一章――③
門をくぐってすぐ目に飛び込んできたのは、石畳が五十メートルほど続く一本道だった。両脇には整然と樹木が並び、たっぷり伸びた枝葉が屋根を作って日差しを遮り涼しく感じる。ツクツクボウシとアブラゼミも忙しなく鳴いて、まるで夏が去るのを惜しんでいるようだ。
美希と仙嘉が呆気に取られて立ち止まるのを、雅太は慣れた様子で待っていた。秋津家に訪問した誰もが似たような反応をするのだろう。
「十一月くらいになると葉っぱが紅葉してもっと綺麗だよ」
「せやろな。モミジとイチョウ植わってんの?」
「どっちもあるよ。植えたのか、もともとあったのか分からないけど」
「銀杏もいっぱい取れそう。串焼きにして食べると美味しいんだよねー」
「じゃあ収穫した時はご馳走しようか」
やったあ、と仙嘉が嬉しそうに雅太の腕に抱きつく。美希がいるからか彼は少しだけ照れくさそうだったものの、無理に拒んだりしない。学校でもよく見かける光景だ。
二人の背中を見送りながら、美希はさり気なく周囲を見回した。
――幽霊なんか
昨晩の兄の一言が脳裏によみがえって首をかしげる。
兄は昔から幽霊の類が
子どもの頃は心霊番組を見て怖がったりしたものだが、今では種か仕掛けがあるだろうと現実的な思考がよぎってしまう。もし仮に幽霊が存在するとしても、自分には見えないのだから無害も同然だ。
『まあ一応話聞いたるわ』
居ると断言するからには確たる証拠があるに違いない。美希が腕を組んで待ち受けていると、兄は渋面のまま言葉を続けた。
『こないだそっちの方行く用事あったで通りかかったんや。ちょうど信号で停まった時に歩道見たら、塀のそばで幼稚園児くらいの小さい男の子がうずくまっとってん。どうしたんかな、親とはぐれたんかなって見とったら、自転車が思いっきり子ども
『なにそれ、危ないやん』
『俺も思たわ』その瞬間を思い出したのか、湯上りで火照っていたはずの兄の顔が徐々に青くなる。『けど男の子なんともなさそうにけろっとしとって、立ち上がって走り出したと思たら、塀すり抜けて消えてしもて』
『どっかに入り口あったとかやなくて?』
『そんな隙間どこにもあらへんのお前も知っとるやろ』
もともとひと気が無いのも相まって、兄は塀の向こうを「人の住んでいない幽霊屋敷がある」と感じたようだ。しかしたった一度幽霊かもしれないものを見ただけで決めつけるのはいかがなものか。見間違いだった可能性も捨てきれない。
他にも根拠は無いのか。そもそもどんな用事で秋津家の方面まで行ったのか。追及する美希から逃げるように、兄は無言のまま自室に引っこんだ。今日も兄が朝早くから仕事に行ってしまったせいでなにも聞けずじまいだ。
――どうせ変な想像が膨らみ過ぎただけやろ。お兄ちゃん昔から怖がりやし。
――まあ、出そうな雰囲気は充分やけど。
枝葉で出来たトンネルは涼しい反面、生い茂り過ぎて昼間だというのに少々薄暗い。樹木の奥に流れる水路は近くの川から引いたのだろう、しゃらしゃらと流麗な音は聞き心地が良いけれど、どこからともなく聞こえる
「ぅわっ」
不意に目の前を黒っぽいトンボが通り過ぎ、美希は我に返った。普段なら虫には滅多に驚かないが、家の近くでよく見かけるシオカラトンボとは大きさが二回り以上も違ったように見えて、思わず声が出た。
「黒いトンボってなんやっけ。ハグロトンボ……? けどさっきのやつの羽、透明やったから絶対
「みっきー、なにしてんの?」
前方を歩いていた仙嘉と雅太はいつの間にかトンネルの終わりがけに到達しており、なぜ来ないのかと不思議そうな顔で手招きしていた。
慌ててボストンバッグを持ち直し、キャリーケースを転がしながら早足で二人のそばに急ぐ。しかし木漏れ日を潜り抜けた先で待ち構えていたものを見て、またしても美希は固まった。
「……秋津くん
事前に見せてもらった写真はいずれも和室で、てっきり古き良き日本家屋に住んでいると思っていたのだけれど。
目の前にあるのは、どこからどう見ても二階建ての洋館だった。しかもヨーロッパの城にでもありそうな
外壁は光をすべて吸収するかのような漆黒で、正面から見上げると気圧されてしまう。反対に玄関ポーチの
本音を言えば「思てたんと違う」だが、言葉にするのは無礼すぎる。美希は唇を噛んでなんとか口をつぐんだのに、仙嘉は堪えきれなかったようで「イメージと違う」と呟いていた。
「正直過ぎんのもあかんで仙嘉。押しかけて勝手に期待しとるんはこっちなんやし」
「ごめーん。けどみっきーも思いっきり顔に出てたよ」
「えっ、ほんま」
「いいよいいよ。そう思うのも無理ないから」
雅太は困ったように眉を下げて笑い、重圧感の漂う塔屋を見上げる。
「奥にちゃんと普通の和館っていうか、日本家屋もあるよ。とりあえず荷物重いと思うから、先に置いてもらった方が良いよね」
石畳の道は正面の洋館の他に東西へ延び、美希たちは西の方へ案内された。よく整えられた芝生と太い松を横目に進めば、ようやく予想に近い平屋の家屋が姿を現した。雅太は
「ここがさっき言うとった普通の和館?」
「ううん、洋館があった方は本館でこっちは離れ。少し前まで兄さんたちが使ってたんだけど、今は空いてるから自由に使っていいって母さんが。二部屋あるからそれなりに広いし、お風呂もトイレもついてるから使い勝手は悪くないはずだよ」
「それもう離れっていうよりちょっとした家やん」
「そういえばみーくんの家族は? 挨拶したくて」
美希が母から手土産を持たされたように、仙嘉もしっかり用意してきたようだ。
家族は本館で待っているという。今日は撮影に備えて敷地内を下見する予定だが、まずは秋津家の面々に世話になる礼を伝えなければ。
洋館の玄関には瀟洒なステンドグラスが施され、入ってすぐの場所には緋色の絨毯が敷かれていた。左側にはL字型に曲がった階段があり、手すりが光を反射して狐色の艶を帯びる。
「うわーもう早速写真撮りたい! 見てみっきー、あれ可愛くない?」
仙嘉が指さしたのはホールの天井にある照明だ。促されるままに視線を上げれば、古風かつシンプルなシャンデリアが美希たちを見下ろしている。四本の腕木の先に花を模ったランプシェードがあり、側面には羽を休めるトンボの飾りも見受けられた。
「花もリアルだし細かいところまで凝っててお洒落! 映画とかドラマに出てきてもおかしくなさそうだもん」
「分かるわ。シャンデリアとか親さんの趣味?」
「俺も詳しくは知らないけど、本館を設計する時にひい祖父さんが色々口出ししたらしいんだ。『どれだけ金がかかっても構わないから、希望を全部反映してくれ』って」
「なにそれ、マジで金持ちやん……」
金に糸目は付けないなんて、一度でいいからそんな台詞を言ってみたいものだ。
曾祖父が設計に携わったということは、秋津家が建てられたのは明治の頃だろうか。震災や戦禍をどうにか免れ、改修を重ねつつも大部分は建築当時の風貌をそのまま留めているらしい。
――ていうか、秋津くんも金持ちってとこはあんま否定せんのやな。
雅太の性格を考えれば「そんなことないよ」と謙遜しそうなものだが、苦笑いしながら小さくうなずいている。仙嘉と交際する中で多少なりとも彼女の影響を受けたのだろうか。
階段の左右には扉があり、一つは塔屋の応接室、もう一つはサンルームに続いているという。美希たちは応接室に通されるのかと思いきや、雅太は正面の廊下へ進んでいった。開け放たれた扉を境目に、絨毯から畳廊下へ切り替わる。
「うわすご、いきなり和風や」
「変わった家だねー。ここから先だけ急に旅館みたい」
「うちのじいちゃん家にちょっとだけ似とるわ。どう見てもここのが豪華やけど」
線香らしき香りもほのかに漂い、洋館とは印象がまるで違う。畳を踏むと妙な安心感があり、自然と肩の力が抜けた。
「さっきまでここに母さん居たんだけど……」
雅太が手前の部屋を覗くのと、廊下の先から「こっちよ」と女性の声が届くのは同時だった。
「一番奥か。近い部屋に居てって言ったのに、相変わらず人の話聞かないな……」
「いいじゃん。長い廊下歩けるの楽しそうだし」
ため息をつく彼氏の肩を叩いて、仙嘉が白い歯を見せながら笑う。
畳廊下の右には縁側があり、松を挟んで離れが見えた。左にはずらりと部屋が連なり、その一部屋ずつが自宅の居間より二倍ほど広く感じられる。
――にしても、部屋多すぎへん?
隣室とは襖で遮られているようだが、現在は全て開け放たれている。先ほどの扉同様、恐らく風通しを良くするためだろう。おかげで立派な日本庭園を望めるのだが、部屋の向こうに部屋、さらにその向こうにも部屋と、美希の自宅のような田の字型の造りに似ていながら少々異なっていた。
それに。
――なんか変な気ぃすんねんな。
胸のうちで違和感がもやもやと燻ぶるが、正体がはっきり掴めない。仙嘉もなにかしら感じていないだろうか。肩をつついて耳打ちしてみたけれど、きょとんとされてしまうだけだった。
「初めて来る場所だから緊張してるだけじゃない?」
「そうなんかな……。そういうことにしとくわ」
友だちの彼氏の家に泊まるという、普通に考えればおかしな状況なのだ。無意識のうちに緊張していてもおかしくない。さり気なく深呼吸をくり返して、少しでも気分を落ち着ける。
雅太が手前から数えて三番目の部屋の前で足を止めた。
「こんにちは。ようこそいらっしゃいましたね」
彼女が雅太の母だろう。細い目や鼻筋など顔の造形がそっくりだ。歳は五十代後半に見え、肌が色白なのは元からなのか化粧なのか定かではない。頬と首がかなりほっそりしており、痩身なのがうかがえた。
和室に入った際のマナーは母から口酸っぱく指導され、仙嘉にも事前に伝えてある。二人は用意されていた座布団の手前にいったん座り、ゆっくりとお辞儀した。
「初めまして、雅太さんとお付き合いしております、
先ほどまでのはしゃぎようはどこへやら、仙嘉が微笑みながら挨拶を述べた。感情の切り替えが素早すぎて驚いてしまうが、自分も黙っているわけにはいかない。何度も頭でシミュレーションした文章を、出来るだけ滑らかに口にする。
「初めまして、
「こちらこそ来てくれて嬉しいわ。二人とも畳の上じゃ足が痛いでしょう。どうぞ座布団を使って」
雅太の母は初めこそ仙嘉の格好に驚いていたが、所作から悪い子ではないと感じてくれたようだ。第一印象をしくじった最悪のパターンとして追い出されることも想定したため、美希はほっと胸を撫で下ろして座布団に正座する。「お口に合えばよいのですが」と手土産もスムーズに渡せて安心した。
雅太が四人分の湯呑みを運んできて、それぞれの前に並べる。中に冷たい緑茶が入っており、早速のどを潤せばコクのある風味が鼻に抜けていった。使われている茶葉は絶対に高級品だ。
「雅太の母、
「生徒さん? 雅太さんのお父さまはなにかの先生をしておられるんですか?」
「うちで色々教室を開いてるの。ちょうど午前中に生け花を教えていたのよ」
確かにこれだけ部屋が多く広いのだから、かなりの人数を迎えられるだろう。色々と言うからには、日によって様々なコースを設けているのかも知れない。
「雅太から少し聞いたけれど、お二人は漫画やアニメのキャラクターの格好をして写真を撮られるそうね。コスプレというんだったかしら」
「はい!」真っ先にうなずいたのは仙嘉だ。「普段は貸しスタジオで撮影することが多いんですけど、みーく……雅太さんにご自宅やお庭の写真を見せてもらったらとても素敵で、無理を承知で撮影させてほしいって頼んだんです」
「それだけ我が家を気に入ってくださってありがたいわ。撮影していい場所と駄目な場所とあるから、またあとで雅太に聞いてちょうだい。ああそうだ、二人とも苦手だったり嫌いな食べ物はある?」
無いと言えば嘘になるが、苦手なものだろうと提供されれば文句を言わずに食べるのが美希のポリシーであり、食材や調理してくれた人への誠意でもあると思っている。仙嘉は一瞬だけ躊躇うそぶりを見せたが、美希が「なんでも食べます」とうなずいたのを見てそれに倣ったようだった。
「それじゃあ明後日まで、実家だと思って好きなだけゆっくりしていってちょうだいね」
「ありがとうございます!」
「お言葉に甘えて、お世話になります」
美希と仙嘉は再び頭を下げて和室を辞した。雅太も続いて出ようとしていたのだが、「そうそう」と玻璃恵に呼び止められている。
「セイレイさまへご挨拶は?」
――セイレイさま?
聞き慣れない名前だ。漢字で書くなら単純に〝精霊〟でいいのだろうか。美希が考えているのをよそに、雅太が「これからです」と首を横に振る。
「庭を案内する際に通りかかるので、その時にご挨拶しようかと」
「そうね。それがいいわ。くれぐれも……」
――なんやろ、声小さくてよう聞こえへんな。
耳をそばだてようとして、盗み聞きはよろしくないとすぐに思い直した。その間に雅太が玻璃恵と話し終え、二人の前を歩き出す。
美希は広すぎる部屋を横目に眺めつつ、先導されながら洋館まで戻った。仙嘉はいつの間にか彼と手を繋ぎ、暑さなどどこ吹く風で密着している。
「みーくんのお母さん、優しそうな人だね。お父さんは夜になったら会える感じ?」
「多分。夕飯の時に顔合わせられると思うよ」
「さっき好き嫌い聞かれたやん。もしかしてお母さんが作ってくれるん」
「そのつもりじゃないかな。冷蔵庫にこれでもかってくらい色んなものが詰まってたし」
敷地での撮影許可、宿泊場所だけでなく食事まで用意してもらえるとは、まさに至れり尽くせりだ。厚意に甘え過ぎるばかりではなく、なにかしら恩を返すことも考えなくては。
「今から庭を歩き回るけど、二人とも疲れてない?」
「平気! むしろ早く色んなところ見たいから!」
雅太の気遣いに対して仙嘉が勇ましく胸を張り、堂々とピースサインを見せつける。そのまま美希をわずかに見下ろす眼差しは同意を求めるそれだ。
「みっきーもそうでしょ」
「そうやね。早いとこ確認して明日どこで撮るか考えときたいし」
――セイレイさまとかいうんも気になるし。
台詞の続きは胸のうちで呟くにとどめ、美希は両手で作ったピースを顔の横で振った。
一秒でも早く庭を見たいとばかりに、仙嘉はブーツを履くやいなや雅太を引っ張って外へ飛び出していく。忙しなさに肩をすくめ、美希も二人の後を追う。
その背中を、廊下の奥から玻璃恵が真顔でじっと見つめていた。
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