一章――④

 離れの一室に広げた布団に背中から倒れこみ、美希は膨らみきった腹を撫でた。食後すぐに寝転ぶと牛になると子どもの頃に祖母からよく叱られたおかげで、今でも説教が飛んでこないか身構えてしまうけれど、ここでは気にしなくていい。

「いっぱい食べてしもた……」

 後悔じみた呟きに反して、口もとには満面の笑みが浮かぶ。

 玻璃恵に挨拶してから日没までたっぷり秋津家の敷地を下見したあと、美希たちを待っていたのは豪勢な夕食だった。

 食事は洋館一階、階段の向かいにある食堂に用意されていた。絨毯とシャンデリアはホールにあったものと同じで、中央にどんと置かれた楕円形の机はまるで英国貴族の屋敷にでもありそうな重厚感だった。その上に所狭しと料理が並べられ、あまりの量に言葉を失ったほどだ。

「自分でもご飯三杯も食べると思わへんかったもんなあ」

 よいしょ、と寝返りを打ってスマホに画像を表示する。母や兄に自慢するべく、食べる前にこれでもかと写真を撮ったのだ。

 艶めいて甘みのある白米に、蓮根を混ぜて歯ごたえを加えた豆腐。とろろ昆布を敷いた一皿には枝豆の塩茹でと豚の煮物が乗っていた。教室の生徒からのおすそ分けだというぶりとイカは新鮮そのもので、噛んだ瞬間の弾力が忘れられない。地元名産のハマグリはそのまま焼かれたものと、味噌汁に仕上げたものが提供された。

 水菜とキャベツを刻んだサラダも美味だった。ワサビ風味のドレッシングは玻璃恵の自作だったようで、仙嘉があっという間に平らげるのを見て「作った甲斐があるわ」と満足げに笑っていた。

 早速兄に数枚送りつければ、ちょうどゲームでもしていたのかすぐ既読マークがつく。数秒後には羨ましそうに柱の陰から顔を覗かせるキャラクターのスタンプが送られてきて、今ごろこんな顔をしていることを想像すると愉快だった。

「あっ、みっきーゴロゴロしてる」

 ひょいと縁側から顔を覗かせて、仙嘉がスマホのカメラを向けてくる。数秒後にシャッター音が聞こえ、「盗撮禁止やで」と美希は力が抜けきった声で抗議した。

「布団出してくれたんだ。ありがとう」

「こんくらい別にええよ。隣の部屋は仏壇あったし、寝るならこっちかなって思たからさ。そっちは風呂どうやった」

「自動でお湯張るタイプじゃなかったから、蛇口ひねってきた。三十分くらいでいっぱいになりそう」

「了解、タイマー設定しとくわ。どっちが先入る?」

「私だいぶ長風呂なんだよねー。みっきー先にどうぞ。髪洗うのに時間かかっちゃうの」

「そんだけ長いとそうやろな」

 仙嘉は美希の隣に腰を下ろし、ふう、とひと息つきながら腹をさする。彼女も食べ過ぎてしまったらしい。やがて頬を包みこむように揉むと可愛らしく唸った。

「普段に比べて四倍くらい食べちゃったかも」

「やとしたら普段が少なすぎるて」

「体型維持するのに気を遣ってるのー。お肉ついちゃったらどうしよ」

「そんなカロリー高そうなメニューやなかったし、心配せんでええんちゃう。まあ三日間くらい気にせんとこに。太るかもーって思いながら食べるより、味わって楽しんだ方が絶対ええで」

 滞在中の楽しい思い出は多い方が良いに決まっている。美希のアドバイスを受けて、仙嘉は不安そうな表情から一転、吹っ切れたように「それもそっか!」と握りこぶしを作っていた。

「そういえば秋津くんのお父さんとは仲良うなれたん?」

 雅太が予想した通り、彼の父――久美彦くみひことは夕食の席で挨拶を交わせた。玻璃恵同様に久美彦も着物姿で、白髪交じりの頭髪は生え際が後退気味だった。顔つきは雅太とそれほど似ておらず、角張った頬骨が厳つさを醸し出していた。

 口数が少ないタイプなのか、名乗ったあとはほぼ口を開いていなかったため美希は気難しい印象を受けたのだ。食事の後に仙嘉が話しかけていたのを見かけたが、どんな会話をしたのかは知らない。

「デザートにスイカのシャーベットが出たでしょ? あのスイカ、お父さんが作ったってみーくんに聞いたから『美味しかったです!』って言いに行ったんだけど……」

「けど?」

「すっごく嬉しそうに『それは良かった』って笑ってた。ずっと無言だったのは緊張してたからだって」

「仙嘉ってほんまコミュ力高いよな。あっという間に打ち解けるやん」

「みっきーだってフレンドリーな方でしょ。他の専攻の子とも喋ってるのよく見かけるし。でも方言使ってないの新鮮だったな」

 仙嘉が面白そうに肩を揺らして、美希は「笑うなや」と彼女の額を指で弾いた。

 美希の父は地元生まれ地元育ちで、祖父母も同様ゆえ家庭にはかなりキツめの方言が溢れている。その影響を多いに受けて育った自覚があり、敬語を使わねばならない場面ではそれなりに気をつけるのだ。

 よほど標準語で喋る美希がツボに入ったのか、仙嘉は懲りずに笑い続ける。美希は仏頂面で唇を尖らせ、何度もデコピンをお見舞いしてやった。

「そう、それでね!」

 なにを思い出したのか、仙嘉が急に声のボリュームを上げて美希の腕を揺さぶってくる。

「お父さんがね、『雅太と仲良くしてくれてありがとう。互いを想い合ってるのがよく分かったよ』って言ってくれたの!」

 仙嘉は出来るだけ雅太を愛称ではなく名前で呼ぼうと努めていたようだが、食事でリラックスした影響か途中から〝みーくん〟と何度も口走っていた。美希は彼女の隣の席だったためはっきり分からなかったが、視線を合わせる回数も多かったように思う。

 そんな二人の様子を目の当たりにして、不仲だと感じないわけがない。

「こんなこと言うたらアレやけど、秋津くんって仙嘉と並んだらかなり地味やんか。秋津くんもあんたの写真とか親さんに見せとったやろし、『うちの子は本当にこの子と付き合ってるのか?』ってハラハラしとったんちゃう?」

「それ時々言われるんだよね。付き合い始めた頃に高校の時の友だちにツーショット見せたら『めちゃくちゃ地味な子だね』って驚かれたもん」

「まあ、あたしも最初はびっくりしたし」

 二人が交際し始めたのは進級した頃だが、美希の記憶にある限り、一年生の頃の雅太はそれほど積極的に仙嘉と交流していた覚えがない。自己主張も控えめでクラス内でも目立たないが、課題はしっかりこなす優等生だった。

 美希は四つん這いで仙嘉ににじりより、にやにやと顔を近づける。

「せっかくやし、なんで秋津くんと付き合おと思たんか聞いてみたいわ。告白してきたんは向こうなんやっけ?」

「そうだよー」当時を思い出したのか、仙嘉が照れくさそうに赤らむ。「『同じクラスになった時に一目惚れして、ずっと好きでした』って言われたの」

 シンプルかつ直球な告白だ。自分たち以外誰もいなくなり、教室に夕日が差し込むシチュエーションというのもなかなか趣がある。

「仙嘉って雅太くん以外に付き合うた人おんの」

「告白は中学と高校でも数えきれないくらいされたし、何人か付き合ったこともあるけど一ヵ月くらいでフラれちゃうのがほとんど。性格がキツくて無理って何回聞いたかな」

 自嘲気味に笑っているが、膝の上に置かれた手はワンピースを握りしめ、瞳の奥には悲し気な光が揺れる。好意を寄せてくれた相手に見限られるのを何度も経験して、少なからず傷ついたに違いない。

「だから最初は断ろうとしたんだよ。またフラれたら嫌だしなあって。でも顔真っ赤にして俯いて、今にも泣きそうなみーくん見たらなんか可愛く見えちゃって」

「次の日やったかに手ぇ繋いで登校しとったやん。あれでみんなびっくりしたんやで。『すぐ別れるんちゃう』って予想し合ったん覚えとるわ。なんやかんや続いとるよな」

 仙嘉がどれだけ我がままを言おうと雅太はめげないし、雅太がなにか言いたそうな時は仙嘉もしっかり耳を傾ける。釣り合っていないように見えて、案外ちょうどいいバランスを保っているのだろう。

「あんたら見とると『好きな子るのもええなあ』って気持ちになるわ」

「みっきーにはそういう人いないの?」

 今度は仙嘉がずずいっと顔を寄せてくる。

 ――やば、墓穴掘ったかも。

 美希は数分前に恋バナを振った己を恨んだ。人の話を聞くのは面白いけれど、自分の恋愛トークをするのは少しばかり恥ずかしい。

 というのも。

「好きなタイプははっきりしてんねんけど、理想高すぎってよう呆れられんねんな」

「そうなの? 例えばどんな?」

「身長百八十センチ近くて、腕っぷしつよぉて頭も顔面もそれなりに良くて、声が低くて彼女にも優しい人。あと偉そうやけど腹立たんくて、自分の好きなことにとことこん夢中になれる、みたいな」

「……ずいぶん具体的じゃない?」

「そうやろ」

 うなずきながら、美希は一枚の画像を仙嘉に見せた。去年の夏に撮った写真で、海を背景にして画面中央に美希、向かって左に兄と、右には黒髪をハーフアップにした男が表示されている。

「わっ、この人かっこいいじゃん!」

 仙嘉が男の顔を拡大させながら叫んだ。鼻の高い中性的な顔立ちが画面いっぱいに広がり、美希たちが完全に追いやられる。耳元でいきなり大声を出されて視界がくらつきながらも、美希は再び「そうやろ」と応じた。

「この人誰? お兄さんの知り合い?」

「いや、十歳上の従兄いとこ

 そして好みのタイプそのものの人物でもある。

 昔は友人たちに親戚が理想だと話すと、からかわれたり引かれたりした。仙嘉がどんな反応を示すか分からず、美希は恐る恐る表情をうかがう。

 しかし彼女の目を見てなんだか拍子抜けした。むしろ「その話、詳しく」と目を輝かせていたからだ。

「詳しくもなにも、大したことあらへんよ。じいちゃん家で顔合わせるたびによう遊んでくれたり、勉強も教えてくれたりして憧れたっていうか。幼稚園の頃はほんまに好きやったみたいで、あんま覚えてへんけど従兄――榛弥はるや兄ちゃんに何回も『大きなったら絶対に榛弥兄ちゃんと結婚する!』て言うとったっぽいな」

「なにそれ、みっきーめっちゃ可愛いじゃん。じゃあ初恋の人は従兄さんなんだー」

「やめてや、恥ずかしい。しかもこれ榛弥兄ちゃんから『お前も昔は可愛げがあったのに』みたいな感じで聞かされて、顔から火ぃ出そうやってん」

 思い出すだけで羞恥のあまり耳が熱くなる。告げてきた本人は揶揄するでもなく淡々と懐かしんでいたのが余計にいたたまれなかったものだ。

 ――けど初恋なんはほんまやわ。

 彼女が出来たと聞いた際には、子ども心にショックだった。母から「目が腫れるくらい泣いて『嫌だ』って駄々こねてたのよ」と教えられたこともある。

 しかし失恋をきっかけに完全に恋心は消えたし、現在抱いているのは単純な憧憬だ。とはいえ顔を合わせれば未だに浮足立つのも事実で、明日は美希の家に来るというのに会えないことを思い出して項垂れたくもなる。

「あれじゃない? アイドルを推してる感覚に近いんじゃない?」

「あー多分そうやわ。それが近いわ。どうしよ、お兄ちゃんに頼んで写真送ってもらおかな……いや、『まだハル兄のこと好きなんか』とか言われたらムカつくな……ニヤつかれそうなんも腹立つしやめとこ」

「でも確かに身内にこんなかっこいい人いたら、理想高くなるの分かるかも」

 仙嘉もごろりと寝転んで、楽しそうに脚を揺らしながらスマホを返してきた。

「いつかみっきーに彼氏出来たらダブルデートしようね。約束! 指切り!」

「ええけど、まず榛弥兄ちゃん越える人見つけなあかんやん。どんだけかかるか分からんわ。――おっ」

 ぴぴぴ、と軽快な電子音が流れる。そろそろ浴槽がいっぱいになる頃か。

 美希は寝巻き代わりに持参した体操服を抱えて縁側に出た。浴室とトイレは仏間を通り過ぎた先にある。中庭からは虫の鳴き声が聞こえ、かすかに届く鹿威しの響きも重なって風流だ。

 離れからは和館がよく見える。廊下だけ電気がついていて部屋が暗いのは、主な生活スペースが洋館に集中しているからだそうだ。

「うん?」

 ふと視界の端でちらつくものがあった。離れの軒下になにかぶら下がっているらしい。着替えを抱えたまま美希は濡れ縁に足を踏み出し、風になびくそれを見上げる。

 揺れていたのは白い短冊だった。柄のない無地で、音もなくひらひらと踊っている。

「……風鈴?」

 軒下に吊るされる飾りとして思い浮かんだものを呟く。しかし目の前にあるものはどこか違った。

 音が鳴っていないのだ。よく見れば風鈴にあってしかるべき鐘がついておらず、代わりに虫カゴらしき四角い木の箱が短冊の上にあった。中に黒い陰が見えたため空ではないようだが、月明かりでは正体を探れない。

 美希はスマホに手をかけ、すぐに首を振った。

 わざわざ照らして確認しないでも、朝になって改めて見ればいい。それより早く風呂に入って、明日の準備をしなければ。自分が入浴を済ませないと仙嘉も寝るのが遅くなってしまう。

 もう一度だけ短冊を見上げてから、美希は濡れ縁に通じる窓を閉めた。

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