第3話 彼の話 9時40分から9時50分

 大地はもらったココアをちびちびと飲みながら、彼女とのトーク画面を見ていた。彼女が通っている女子高というのは公立の中高一貫校で、県下有数の進学校だった。大地の通っている高校の近所にあり、偏差値も似通っているので、2つの高校の教師たちは毎年、市内の旧帝大への進学実績を争っていた。


 職員室の入口にある、昨年の大学合格者の木札が大学別に並べられているスペースには「○○大(市内の旧帝大)何名合格! 医学部医学科何名合格! 東女に負けるな!」という横断幕が掲げられていた。


 大地はそこの前を通りがかるたびにげんなりした。生徒のふんどしで相撲をとる教師たちにも、来年自分が受験生になったときには間違いなく「東女に負けるなよ!」と発破をかけられるだろうということにも、だ。だが、合同文化祭なんてものが今でも定期的に行われているあたり、教師たちも東女に対するライバル意識こそあれ悪感情は抱いていないようだった。


 一方、生徒たちには教師たちが持っているような相手の高校に対するライバル意識すらもなかった。東女の女子と付き合っているやつもクラスに数人はいた。大地には彼らがどうやって彼女たちとお近づきになったのか想像もつかなかった。文化祭は3年に1度の開催だから、それはあり得ないというのはわかる。


 以前、クラスの友人からこんな話を聞いた。「東女の女子にはいいところのお嬢様が多くいらっしゃるようなので、お嬢様言葉で話す方々もおられるそうですわ」


 大地は「あら、そうなのね。わたくし驚きましたわ」と適当に相槌を打った。東女の彼女はおろか友人すらいないやつに言われても説得力がなかった。だが、大地の反応を聞いた彼は念を押すように大地へ顔を近づけ、ドスの利いた声で「本当のことですわよ」と言った。


 本当だった。大地が知り合った彼女は、「~~かしら」や「~~わね」という語尾を多用していた。そのようなしゃべり方をする人を現実で初めて目の当たりにした彼は、最初こそ多少面食らったものの、話していくうちに違和感を覚えなくなっていった。彼女は頭の回転が速かったため、話についていくのに多少の努力を必要としたが、その感覚も大地には新鮮でとても楽しかった。


 彼女の方もそう思っていてくれればいいのだが……と思いながらゆっくりと画面をスクロールしていく。最近は映画の話にとどまらず、自分たちや身の周りの話もするようになっていた。彼女が高校で手芸部に入っていると知ったときは、本当にお嬢様なんだなと思い、自分のような普通の男子高校生がこうして彼女とメッセージのやり取りをしていることにちょっとした感動を覚えた。


『美咲は最近、手芸部で何か作ったりとかしてるの?』


 彼女の名前は和泉美咲といった。彼女の苗字について調べてみると、大地が想像していたよりも和泉姓の人は多いのだということが分かった。彼はそれを見て、上品なようでいてポピュラーな苗字は彼女にぴったりだな、などと愚にもつかないことを考えた。それぐらい、彼女と気が合ったのだ。


『マフラーを編んでいるわ』


 5分ほどで返事が返ってきた。彼女はトークアプリでもいわゆるお嬢様言葉を使う。入力するときにも、マフラーを編んでるわ、ではなく、マフラーを編んでいるわ、とする彼女の生真面目さにも好感が持てた。


『マフラー?すごいね。俺、裁縫はからっきしなんだ。針の穴に糸を通すだけで指が穴だらけになる』


 素直に思ったことを送ったのだが、これはあまりよくなかったかもしれない。最近は料理などの家事もこなせる男が人気らしい。嘘でも裁縫ができるアピールをしておいた方がよかったな、失敗した。


『そうなの?意外ね。でも、かぎ針なら怪我しないし、大丈夫よ。大地はピアノ弾けるんだし、手先は器用なはずなんだからすぐできるようになるわ』


 大地は小中学生のころ少しだけピアノをかじっていたのだが、高校に入ってからは音楽の授業の前に「大地、あれ弾いて。ちゃーんちゃらっちゃちゃちゃらちゃーんちゃーんってやつ」と言われたとき以外には弾かなくなった。高校の友人には自分がピアノを弾けるなどという話はしたことがなかった。しかし、同じ中学校からここに来た別の男子を経由して、そのことがばれてしまったようだ。


 美咲にはアピールのつもりで、文化祭のときに自分から話していた。ピアノを弾ける男子はいつの時代でも人気だ。言ったあと、美咲もピアノが弾けるんじゃないかと思ったがそんなことはなかったようで、素直に「すごいわね」と褒めてくれた。何食わぬ顔で「いやいや、そんなことないよ」と打ち消したが、内心かなり舞い上がっていた。


『え。俺も裁縫やる感じ?』


 つい脊髄反射で間の抜けた返事をしてしまっている。これからは気をつけないといけない。彼女の方からは1分もしないうちに返信が来た。


『え。やらないの?』


 よく考えたらこれも脊髄反射じゃないか、と思った途端に突風が吹いてきて、銀杏の木がばさばさと音を立てて葉を落とした。11月の寒さに思わず身を縮め、コートでも羽織ってくればよかったなと少し後悔しながら大地はベンチを離れた。


 画面の隅には9:50と表示されていた。口元の違和感は自分が笑っているからだと気づくのに、大地はしばらく時間を要した。待ち合わせまで、まだ時間はある。暖房のかかったコンビニで少し時間をつぶそうと思って歩いている間に、大地はふと思った。もしかしたら、初めて会ったときから俺は彼女のことが好きだったのかもしれない。


 およそ1年半の男子校生活で、彼の女子に対する免疫はかなり落ちていた。

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