二章――④

 思いがけない声に一瞬、美希の思考が停止する。なかなか返事が無いのをスマホの不調だと受け取ったようで、榛弥が何度も「聞こえてるか?」と小声で呟いていた。

「あ、ああ、うん。大丈夫、聞こえとる」

「そうか。ならいい」

 あたふたと答えれば、ふ、と吐息に似た笑いが聞こえる。ビデオ通話の提案をされて反射的にうなずくと、間もなく軽く手を振る従兄が画面に映った。

 肩の上あたりまでさらりと伸びた黒髪に、気だるそうな黒紫の瞳、喜怒哀楽が読み取りにくい無表情さは去年会った時とまったく変わらない。長方形の眼鏡をかけているのは仕事中だからだろう。白いワイシャツと黄土色のサマーニットというシンプルな装いは、夏と秋の中間に位置する今の時期によく合っていた。

「ちゃんと僕映ってるか?」

「映っとるよ」唇が無意識に弧を描いていると気づかないまま、美希は手を振り返した。「三連休の最終日やのに大学行っとんの?」

 榛弥は准教授として某大学に勤めている。美希の疑問に彼は「いや」と首を横に振った。

「家で作業中。資料を読むのに夢中で気が付いたら昼過ぎてて、飯でも食うかと思って休憩し始めたところだ」

「そんな忙しいのに急に電話てどうしたん。お兄ちゃんになんか用事?」

「昨日お前だけいなかっただろ。『会いたそうにしてたんだけどねえ』って叔母さんが言ってたから」

 しまった。再会出来ずに悔しがったのを兄が面白半分に話すかもしれないとは思っていたが、まさか母が伝えてしまうとは。羞恥のあまり唸り声をあげてしまうけれど、おかげで電話をかけてきてくれたのだから嬉しさもある。

「わざわざありがとう。昨日は友だちと泊まりに行っとったもんで」

「らしいな。前もって予定が入っていたなら仕方ない。もっと事前に言わなかった僕たちも悪いし」

「あれやろ、お祖母ちゃんとこに孫連れてったんやろ」

 榛弥は去年の初秋に高校時代からの彼女と結婚し、今年の春に第一子が誕生した。確か女の子で、紗乃果さのかと名付けられていたはずだ。

 美希は何度か生まれたばかりの頃の写真を見せてもらったが、榛弥と妻、二人の特徴をよく受け継いだ可愛らしい子だった。ますます昨日の初対面を逃したのが残念になってくる。

「なあ美希」つん、と兄が肩をつついてくる。「ハル兄やったら分かるんちゃうか」

「なにが」

「セイレイさま。ハル兄ってそのへん詳しかったやろ」

 言われてみればそうかも知れない。美希はハッと息を飲んだ。

 榛弥の専門は民俗学だ。具体的にどういう学問なのか美希はよく知らないけれど、ひな祭りや七夕、お盆などの風習について訊ねた際にやけに小難しく話してくれた覚えがある。神社や寺に参拝した際にはなにが祀られているか、こちらが聞かなくとも勝手に喋っていたほどだ。

 であれば恐らく、セイレイさまについてもなにか知っているはず。美希はスマホを掴む手に、祈るような思いで力をこめた。

「あのさ、榛弥兄ちゃん。神さまの名前のことで聞きたいことあんねんけど」

「ずいぶん急だな」それなりに驚いたようで、榛弥が何度も目をまたたく。「構わないが、どういう名前だ?」

「昨日泊まりに行っとったって言うたやん? 友だちの彼氏の家やってんけど、セイレイさまっていう神さま祀っとってさ。知らへん名前やったけど榛弥兄ちゃんなら分かるんちゃうって今お兄ちゃんに言われて」

 ふむ、と榛弥が顎に指をそえて黙ってしまう。

 美希と兄がじっと待つこと数秒。やがて従兄はわずかに首をかしげた。

「漢字は? 精神の〝精〟に幽霊の〝霊〟で精霊か?」

「……どうやろ。そういえば聞いてへんわ。あ、けどトンボがセイレイさまの使いやて言うとったかな」

「トンボだけ? 他の虫なり動物なりは」

「特に聞いてへんけど」

 榛弥はまた数秒間考えこむと、どこからかペンとノートを取り出してなにやら書き始めた。内容を見てみたくても、画面には榛弥の顔が映るばかりで手元はさっぱりだ。

「日本に限らず世界各地には古代から〝アニミズム信仰〟がある。動物はもちろん樹木や岩、火や水など全ての物に神秘的な存在――いわゆる精霊が宿っているとする信仰だ。だから美希が泊まった家もそれに基づいた信仰を持っているのかも知れないが」

「うーん……よう分からへんけど、その精霊ってみんなご利益一緒なん? 秋津くんは『勝負ごとにご利益がある』て言うとったんやけど。お参りとお供え物もちゃんとしたら、良え結果運んできてくれるて」

「五穀豊穣や雨乞いとかじゃないのか。……悪いが今すぐには心当たりが浮かばない。僕もまだまだだ」

 ペンのノック部分で何度も自身の額を小突いて、榛弥が残念そうに肩をすくめる。

「榛弥兄ちゃんでも知らへんことあるんや」

「当たり前だろ。美希は僕をなんだと思ってるんだ」

「めちゃくちゃ物知りな親戚」

「ありがたい評価だが買い被り過ぎだ。他になにかセイレイさまについて言われたことは無いか? ちょっとしたことでもいい」

 専門分野に関する話題で興味を刺激されたらしい。榛弥が身を乗り出してうずうずと訊ねてくる。

 しかし美希が提供できる情報は先ほど伝えたこと以上に無い。それでも些細な手がかりが無いか腕を組んで考えていると、横にいた兄が「あっ」と指を鳴らした。

「お前の友だちがらんようになったのは? セイレイさまが保護しとるて言われたやつ」

「ちょっとお兄ちゃん、口挟んでこんといて」

「なんだ、壮悟も居たのか」

「俺のスマホに電話してきたんハル兄やろが」

 そうだったか、とあからさまに榛弥がすっとぼけて、兄――壮悟が小さく舌打ちした。本気で怒っているわけでないのは柔らかな表情から分かる。

「で、友だちが居なくなったってなんだ」

「あー……その、今日の朝起きたら友だちがどこにも居らんかってん。捜しまわったけど見つからへんくて、どうしよて思とったら、友だちの彼氏のお母さんが『セイレイさまに気に入られた』んちゃうかて言うてきてさ。ちゃんとセイレイさまに保護されとるで安心せえ言われたけど……」

「なるほど、神隠しか」

 聞いたことあるか、と問われて、美希と壮悟がほぼ同時にうなずいた。

 単語自体は知っている。世界的に有名なとあるアニメーション映画をはじめ、様々な漫画やゲームでもモチーフとして使われることがあるからだ。多くの作品では登場人物がある日急に失踪したり、神や妖怪に誘われて異世界に迷いこむことを〝神隠し〟と表現している。

 仙嘉もその一種ではないかと榛弥は言っているらしい。しかし美希は納得できずに唸った。

「神隠しとかあんなんフィクションやろ? 現実に起こると思えへんわ」

「まあ最後まで聞け」落ち着いた声音でこちらを宥めて、榛弥が手元のノートにペンを走らせる。「そもそも神隠しってなんだと思う。壮悟、言ってみろ」

「なんで俺やねん」

 文句をこぼしながらではあるが、壮悟は素直に答える。

「美希の友だちみたいに、人がいきなり居らんようになったりすることやろ」

「じゃあなんでいなくなると思う?」

「そ、れは……神隠して言うくらいなんやし、神さまに連れてかれたとか」

「それはフィクションだと美希が言ったばかりだろ。難しく考えなくていいから」

 榛弥が眼鏡を拭き始めた。美希たちがなにかしら答えるまで待つつもりだろう。

 難しく考えなくていい――つまりきっと単純な話なのだ。

 例えば壮悟がいなくなったとする。家や職場を捜しても見つからず、行き先の手がかりになるものも残されていない。電話もメッセージにも反応なしだ。その場合、美希が真っ先に疑うのはなんだろう。

 友人たちと遊びに行ったのか、それとも買い物に出かけたのか。急に思い立って一人旅行にでも赴いたのかも知れない。

「……家出……?」

 美希の予想に、榛弥が「正解」とうなずいた。

「数ある可能性の一つだけどな。他にも迷子とか駆け落ちとか、あるいは誘拐とか、いたはずの人が忽然と消える理由は複数ある。そのまま見つからずに数日経過した場合、今の時代なら行方不明事件に発展するが、昔はそうじゃなかった。どれだけ捜しても見つからなければ〝神隠し〟と結論付けられたんだ」

「なんでなん? ちゃんと捜したったらええのに」

「あえて極端な話をするが、生きていないかもしれないからだ」

 美希と壮悟は不穏な一言に目を合わせた。

 現代でも「数日前から行方不明」とニュースが出た数日後、残念ながら遺体で発見という例がそれなりにある。それは昔も変わらないのだろう。美希も何度かそういった痛ましい報道を目にしている。

「これは僕の考えだが、神隠しには捜索側の願いが込められているんだと思う」

「願い?」

「大事な人がいなくなってしまったけど、事件や事故に巻き込まれて、挙句死んでしまったなんて誰だって信じたくないだろ。そういう時に『あの人は神隠しに遭ったんだ』と理由付けして、どこかで生きているはずだと願うんだ」

 そうすれば、少なくとも自分の中では死んだことにはならない。別の土地で元気に暮らしているかも知れないという希望が残るのだ。

 神隠しに関する逸話は数多く残っており、中には失踪した数年後にひょっこり戻ってきて「ここではないどこかに連れていかれた」と証言した者もいるそうだ。

「けど門の鍵は閉まっとったし、仙嘉が一人でどっか行くと思えへんよ。荷物も置きっぱなしやったのに。……もしかして」

 先ほど榛弥が行方不明になる事例の一つとして誘拐を挙げていたが、仙嘉も何者かに連れ去られてしまったのでは。一瞬そんな考えがよぎったものの、秋津家の敷地内で誰に攫われるというのか。駐車場には防犯カメラもあったし、恐らく本館にも備わっているに違いない。誘拐犯が忍びこむのは難しいはずだ。

「しかしなんで友だちの彼氏の母親はすんなり『セイレイさまに気に入られた』なんて発想が出て来たんだ?」

 ぎし、と椅子にもたれかかって、榛弥が訝し気に目を細める。

「招待した客が行方知れずになったんだぞ。いくら信仰心が篤かろうが、もっと焦っても良さそうなものだが」

「あ、なんか『昔からよくある』みたいなこと言うとったよ。遊んどる時や寝とる間に、みたいな」

「『よくある』? 過去に何度も同じことがあったのか」

「ってことやろ」

 ――けどそんな何回も人が居らんようになるってことある?

 自分の意思でいなくなったのだとしても、誘拐などの事故に巻き込まれたのだとしても。

 起きてなんら不思議はないと思えるだけの数があの家で起きているとしたら、それは果たして〝神隠し〟の一言で済ませられるだろうか。

「よし、分かった」

 ぱんっと榛弥が手を叩く。あまりに綺麗な音が鳴って、美希の背筋が自然と伸びる。

「僕はしばらくセイレイさまについて調べておく。なにか分かったらまた連絡するから、美希は友だち捜しに尽力しておけ」

「わ、分かった」

「ついでに友だちの彼氏――秋津くんだったか? 彼や家族からセイレイさまに関するなにかを引き出せたら伝えてくれ。今は少しでも情報が欲しい。一見無関係そうなものでも、どこかで繋がるかもしれないからな」

 榛弥の声からは好奇心が漏れ出ている。まるで玩具を前にした子どものごとく目を輝かせて、「それじゃ」と電話を切ってしまった。

 知的探求心に素直な従兄のことだ。今ごろ本棚からあらゆる書籍を引っぱり出して、セイレイさまの記述が無いか確認しているだろう。

 明日は学校に着いたら真っ先に雅太に仙嘉が見つかったか訊ねなければ。見つかっていればそれでいいし、見つかっていなければ警察への相談を視野に入れておいた方が良さそうだ。

 ――仙嘉が居らんようになったんを、絶対に神隠しで片づけさせたりせえへん。

 決意を胸に抱いて、美希はスマホを兄に返して立ち上がる。

 向かったのは二階にある母の部屋だ。母も仕事が休みで家に居り、今ごろ寝転んでテレビを見ているか、通販のチェックでもしているはずだ。

 母には一つ聞かなければならないことがある。質問を頭の中でまとめながら、美希は扉をノックした。

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