをそんなもの呼ばわりなんて、失礼だと思わない? いつか罰が当たるって言ってやったわ」

「でも正直、私も今のところちょっと疑ってます」

 美希の一言に、志村の眉がひょっと跳ねた。

「なぁに、どうして?」

「……セイレイさまは本当にいるのかなって。あたし、目に見えないものはすぐに信じられないんです」

「あー、気持ちは分かるわ。私だって最初はそうだったから」

 でもね、と志村は美希の方に手を伸ばす。机のふちに置いていた手の甲をそろりと撫でられ、一瞬だけ鳥肌が立った。

「一度お願いを叶えてもらえれば、絶対に信じるから。私はもっとセイレイさまの素晴らしさを広めたいし、秋津さんもそれを望んでる。だから美希ちゃんもぜひ今度お茶会に来てほしいな。もちろん万梨子さんにもね」

「……考えておきます」

 なるべく自然に見えるような作り笑いを唇に乗せて、美希は志村に触れられていた手を素早く引っこめた。生温かさが手の甲に残って気持ち悪い。

 他に聞かなければならないことは無いか。榛弥がセイレイさまはどういう表記か気にしていたのを思い出して訊ねてみたけれど、志村も知らないらしく首をかしげられる。

「じゃあ、あの。セイレイさまへの捧げものって、お肉以外にもいいんでしょうか。あたしまだ学生なので、あまり高額なのは用意出来なくて。もしお茶会に参加したときのために聞いておきたいんです」

 志村は「うーん」と唇の前に人差し指を立てて唸る。

「ああいうのは気持ちだけど、お願いのわりに安いものだと誰だって嫌じゃない? 私のお友だちは『夫の浮気相手に大怪我をさせてほしい』ってお願いしたけど、捧げたのがその辺に咲いてるお花だったからセイレイさまに叶えてもらえなかったみたい。やっぱりね、ああいうのはちゃんとお願いに釣り合ってないと駄目。目には目を、歯には歯を……ってこれはちょっと違う?」

「さあ……? でも意味は伝わります。大きいお願いをするなら、それに相応しいものをってことですよね」

「そうそう! そういうこと!」

 伝わって良かったわあ、と志村が嬉々として手を叩いた。

 最終的に彼女は志村本人の名刺と、お茶会の開催日時と場所を記したチラシ、二人分の飲食代を渡して、仕事があるからと帰っていった。チラシには慎ましやかな茶室に玻璃恵と数名の参加者が写っており、「伝統的なお庭を眺めながら、お茶とお菓子を楽しみませんか? 初心者歓迎。連絡先は……」とあるのみでセイレイさまとはどこにも記されていない。

 なんだかどっと疲れて、美希は椅子にぐったりもたれて天井を仰いだ。近くにあった時計を見れば、入店してから一時間近く経過している。すっかり冷めたカフェモカに口をつけて、そういえば一口も飲んでいなかったことに気が付いた。

「……とりあえず覚えとるうちに、榛弥兄ちゃんに連絡しとこかな……」

 必要になるか分からないが、ついでにチラシも写真を撮って送る。ちょうどスマホを見ていたのかすぐに既読がついて「ご苦労さま」と頭を下げる猫のスタンプが表示された。榛弥が使うには少々可愛らしい絵柄で、少しだけ疲れが癒された気がした。

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