第8話 感触のない唇
無防備な恋の唇を前にして、星南太郎の心臓ははみ出そうなくらい激しく脈を打ち始める。これだけ心臓が働いているというのに、手足は氷のように冷たい。
恋と繋いでるような感覚のある右手だけが、唯一生きた心地がする部位だった。
女子と目が合うだけで息が上がってしまう星南太郎に、キスの仕方など分かるはずもない。顔の角度や、唇の突き出し加減などを決めかねていると。
「キスは初めてか?」
恋が目を瞑ったままそう言った。
星南太郎が顔を真っ赤にしてぶんぶん頷くと、振動で返答を察した恋は「うむ」とだけ言う。そして。
「まずは、相手の唇を見ながら近くのじゃ」
尚も目は開けず、星南太郎に唇を捧げる体勢を保ちながら、キスの手順を指南し始めた。
星南太郎はごくりと唾を飲み込んでから、言われた通り、きれいな形の唇に顔を寄せた。
「いいか? そうしたら次は、鼻同士がぶつからないくらいに、右か左のどちらかに首を傾ける」
星南太郎は先ほど痛めた方向とは逆の、左側へ頭を傾けた。絶対に鼻がぶつからないようにと意識したために、いささか角度をつけ過ぎているが。
「よし。今度は唇の位置を確認しつつ、目を閉じていくぞ」
「むふっ」
唇を尖らせ過ぎて思わず間抜けな声が出てしまうと、すかさずフォローが入る。
「唇は突き出さなくとも自然にくっ付くぞ」
星南太郎の動きは、恋には手に取るように分かるらしい。
「唇は軽く閉じるんじゃ、軽くな。少し開いていても良い」
恋の丁寧な指導のもと、星南太郎の初キスはようやく形になりつつあった。
薄目で唇の位置を確認しつつ、口元は力を抜いてできるだけリラックスした状態をキープ。傾け過ぎた首を少し調整し、ようやく目的地へたどり着いた。
長い道のりの末に重なり合った唇は、最初、ほんのりとあたたかみを感じるだけだったが、次第に感触が生まれていく。そこで一度、恋が離れようとした気配があったが、星南太郎の気のせいだったのか、何事もなかったようにキスを続けた。
(最初のキスはほとんど感触がないって言ってたけど、あれ嘘だったのか……)
想像以上に柔らかくて繊細で、体温で溶けてしまいそうだった。
実際にキスをしていた時間はほんの数秒だったが、時が止まったように、ずっとそうしていた気がする。
唇を離すとき、先に星南太郎が目を開くと、伏せられた長いまつ毛が見えた。それを数回上下させると、恋は顔を上げる。そうして星南太郎を愛しそうに見つめた。
あたたかい空気みたいなものを包み込んでいた手の中にも、すべすべとした確かな感触があった。それはもう透けておらず、星南太郎と同じ世界に在った。
「もう少し早くに切り上げるつもりだったんじゃが、セナの体温が気持ちよくて、つい離れるタイミングを失ってしまった」
具現化する手前でキスを終えるはずが、予定よりも長引いいたために、初めてのキスでも感触を感じられたのだった。
具現化した恋は、手を伸ばせばすぐに触れられる距離にいた。
恋が何気なく発した言葉に、星南太郎の胸はぎゅっと締め付けられる。思わず華奢な体を抱きしめたくなった。
けれど、星南太郎にはできなかった。
改めて見つめた恋は半透明ではなくなっていて、リアルで、尊くて、抱きしめてしまってよいものかと躊躇が生まれた。
星南太郎は伸ばしかけた手を諦め、太ももの横で握りしめた。
彼女をその腕に抱きしめるのは、もう少し先になりそうだ。
「ずっとここにもいるわけにもいかぬし、とりあえず家に連れて帰ってくれ」
「うん、わかった。って、え?」
「その前に腹ごしらえじゃな。どこかでうまいもんでも食べて帰ろう」
「えええええええええええ」
星南太郎の声は音楽室から盛大に漏れ、静まり返っていた構内へ響き渡った。
異変に気が付いた警備員が音楽室に来る頃には、2人は正門とは真逆の裏庭から、学校の敷地外へと逃れていた。しっかりと手を繋ぎ、車が通らないのをいいことに、車道にはみ出したりしながら走った。
恋は、あの場所から連れ出してくれた星南太郎に一生ついて行こうと、すでに心に決めていた。
星南太郎が、自分のことを忘れないでいてくれる限りは、ずっと。
音楽室にいたのは鯉のオバケではなく、恋のオバケだった。
それも、恋愛初心者の星南太郎にやさしく恋の指南をしてくれる、可愛い女の子のオバケ。
日本でモテないタイプの人間が、海外へ行った途端にナンパされるように。
人間に需要のない星南太郎は、武士口調のオバケにはモテた。
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