第2話 彼女の話 9時30分から9時40分

 彼女は公園のベンチに腰かけ、しきりに両手をこすり合わせていた。手で水をすくうときのような形を作り、手のひらに温かい息を吹きかける。冷えるのは手だけではない。足だってそうだ。


 銀杏の黄色いじゅうたんが突風に吹き散らされ、スカートの開口部から11月の冷たい空気が入り込んでくる。たとえスカートが長かろうが、寒いことには変わりない。気兼ねなくズボンをはくことができる男の人たちがうらやましかった。


「さすがに早く来すぎちゃったわね……」


 彼女はそわそわと落ち着かない様子で時計を見上げた。時刻は9時半をさしている。待ち合わせの時間まであと1時間もあった。


「どうしようかしら……あのお店に寄ってみようかしら」


 彼女の目線の先には一軒の茶店があった。何か暖かいものを食べたり飲んだりしながら気長に彼のことを待つのもいいかもしれないと思うのだが、少し迷いもある。甘いものを食べすぎると太ってしまうからだ。


 やっぱりあの人だって太った子より細い子のほうが好きでしょうね、彼女はそう判断して、店に寄るのはやめてここでもう少し粘ることにした。どうしても無理だとなったらあそこへ寄ることにしましょう。それまでは我慢しないと。彼女は首に巻いたマフラーを少しだけきつくした。


 目の前を袴を着た男の子と、着物を着た女の子、そして父親と母親の家族連れが神社のほうへ歩いていった。七五三のお参りに来ているのだろう。袴を着た女の子は、神社の鳥居のほうへいきなり駆け出し、振り向いて両手で大きく手招きした。

「お父さんもお母さんも博も早く早く! ちとせあめ!」


 その子の両親は顔を見合わせて笑った。「幸子、転んだら危ないでしょう?」母親は優しく言って、幸子と呼ばれた女の子の方へ歩いていく。父親は、博と呼ばれた男の子を抱きかかえて、先に行ってしまった2人についていった。彼女はそんな家族の様子を微笑ましく見守った。


 わたしも千歳飴目当てでお参りしてたわ、と彼女は自分の七五三のときのことを思い出した。そのとき父親がいなかったこと以外は、この家族と同じだったと思う。彼女は小さいころから甘いものが好きだった。


 彼らが去ったあと、彼女は再び時計に目を向けた。9時35分をさしている。5分しかたっていないという事実に、彼女は驚愕した。公園の空は真っ青に晴れ渡っており、太陽はまぶしく輝いているが風は相変わらず冷たいままだった。


「遅いわね……あの人」


 自分が早く来すぎてしまったという事実をつい忘れて、彼女はつぶやいた。足元にあった石ころを軽く蹴飛ばすと、思っていたよりも遠くへ転がっていき、それに驚いた鳩たちが一斉に勢いよく飛び立った。


「これは……どうしても無理ね。あそこへ行ってしまいましょう」


 彼女は茶店に入ることを決め、ベンチから離れた。甘いものを食べると太るんじゃなくて、甘いものを食べすぎると太るのよ。だから、ちょっとぐらいなら大丈夫なはず。彼女は心の中で自分に言い訳をした。そのかわり、明日から食事の量には気をつけないといけないわね。


 かばんを持ち、コートを着ていてもはっきりと感じられる寒さに身を縮こませながら彼女は歩いた。足を踏み出すたびに乾いた落ち葉を踏む音がした。


『徳蔵茶屋』


 紺色の暖簾に白い字で大きく書かれているそれがこの茶店の名前だった。さらに、暖簾の左端に決して小さくはない大きさで記されている創業の年号から計算すると、できてから今年で80年になるようだった。ずいぶんな老舗だ。字が大きくなるのも分かる。


 暖簾をくぐって店の中へ入り、品名と値段が書かれた木札を眺める。茶店らしく、みたらし団子やあんこ団子、ごま餅やきなこ餅という木札が並んでいるが、それらにはいまいち彼女の食指は動かなかった。


 ここで妥協はしたくなかった。どれにしようかしら、とよさそうなものを片っ端から探していく。彼女の視線が最初とは反対側の端へ到達しようとしたとき、彼女は視界に光るものを見つけた。「やきいも」と書かれた木札だった。茶店らしからぬメニューだ。いいわね。


 彼女はへそぐらいの高さの仕切りの向こうに立っているエプロンを着けた女性に声をかけた。「やきいも、一ついただけますか?」女性は不快感のない愛想笑いを浮かべていた。えくぼのせいで少し若く見えるが、30代前半ぐらいだろう。「お飲み物もご用意しておりますが、いかがいたしますか?」


 何を食べるかに気を取られていて、飲み物まで頭が回っていなかった。彼女は後ろを振り返って、また木札を眺める。今度はすぐに決まった。


「じゃあ、抹茶で」

「承知しました。お座敷とお外、どちらにお持ちしましょう?」

「外でお願いします」


 座敷に上がって食べているうちに彼と行き違いになっては困る。外ならば、彼女も彼に気づけるし、彼だってこちらに気づいてくれるはずだ。

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