第4話 彼女の話 9時40分から10時00分
代金を払って、一度店を出る。茶店の外に置かれていた座席は、赤い布がかけられた背もたれのないベンチの上に畳が乗っているものだった。腰かけることも畳の上に正座することもできそうだったが、彼女は靴を脱ぎ、後者を選んだ。彼女はどちらかというと正座することのほうに慣れていたのだ。
注文したものは数分で来た。先程の女性がお盆に乗った焼き芋と抹茶を畳の上に置きながら言った。「どちらも熱くなっておりますので、落としたりなさらないようにお気をつけくださいませ」「ええ。ありがとうございます」彼女はアルミホイルに包まれた焼き芋にそっと手を伸ばした。
右手と左手の間を行き来させることで焼き芋を冷ましながら、アルミホイルを剥がしていくと、芋をくるんでいた新聞の記事が目に入った。劣勢の軍が敵国に奪われていた自国の都市を奪還したという見出しだ。日付は3月のものだった。
その記事が戦争を何かしらのエンターテインメントのように扱っているように思え、彼女は怒りを覚えた。1つの都市を奪うのに一体いくつの命が奪われたと思っているのだろうか。彼女は少し気分が悪くなって抹茶の入った湯呑みに手を伸ばした。
だが、左手を湯呑みの底に添えながら抹茶を一口すすったころには、すっかり怒りが収まっていた。抹茶のほろ苦さとうま味が彼女の怒りを綺麗に拭い去ってくれたのだ。「うん、おいしいわ」と彼女はうなずきつつ、湯呑みを元の位置に戻した。
彼女はその新聞紙も剥がしていく。鮮やかな紫色が現れた。中からあふれてきた甘みのある蜜に覆われたところには艶が出ている。彼女にはそれがきらきらと輝いているように見えた。芋の熱さも、手がべたつくのも気にせずに彼女は半ば夢中になって皮を剝いていった。
やがて盛んに湯気を上げる黄金色に出会うと、彼女はその瞬間、勢いよくそれにかじりついていた。無心で皮を剝いてはかじり、かじっては皮を剝きというのを繰り返し、3分の2ほどを平らげたあと、彼女ははっと我に返った。まさか私が食べているところ、あの人に見られてはいないわよね……? 不安になってバス停とその周辺へ目を向ける。幸運なことに彼らしき人はいなかった。
ほっとして、もう一度湯呑みに手を伸ばす。抹茶を一口含む。ずいぶんぬるくなっていたが、その苦味が甘くなりすぎてしまった口内を洗い流してくれるようで、とてもおいしく感じられた。
時計を見る。時刻は9時50分になろうとしていた。大学生ぐらいの男が一人、茶店の中に入っていくのが見えた。
男は、彼女のとなりにあぐらをかいて馴れ馴れしく話しかけてきた。「君も、待ち合わせ中? 実は俺もそうでさ、友達と待ち合わせしてたんだけどつい早く来ちゃったんだよね」角刈りで色の薄いサングラスをかけている。「君、今暇だろ? ちょっと話でもしようよ」
彼女は「ええ……まあ、はあ」とあいまいな返事をしながら、さりげなくその男から距離をとった。男は煙草をくわえ、ライターで火をつけた。彼女は思わず煙から守るように焼き芋を男の反対側へ移動させ、湯呑みに残っていた抹茶を飲み干し、少し顔をそむける。そんな彼女の様子を見て、男は尋ねた。「ああ、もしかして煙草、嫌い? ごめんごめん」
男は煙草を消し、席に備え付けてあった灰皿に捨てた。
「君は、何を頼んだの?」
「焼き芋と抹茶ですけど……」
彼女が答えると、「そうなのかい? 実は俺も同じのを頼んでたんだ。ここの焼き芋おいしいよね」と男はうれしそうな声を上げた。さりげなく彼女との距離を詰めてくる。「君は分かってる。俺と気が合うかもね」
男は明らかに怪しかった。きっとお店に入るときに私が頼んでいたのを見たんだわ、と彼女は考えた。それをたまたま同じものを頼んだように見せかけて、気が合うようなふりをしているのだ。もしかしたら、この後友達と会うというのも嘘で、最初から誰かに声をかけるつもりでこの公園に来ていたのかもしれない。
何とかしてこの人を傷つけないように断る方法はないものか、と考える彼女のこともお構いなしに、男はさらに距離を詰めてきた。彼女は離れようとしたが、すでに席の端まで来てしまっていた。
「それにね」と男がなにか言いかけたとき、彼女に焼き芋と抹茶を運んできてくれた女性が、さきほどと全く同じものをお盆に乗せて運んできた。湯呑みと焼き芋を畳の上に置きながら女性はにこやかに尋ねた。
「こちらの方はお連れの方ですか?」彼女は、自分が聞かれたわけでもないのにかぶりを振る。「いえ、違います」
男はそれを受けて穏やかな声音で言った。
「さっきこの子のこと店先で見かけて、可愛い子だなと思って声かけてみたんですよ」
「あら、そうでしたか。これはとんだお邪魔をしてしまいましたね」
「いえいえ、お気になさらず」
女性は彼女のほうへ回ってきた。「こちらの湯呑み、お下げしてよろしいですか?」
彼女は「ええ、お願いします」と言うのが精一杯だった。助けを求めるようにバス停のほうを見る。彼はまだ来ない。時計を見る。今まさに10時になろうとしていた。こんなことになるならもっと遅く来ればよかったわ、と彼女は後悔した。
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