第6話 彼女の話 10時00分から10時10分

 男は抹茶を一口すすって言った。「いやあ、それにしてもよかった。内心、断られたりなんかしたらどうしようと思ってたんだ。俺、街で見かけた女の子に声をかけるのなんて初めてだったからさ」


 彼女は皮肉交じりに答えた。「あら、そうなの? わたしには随分と手慣れていらっしゃるように見えるけれど」男は彼女の言葉を額面通りに受け取ったようだ。少しうつむいてかぶりを振った。「いやあ、全然だよ。あんまり女性には慣れてないんだ」


 男はポケットの中をまさぐろうとして、やめた。煙草を取り出そうとしたのだろう。「でも、そんな自分が嫌でさ。今日からちょっとだけ勇気を出して声をかけてみることにしたんだ。それが君だったってわけだ」銀杏の葉に覆われた地面を見つめ、少ししょげた様子で言う男が嘘をついているようには見えなかった。


「……そうだったんですね。だったら少し時間もあることですし、ちょっとだけならお話をしてもいいですけれど」彼女は少し男に同情して、練習相手になってあげようと軽い気持ちで言った。男は彼女のほうを見て表情を輝かせ、「本当かい? ありがとう」と少しかすれた声で答える。そして、開けっ放しになっていた彼女のかばんの中を見ておもむろに尋ねた。「そのマフラーいいね。君が選んだのかい?」


 彼女はかばんの中をのぞき、中に入れてあった紺色のマフラーを見る。特別な理由はなかったが、今日、彼に会ったら渡そうと思っていたのだ。


「いえ、これ、わたしが編んだんです」

「へえ、そりゃすごい。編み物が得意なんだね。将来いいお嫁さんになるよ」


 そう言われて、彼女は自分の顔が熱くなるのが分かった。あの人のお嫁さんになれたらどんなにいいかしら、と思った。


「そ、そうですかね?」彼女は照れて、思わず素で返事をしてしまった。彼は大きくうなずいた。


「間違いないね。あと、俺は手先が不器用でね、編み物とかそういうのは全然できないけど、ピアノをちょっとたしなむんだ。ショパンとか聴くかい?」

「ええ、まあ、たまにですけど……」


 ピアノを弾けると聞いてやはり彼のことを思い出した。まだ聴かせてもらったことはなかったが、きっと上手なのだろうと彼女は勝手に期待している。彼に会うのがだんだん楽しみになってきた。時計をちらりと見ると、10時を少し回ったところだった。


 最近読んだ本に出てきたきつねの言葉が頭に浮かぶ。『きみが夕方の4時に来るなら、ぼくは3時から嬉しくなってくる。そこから時間が進めば進むほど、どんどん嬉しくなってくる。そうしてとうとう4時になると、もう、そわそわしたり、どきどきしたり。こうして、幸福の味を知るんだよ!』


 男は靴を自分が座っているところまで持ってくると、それを履きはじめた。靴のかかとを調整しおえて、おずおずと切り出した。


「もしよければ、これから俺と市内をドライブしない? 俺、車持ってるんだ」男はハンドルを操作するようなしぐさをした。彼女は内心で彼の言動をいぶかしんだ。あれ、この人友達と約束していたんじゃなかったのかしら。


 彼は、彼女の沈黙を正しい意味でとらえていた。「大丈夫。俺の友達みんないいやつだから、女の子とデートにしてたって言えば許してくれるさ」「いや、でも……」と彼女は口ごもりながら、適当な断り方を探す。


 女子高の友人に言われたことがあった。「みっちゃんは自分の意見をはっきり言えないでしょ。美人なんだからしつこい男の人の断り方ぐらい覚えておかないとだめだよ」まさに、彼女の言うとおりだった。ちゃんと覚えておけばよかったわ。


「ああ、待ち合わせがあるって言ってたね。それなら気にしなくていいよ。途中で公衆電話を探してあげるから」

「いや、だから、その……」何かを言おうとするが、頭の中が真っ白になって言葉が出てこない。それでも、彼女はなんとか言葉を絞り出した。

「えーと、その、ごめんなさい。わたし、今日のことをずっと楽しみにしてたんです。彼と久しぶりに会うから……」


 それを聞いても男が動じた様子はなかった。

「へえ。デートか。彼と会って何するの?」

「映画を見にいく約束をしてるんです」彼女がそう言ってもやはり、男は落ち着き払っていた。

「映画なんていつでも行けるじゃないか」彼女の靴をそろえ、手をそちらに向ける。「さあ、靴を履いて」

 これから恋人に会う約束があるという奥の手は男には通じなかった。心の中で彼に「お願い、助けて」と祈りながらバス停と時計を交互に見る。


 相変わらず、彼が来る気配はない。時計は10時10分をさしていた。

「ほら、靴を履いて。あ、荷物持とうか?」

「いえ、自分で持ちます」彼女は自分の横に置いていたかばんを抱きかかえて、できるだけゆっくりと靴を履いた。そうしている間に彼が来てくれるのではないかと思ったのだ。当然、そんな都合のいい話はなかった。


 彼女は靴を履きおえて立ち上がった。男はそれを見計らって彼女のほうへ手を差し出したが、彼女はそれに気づかないふりをして、やはりできるだけゆっくりと男についていく。もう泣きそうだった。楽しみだからってあんなに早く来なければよかったわ、と彼女は今日2度目の後悔をした。あの人はきっと今ごろ起きて、大急ぎで寝癖を直してるのよ。本当、頼りない人。

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