二章――③
「は? 仙嘉来やんかったん?」
本館の玄関前で、美希は眉間にしわを寄せた。上がり框に立つ雅太が困惑した表情のままうなずく。
仙嘉は就寝時間になっても戻ってこなかった。予想通り本館に泊まったと判断して、結局美希は一人で眠ったわけだが、着替えが無いだろうとそれらしい荷物を抱えて朝に訊ねてみれば、彼女は来ていないと告げられたのだ。
どういうこと、と問いを重ねる美希に、雅太が何度も自分の頬を撫でながら唸る。
「昨日の夜に暁戸さんが連絡くれたあと待ってたけど、いつまで経っても来なくて……」
「ほんならなんでそん時に言うてくれへんねん」
「離れに戻ったと思ったんだよ。確認したらそっちの部屋の電気が消えてて、もし寝てたら連絡して起こしちゃうと悪いし」
申し訳なさそうに眉を下げられて、美希は仏頂面で唇を尖らせる。出来ることなら「まだ来ないの?」くらい聞いてきてほしかったが、雅太の気遣いを責めるわけにもいかずもどかしい。
昨晩の仙嘉はかなり酔っていた。そのせいで本館の方向が分からず、見当違いの方へ行ったまま外で眠りこけている可能性もなくはない。雅太と手分けして庭をあちこち探し回ったものの、友人の姿は見当たらなかった。
雅太の両親も仙嘉を見かけていないという。本人に連絡を取ろうにも彼女のスマホは離れに置きっぱなしだ。
「仙嘉のやつどこ行ったんや。まさか門から外に出てったてことないやろし」
「どうだろう……夜になったら門の鍵は閉めるけど、内側から簡単に開けられるから」
「……酔うとったし、適当にガチャガチャやったら開いてもて、そのままふらふら出てったとか……?」
あり得ない話ではなく、二人で急いで数寄屋門まで駆けたけれど、鍵は閉まったままだった。
塀を乗り越えて外に出たのではと推測したのは久美彦だった。しかしいくら酒の影響で判断能力が低下していたとしても、仙嘉がそんな行動に出るとは思えない。そもそも塀の高さは一番低いところでも二メートルほどあり、踏み台でも無ければ乗り越えるのは難しいだろう。
「もう一回、さっきと逆回りで捜してみよ。あたし西から周るで、秋津くんは東から一周な」
「分かった。本館の中もぐるっと見てみる」
離れを出た時の仙嘉がどんな服を着ていたか思い出しながら、祠堂の周囲や防空壕の中などすみずみまで確認する。捜している間にもし部屋に戻っていたら、と考えて離れも覗いたが、どこにも気配が無かった。
完全に姿が消えている。大声で名前を呼んでも、返事は一切ない。
「足滑らして池に落ちてもたとか、そんなことあらへんよな」
「仮にそうだとしても、溺れるほど深くは……」
「深なくても溺れるときは溺れるで。風呂でも溺死出来んねんから」
嫌な想像を頭から振り払い、美希は念のため池を見渡した。雅太の言葉通りそれほど深くないらしく、透明度が高いおかげで水底がはっきり分かる。ひとまず人影は浮かんでもいないし、沈んでもいなかった。
朝食も摂らずに歩き回り、疲れと空腹で全身が重く怠い。美希は力なく庭が望める和館の縁側に腰を下ろした。
「他ってどこ捜してへん? 洋館の二階とかは」
「全部屋見たよ。押し入れの中もね」
「かくれんぼしてんと
「美希さん、ちょっといいかしら」
背後から玻璃恵に話しかけられ、ゆるゆると顔を上げる。彼女はサンドイッチとコーヒーを乗せた盆を美希のかたわらに置き、「良かったら食べて」と微笑んだ。
「ありがとうございます、いただきます。――挟んであるハム美味しいですね。肉厚で食べ応えあります」
「喜んでもらえて嬉しいわ。仙嘉さんは見つかりそうにない?」
「そうですね。本当、どこに行ったんだか……」
「もしかしたらセイレイさまに気に入られたのかも知れないわね」
「……はい?」
なにを言われたのかすぐに理解できず、美希は何度も目をまたたく。
セイレイさまに気に入られた、とはどういうことだ。意味をかみ砕こうとする美希の視線の先で、雅太が「母さん」と潜めた声で母を諫めている。玻璃恵は微笑みを保ったまま、どこか安心したようにのんびりと言葉を吐く。
「昔からこの家では時々あったそうよ。遊んでいる時や眠っている間に、人が突然いなくなってしまうの。それを『セイレイさまに気に入られた』って言うのよ。いなくなった人はセイレイさまが大事に保護してくださってるから、安心していいわ」
「いや、それは無、」
無理です、と言いかけて、美希は口を噤んだ。
こちらを捉える玻璃恵の瞳が、口もとの微笑みに反して全く笑っていない。
すでに気温が高くなりつつあるというのに、暑させいではない冷たい汗が背筋を流れる。
「ところで一ついいかしら」
「は、はい」
「あと一時間もしたら生徒さんがたくさん来るのよ。こんなこと言って失礼なのは分かっているんだけど、準備もしたいからそれまでに帰っていただけると助かるわ」
「そう、ですね」
もともと朝食を済ませたら帰る予定だったのだ。仙嘉を探している間に予定を大幅に過ぎてしまったのは確かで、玻璃恵が急かすのも仕方がない。頭では理解しているのだが、すぐに了承できない気持ちもある。
友人が居なくなって、それを「セイレイさまに気に入られた」などという訳の分からない理由で納得するのは無理だ。
もう少しだけ捜させてほしいと粘りたくても、玻璃恵は反論を封じるようにずっと見つめてくる。否が応でも了承せざるを得ない。
最後にかじったサンドイッチは、なんの味もしなかった。
「ほんで、とりあえず友だち探しはその子の彼氏に任せて帰ってきたんか」
兄の言葉にうなずいて、美希は冷たい麦茶を喉に流しこむ。居間の空気は生ぬるく、扇風機の力だけでは涼しさが物足りない。
出て行くよう頼まれてからすぐに荷物をまとめ、美希は秋津家を辞した。雅太は終始申し訳なさそうに謝り、せめてもの詫びなのか車まで美希の荷物を運んでくれた。
「遠回していうか、まあまあはっきり『出て行け』言われたら分かりましたて言うしかないやん。秋津くんにも『仙嘉は俺が捜しておくから』て言われてしもたし、しゃーないで帰ってきた」
「にしてはエラい遅かったな」
居間の壁にかかった時計は十三時過ぎを示している。美希が秋津家を出たのは九時過ぎで、兄が不思議がるのも無理はない。
「外出てってしもたかもしれへんて言うたやん? 秋津くん家の近くに公園あったでそこに車停めて、ちょっと捜しまわっとってん。結局どこにも居らへんだけど」
秋津家の周辺にはスーパーや民家が立ち並んでいた。なるべく満遍なく探し、すれ違った人などに声を掛けたりしてみたのだが、首を振られるばかりで収穫無しだ。
気温が高くなるにつれて体力も奪われ、手ごたえの無さも加わり疲労が一気に襲ってくる。美希は渋々自宅に帰り、仕事が休みで家にいた兄に事の経緯を説明したのだった。
「けど『セイレイさまが保護してくれとる』て、なんやねんそれ」
は、と呆れたように兄が笑う。扇風機では暑さを凌げないと悟ったのか、エアコンのリモコンに手を伸ばしていた。
「居らんようになった説明になってへんやんけ」
「やっぱお兄ちゃんもそう思うやろ。守り神やて言われた時は素直に『ふうん』て感じやったけど、一気に胡散臭なってしもたわ」
「話聞いとる限り
「やんなぁ。調べてもみたけど全然出て
検索してヒットしたのはどう見ても無関係そうな企業と、部分的なワードで引っかかった海外の神話や伝承くらいで、必勝祈願の神としての記述は見つからなかった。
朝から何度となく開いたメッセージアプリをタップする。今朝がた送ったメッセージは一向に既読がつかず、時間が過ぎれば過ぎるほど心配が募った。
兄はだらしなく寝転び、顔の前にスマホを掲げて画面をひたすらスワイプする。話に飽きてゲームを始めたらしかった。
「とりあえず明日からまた学校やし、見つかったかどうか聞いてみる」
「そうしとけ。けどお前もワケ分からん家泊まりに行ってしもたな。幽霊出るわ、人居らんようになるわ、ワケわからん神さま祀っとるわ」
「ご飯も美味しかったし、撮影ん時とかは楽しかってんけどなあ。……幽霊で思い出した。お兄ちゃんが視た幽霊なんやけど」
ぴたりと兄の指が止まる。
美希は同級生に兄がいたこと、彼には妻子がいたが事故で亡くなったと聞いたことを伝えた。
「幼稚園くらいの小さい子ぉやったて言うとったやろ? やで多分、お兄さんの子どもやと思うで」
「……事故? なんの?」
「家の近くで遊んどった時に道路に飛び出して、て聞いたで。車に
「……違う」
「は?」
「事故なわけあらへん」
兄はスマホを放って勢いよく体を起こし、短い髪をぐしゃぐしゃにかき回して頭を抱えた。いきなりどうしたのだろう。驚く美希の前で、兄はもう一度「事故ではない」とくり返す。
「なにがやねん」
「事故で亡くなっとるわけない。絶対に」
「アホなこと言わんといてよ。なんで『絶対に』とか言えるん」
幽霊を視たと主張する兄と違い、美希は親族である雅太から直接事情を聞いたのだ。彼のこともまるきり信用できるわけでは無いが、男の子に関する情報は雅太に軍配が上がる。
うんざりする美希に、兄はわずかに躊躇ったように唇を噛んでから息を吐いた。
「……腹、が」
「腹? なんなん、お腹痛いん」
「俺やなくて、男の子の」
自分の腹をさすって、兄は何度も言葉に詰まりながらも語る。
「縦に一直線に切られとってん。服の上から見ただけやで、はっきりとは分からへんかったけど。あと首んとこも切れとったていうか、そっちは刺されたんかな。首が痛いて泣かれたから、腹の方は死んでからやられたんかも」
「ちょっと待って、どういうこと?」
車に撥ねられたのなら体のどこかが折れるなり、潰れるなりしているだろう。兄が説明したように切れるとは思えない。
いや、それよりも。
「お兄ちゃんて車の運転しとる時に男の子見かけたんやんな?」
「……
「てことは、なに? そのあとも見たん? 首が痛いて泣かれたってなに?」
まるで直接話しかけられたかのような口ぶりだ。
美希はじっと兄の目を見つめた。兄は血の気が引いた顔のまま、今にも消えそうな声で言う。
「あん時はおかんに『お茶会連れてって』て言われて、俺が車出してん。一人で行けて言うたんやけど、お茶会のあとに買い物せなあかんで暇なら荷物持ちせえて、半強制的に」
兄は頼みこまれると断れない性格だ。母の要望を受け入れて運転を担い、目的地に向かう途中で初めて男の子を見かけたという。
「そのあとお茶会の会場着いて、俺は興味あらへんかったで休憩所みたいなとこ座って待っとってん。そしたら……」
なにげなく隣を見たら、いつの間にか男の子が座って兄を見上げていたらしい。
すぐに先ほど見かけた子と同じだと分かってぎょっと反応したところ、兄の目に彼が映っていると気づかれてしまった。男の子は兄の袖を掴もうとしてすり抜け、それでもなお縋りつこうとしてきたそうだ。
「ずぅっと『首が痛い』『お父さんがいなくなっちゃった』て泣いとったわ。思い出しただけでしんどなってきた……」
「それで一昨日ちゃんと教えてくれへんかったん?」
「当たり前や。誰が血まみれの男の子のこと思い出したいと思うねん」
その後、兄は無反応を貫いて、男の子は泣きじゃくりながらどこかへ消えてしまったそうだ。
兄の視た幽霊が雅太の兄の息子と同じだと仮定して、兄の話を信じるならば事故で死んだという信ぴょう性が薄くなる。首を刺され、腹を裂かれた姿は何者かの手にかかったとしか思えない。
――じゃあ秋津くんはなんで事故やて言うたんや?
兄と同じで悲惨な姿を思い出したくなかったからだろうか。甥っ子は誰かに殺されたなど、説明しにくいのも分かるけれど。
「ん?」
不意に兄のスマホが振動した。どうやら電話らしく、ずっと震え続けている。兄は通話ボタンをタップし、「もしもし」と沈んだ声で応じた。
「なに、うちになんか忘れ物でもしたん。――美希? ああ、帰って来とるけど。――おう、分かった。ちょっと待って」
「? なに?」
兄にスマホを差し出され、美希は首をひねった。よく分からないまま受け取ると、覚えのあるバリトンボイスが鼓膜を揺らした。
「久しぶりだな」
およそ一年ぶりに聞いたそれは、間違いなく榛弥の声だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます