二章――②

 二日目の夕食は昨日の和食から大きく変わり、照り焼きチキンとシーザーサラダ、蟹とホタテがたっぷり入ったリゾットなど洋食が並んだ。エビの身をすり潰したポタージュスープはまろやかな甘みがあり、上に散らされた小エビの食感が良いアクセントになる。

 鮪の刺身には飾り切りにした大根や赤カブ、赤と黄色のプチトマトが添えられて華やかだ。皿に垂らしてあるソースさえもお洒落で、高級レストランに優るとも劣らない見た目に仕上がっている。

「すごく美味しいです!」

 仙嘉の瞳がいつになく輝いている。そういえば鮪が好物なのだったか。

 かく言う美希も大好きなチキンを口に運んで、あまりの美味しさに今にも足踏みをしてしまいそうだった。皮はパリッと、中はふっくらジューシーに焼き上げられ、玻璃恵の腕の良さが分かる。

 サラダに使われた野菜はどれも瑞々しく、噛めば噛むほど素材のもつ甘みや旨味が舌の上に広がった。

「お野菜はどれも教室の生徒さんがくれたものなのよ」

 玻璃恵がトングを傍らのボウルに突っこみ、美希と仙嘉が空けた皿にサラダのおかわりを盛りつける。野菜はいくら食べても罪悪感が無いし、健康にも良いから、と理由をつけて美希はありがたくレタスを咀嚼した。

「昨日も思ったけど、みーくんの家っていつもこんな豪華なご飯食べてるの?」

「昨日と今日は特別だよ。母さんちょっと張り切ってて」

「雅太、余計なことは言わなくていいわよ」

「そうだぞ」玻璃恵が咎めてすぐ、久美彦も息子に厳しい眼差しを向けた。「母さんに恥をかかせるんじゃない」

「すみません、うっかり口が滑りました」

 雅太が軽く頭を下げながら苦笑して、そっと両親から視線を外す。

 一瞬だけ空気が暗くなったけれど、久美彦が「失礼した」と微笑んだ。「お気になさらず!」と仙嘉も顔の前で両手を振って、玻璃恵にリゾットがいかに美味しいか伝え始めたことでようやく雰囲気が元に戻る。

 ――秋津くんて、あたしと仙嘉にはタメ口やのに、お父さんとお母さんには敬語なんやな。

 スープをすくいながら雅太を見て、美希はわずかに首を傾げた。

 クラスメイトにも似たような話し方をする子はいる。ただし雅太と逆で、生徒と先生には敬語を使うが家族にはタメ口である。

 ――ここんではこれが普通なんかも知れんけど、家族相手に敬語ってなんか変な距離感あるよなあ。

 兄や両親に敬語で語りかける自分を想像してみたが、どうにも違和感がある。自分には絶対に無理だ。兄あたりは「頭打ったんか」と失礼な心配をしてくるかもしれない。

「美希さん、リゾットのおかわりはどうかしら」

「ありがとうございます、いただきます。仙嘉は?」

「うーん……じゃあ私も少しだけいいですか?」

「もちろん。二人とも本当にたくさん食べてくれるから嬉しいわ。雅太も主人も小食だから、普段は作り甲斐が少なくて。寅雄とらおなんか美味しかったもなにも言ってくれないのよ」

 はあ、と玻璃恵は悩ましげにため息をついて、美希と仙嘉の皿にリゾットを入れてくれた。

 寅雄――知らない名前だが、恐らく雅太の兄だろう。ここに訪問してからまだ一度も直接姿を見ておらず、食卓の席にも着いていない。

「みーくんのお兄さんってどんな人なんですか? みーくんにそっくり?」

 仙嘉が着替えで使ったのは仏間ではなかったため、例の写真も見ていないようだ。

「兄さんは俺より十歳上で、見た目は俺とよく似てるけど中身は全然違うよ。しっかり者で、正義感が強くて、頭も良くて」

「寅雄はよく出来た息子だ。我が家の自慢だよ。誰にでも分け隔てなく優しかった」

「スポーツでもいっぱい賞を獲ったのよ。でもそれを自慢にすることもなくて、とても謙虚な子なの」

 身内の贔屓目というやつだろうか、家族三人が口々に述べた寅雄の評価は総じて高い。

 美希も誰かに、例えば兄や榛弥について説明するとなれば、基本的に本人を貶めるようなことは言わない。しかし「でも実は……」と意外な一面をスパイスとして加えることもあるだろう。兄であれば虫と幽霊が怖いとか、榛弥は絶望的なまでに絵が下手だとか。

 それが出てこないということは、三人にとって寅雄は誇らしい存在なのだ。

「みーくんに似て素敵な人なんですね。会ってみたいなあ」

「昨日からお見かけしていませんが、お仕事に行ってらっしゃるんですか?」

「家には居るけれど、なかなか部屋から出てこようとしなくてね。困ったものだよ」

「そうなんですね。ちょっぴり恥ずかしがり屋さんなの?」

「まあ、そんなところ、かな。それより二人とも、リゾットもサラダもそれ以上食べないようにね」

「えー」と仙嘉が不服そうに頬を膨らませ、美希も「今さら言われても」と苦笑した。

 雅太は席を立つとなぜか食堂から出て行ってしまう。次いで久美彦もおもむろに立ち上がり、出入り口脇の壁にあるスイッチに手を伸ばした。

 不意に電気が消えた。暗闇に「わっ」と仙嘉の驚きが響く。

 間もなく雅太が戻ってきたが、両手でなにかを支えていた。ほの明るい光が手元に灯り、彼の顔だけがぼんやり浮かび上がって見ようによってはホラーだ。

「一日遅くなっちゃったけど誕生日おめでとう、仙嘉」

 テーブルに置かれたのはホールケーキだった。縁と側面はフリルに似た白いクリームの飾りが施され、イチゴやブルーベリー、キウイのデコレーションを崩さないよう丁寧にロウソクが五本立てられている。

 美希の耳に仙嘉が息を飲む音が届いた。暗くて判然としないが、ともし火に照らされた瞳が潤んでいる。

「えっ、なになに。どうしたのこれ!」

「本当は食後に出すつもりだったけど、先に見せておいた方がいいかなと思って」

「仙嘉さんが誕生日だって、昨日雅太から聞いたのよ。お出しするのが一日遅れてしまってごめんなさいね」

 雅太と玻璃恵に促されて、仙嘉がロウソクに息を吹きかけた。誰からともなく拍手が起こり、「ありがとう」と応えた彼女の声は感極まって震えている。久美彦が再び電気をつけた時、仙嘉のまつ毛や頬は涙で濡れていた。

「このケーキも秋津くんのお母さんが作ったんですか?」

「ええ。洋菓子を作るのは久しぶりで楽しかったわ。雅太がもっと前もって教えてくれていたら当日にお祝い出来たのにねえ」

「気になさらないでください、こうやって用意していただけて本当に嬉しいですから! そういえばみっきーも今月誕生日だよね」

「そうやな。あと十日くらい」

「じゃあこのケーキは仙嘉さんと美希さん、二人の誕生日のお祝いね」

 玻璃恵は雅太に頼んでナイフを持ってきてもらうと、慎重な手つきでケーキを六つに切り分ける。小食だという雅太と久美彦は少し小さめに、そのぶん美希と仙嘉は大きめの一切れを貰った。

 今すぐケーキも食べたいけれど、まだリゾットとサラダを片付けていない。先にこちらを食べきらなくては。

 美希がサラダを食べ進めていると、玻璃恵がケーキを一切れ皿に乗せて立ち上がった。

「まだ寅雄にご飯を運んでいないから、これと一緒に届けてくるわね」

 玻璃恵はいそいそと食堂を出ていき、程なくして出入り口の前を通り過ぎる。手にしていた盆にはきっと、夕食に出たメニューが一通り乗っているのだろう。

 ――秋津くんのお兄さんの部屋って和館の方にあんのやろか。

 主な生活スペースは洋館だと聞いたが、玻璃恵は和館の方に向かって去った。

 外から見た印象では和館に二階は無い。昼間の撮影では一階を使用させてもらったけれど、教室として使っている和室が計九室と、畳廊下を曲がった奥に浴室とトイレがあっただけで他に部屋は無かったように思う。

 いや、そういえば。

 ――和館の隣に大きい蔵あったな。

 トイレから出てふと横を見た際に、格子状の重そうな扉があったのだ。和室に戻ってから雅太にあれはなにかと聞けば、衣替え用の服や布団、使わなくなった家具などを収納する蔵だと教えてくれた。

 ――あん中でお兄さんが引きこもっとるとか? いくらなんでもあり得へんか。

 美希が気づかなかっただけで屋根裏部屋のようなスペースがあるかも知れないし、そこに通じる階段もあるに違いない。探検欲が多少沸いたものの、さすがに実行に移すのはやめておくべくか。

「仙嘉さんは雅太と同い年だったね」

 久美彦に訊ねられて、仙嘉が元気な返事と共にうなずく。美希が考えている間に、仙嘉はてんこ盛りだったリゾットを平らげてケーキを食べ始めていた。

「それならぜひ味わってほしいお酒がある。良かったら飲んでみないか」

「お酒ですか? 気になりますけど、私アルコール大丈夫かな……」

 不安がる仙嘉に対し、久美彦は手を振って鷹揚に笑う。

「度数は高くないから、一口飲んでみて無理そうなら止めても構わないよ。教室の生徒さんに酒蔵の方がいるからよく頂くんだが、私たちだけで味わうにはもったいなくてね。残念ながら成人前の美希さんには出せないが」

「大丈夫です。あたしの家族みんなアルコール弱くて、あたしも確実に駄目なので」

 両親は一滴も飲めず、兄は成人式の打ち上げでうっかり口にした折に吐いたと聞く。美希にも同じ血が流れているのだから高確率で無理だ。アルコールを含んだお菓子や料理くらいなら平気かも知れないが。

「惜しかったねみっきー。あと十日で二十歳なのに」

「羨ましいとは思てへんでええよ、別に。仙嘉が美味しそうに飲んどるの眺めとくわ」

 結果的に言えば、仙嘉は酒に強かった。

 出されたのは低アルコールの日本酒で、よほど美味しかったのかぐいぐい飲んでいた。途中で雅太がアルコール中毒を心配して止めなければ、あのまま一人で一瓶空けていた可能性がある。

「けど全く酔わんてわけ違うんやな」

 離れの部屋に布団を敷いて仙嘉を寝ころばせ、美希は大きなため息をついた。

 仙嘉の顔は全体的に赤らみ、んへへ、と妙な笑いをずっとこぼしている。

「あんなに美味しいと思わなかったー」

「美味しいんはええけど、いきなり飲み過ぎやわ。はい、今あたし何本指立てとる?」

「八本!」

「四本や」

 飲んでいる時はそうでもなくとも、あとから酔いが回ってくるタイプか。

 久美彦も飲ませすぎたと感じたらしい。本館から辞する前に申し訳なさそうに謝っていた。

「秋津くんのお父さんたちの生徒がくれたもんやったのに、ほとんどあんた一人が飲んどったし」

「そんなことないでしょー」

「そんなことあるわ。仙嘉の飲みっぷりにびっくりして、自分に注いだぶん飲んでへんかったもん。あんたもう絶対外で酒飲んだらあかんで。飲むにしても控えめにせな」

「気をつけるー。でもあれ美味しかったから、今度は自分で買ってみよっかなー」

 アルコールがかなり回ってきたようで、徐々に仙嘉の呂律が怪しくなる。部屋に置いてあった団扇を借りて顔を仰いでやり、美希もたまに自分に風を送った。

「明日は朝ごはん食べたら帰るんやろ。それまでに酒抜けとるとええけど」

「だーいじょーぶでしょ。平気平気」

「二日酔いで気持ち悪なっとっても知らんで。駅まではあたしが送ってくけど、さすがに名古屋まではよう車出さんし」

 仙嘉は名古屋の専門学校の近くにアパートを借りて一人暮らししている。果たして明日、無事にたどり着けるのか疑わしくなってきた。道ばたで吐くのだけは勘弁願いたい。

 ひとまず就寝の準備をしなければ。入浴は今日も美希が先で良いだろう。あの状態の仙嘉を風呂に入れたら、血の巡りが良くなってむしろ酔いが加速しそうだ。

 浴槽に湯を落として部屋に戻ると、寝転んでいたはずの仙嘉が濡れ縁に腰かけていた。覚束ない手つきで踏み石の上の靴を引き寄せ、もたもたと靴ひもを結ぶ。

「なに、どっか行くん」

「みーくんのとこ! ケーキとかお酒とか、そのお礼言いに行ってくる」

「一人でよう行かんやろ。ついてくわ」

「心配し過ぎだってー。ちょっとそこまで行くだけなんだから」

「……分かった。気ィつけて行かなあかんで。戻って来るときは秋津くんの肩とか貸してもらわなあかんよ」

 理解したのだかしていないのか、仙嘉は「分かったー」と伸びやかに答えて、ふらつきながら本館に向かってしまった。

 友の背中を見送って、再びため息をつく。あの調子なら戻ってくるより、いっそのこと本館に泊めてもらった方が安全かも知れない。その場合は着替えを持って行く必要がある。

 念のため雅太に「仙嘉がお礼言いにそっち行きました。寝そうなら着替え持って行くので」と連絡だけ送って、美希は濡れ縁と縁側を遮る引き戸を閉めた。

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