第5話 彼の話 9時50分から10時08分

 コンビニのドアを引くと、軽快な入店音が鳴った。暖房がかかっており、室内は暖かい。入ってすぐのところに置いてある新聞記事をちらりと見ると、1面には珍しく白人の男の写真が載っていた。戦争を始めた国の現職の大統領だ。今年の2月に戦争を始めたものの、当初の予想とは異なって相手国の激しい抵抗に遭い、彼の国の軍隊はあっという間に苦戦を強いられるようになった。


 大地が今の戦争について知っていることといったらそのぐらいだった。これだけ知っておけば最低でも人に「常識がない」と後ろ指をさされることはないだろう。そんな彼も今の今まで、遠い遠い国で戦争が起きていることを忘れていた。現時点では、マスコミの人たちは国内で起きていることを報道するのに忙しいのだ。


 何か立ち読みする本でもないだろうか、と店の奥へ進んでいくとピアニストを主人公にした本があった。以前から少し気になっていた本だ。


 彼はよく音楽の授業の前にピアノを弾かされ、ぼろぼろの『幻想即興曲』を「すげえな」と褒められるたびに、全然そんなことないのに……と気まずい思いをしていた。インパクトのある冒頭ではなく、転調して少し落ち着いた雰囲気になるところが人気のようで、リクエストのときにはいつも「あの、ちゃーんちゃらっちゃちゃちゃらちゃーんちゃーんってやつ、弾いてくれよ」と頼まれる。


 その小説は文庫本で上下巻に分かれていたが、とりあえず冒頭だけ拾い読みしようと大地は上巻を開いた。数ページ読んで、時間を確認する。今まさに10時になろうとしているところだった。あまり早く行きすぎるのもがつがつして余裕のない男だと思われるだろうが、あまりぎりぎりの時間に着くのも時間にルーズな男だと思われるだろう。どちらも嫌だ。


 彼はそう考えて本を閉じ、コンビニを後にする。やはり、背後で軽快な入店音が鳴った。




 コンビニから地下鉄の駅までは数分とかからない。今から駅まで歩いていき、地下鉄に乗っても10分前には着くはずだ。今日は美咲と映画を見にいく予定だった。10時半に待ち合わせて映画館まで20分ほど歩く。11時10分から始まる映画には余裕で間に合う。そして映画が終わるころには昼の混雑も落ち着いているだろうから、昼食のために並ぶ必要もなさそうだ。


 初めてにしてはよくできてるほうじゃないか、と彼は美咲と話し合って今日の計画を立てたという事実を棚に上げて自画自賛した。


 大地は駅に着くと改札を通り、エスカレーターを下りてホームで電車を待った。駅の構内は暖かくもなく寒くもなくちょうどいい温度に保たれていた。電光掲示板を見る。次の電車は10時8分に来るようだ。あと3分ほど待たないといけない。彼はまた携帯の電源を入れて美咲とのトーク画面を開いた。マスクはいいものだ。にやにやしても周りにばれないのだから。


『明日、公園で待ち合わせすることになってたでしょう?』


 昨日の夜11時頃、大地が明日に備えて寝ようとしていたときのことだった。美咲から待ち合わせについてのメッセージが来た。俺が寝てしまう前に来てよかった、とほっと胸をなでおろし、返信した覚えがある。


『そうだね。どうかした?』


 入力しながら段々不安になっていったことを大地は思い出した。もしかすると、明日は予定かなんかができて行けなくなってしまったのかもしれない。


『いや、わたしはどのあたりで待っていればいいのか気になっただけよ。あの公園は広いから』


 それまで完璧だと思っていたデートプランに欠陥があったことを大地は悟った。当日公園内で行き違いになるなんて、洒落にならない。前日のうちにミスを発見できてよかった。このメッセージのおかげで今日の予定は真に完璧なものとなったのだった。


『そういうことね。それなら地下鉄の駅を出てすぐのところに茶店があるはずだから、その近くで待ってくれてたらすぐに見つけられると思う』


 寝ないといけないのは分かっていたが、会話を終わらせてしまうのが少し惜しくなって、大地はメッセージを連投した。


『てっきり予定ができて行けなくなっちゃったのかと思ったよ』


 即座に返信が来た。


『それは絶対にないわ。なんなら予定があっても行くもの。それぐらい明日は楽しみにしているんだから』


 大地はそのメッセージを見て、胸の高鳴りが抑えられなくなった。これワンチャンあるんじゃないか……そう思うと、どんどん目が冴えてきて眠れる気がしなくなった。今日はオールしよう、と半ば本気で考えた。


『映画の話ね。少し語弊があったわ。ごめんなさい』


 すぐに来たメッセージを見ても、やはり胸は高鳴っていた。彼女が明日のデートを楽しみにしてくれているのが、大地にとってはとても嬉しかったのだ。


『俺も楽しみにしてるよ。おやすみ』


 最後にそれだけ送って、大地は眠ることにした。電気を消して布団をかぶり目を閉じる。だが、結局眠れたのはだいぶ後になってからだった。


 地響きのような音を立てて電車がホームへ入ってくると、ぴたりと正確な位置に止まった。扉とホームドアが開くのを待って、大地は中に乗り込み空いている席に座る。ドアが閉まると、再び電車が動き出した。ドアの上に設置された液晶画面には、公園の最寄り駅まではあと10分と示されていた。

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