第7話 付き合うための試練

あまりに非現実的な展開に脳の処理が追いつかず、星南太郎は一度落ち着こうと震える膝に目線を落とした。


 そのときふと目に入ったもの。

 それは、少女の上履きに黒のペンで書かれている、消えかけた“恋”という文字。


「コイ……」


「あ、これか? これは“れん”と読むのだぞ。高月恋たかつきれん。私の名だ」


 同級生たちが話していた「コイ」とは実は少女の名前のことで、その訓読みの発音だけが一人歩きし、いつしか魚の「鯉」に変換されてしまったのだ。


「して、お前の名は?」


「俺は、栗栖……星南太郎」


 俯いたまま、ためらいがちに、どちらかというと嫌いなその名を口にする。


 星南太郎は名乗る度に思うことがあった。

 冴島莎莎にも突っ込まれたように、せめてキラキラネームか平凡ネームか、どちら1つにして絞って欲しかった。

 イケメンならどんな名前でも格好が付くが、生けるゾンビである星南太郎にこの名前は荷が重すぎる。


 星南太郎はひと呼吸置いた後で、少女ー高月恋の様子を、散らかり放題の前髪の隙間から覗き見た。


「ほう、良い名だな。お前にぴったりだ」


 言って、恋は月明かりの下で星南太郎に笑いかけた。ピアノの椅子から垂らしていたほうの足をぶらんぶらん揺らしながら。


 あっけらかんと返され、星南太郎は拍子抜けしてしまう。


「……そんなふうに言われたの、初めてだ」


 気付けば目尻が湿っぽくなっていた。


「そうなのか? まあ少し長いけどのう。……よし、”セナ”と呼んでやろう」


 恋にとって問題なのは、星南太郎の名前がキラキラネームと平凡ネームのハーフかどうかではなく、その長さだった。


 この名前に自分が釣り合っていると認められたのは、生まれて初めての経験だ。そんなハイカラなあだ名で呼ばれたこともなかった。


 いつも自己紹介をしたところで出落ち感満載で、直後には哀れむような視線を向けられることがほとんどだ。


「よろしくな、セナ」


 恋は星南太郎に手を差し出し、握手を求めてくる。


「こちらこそ、よろしく」


 星南太郎は、まだ現実か夢か区別がつかないまま、向こう側が透けて見えるその手のひらに、指先だけをそっとくっ付けてみる。触れている感触はないものの、あたたかさだけは感じた。

 恋の反応を見つつゆっくりと触れる面積を増やしていき、ようやく握る動作をすると、華奢な手が同じ動きをして握り返してくる。


 手と手がぴったりと合わさると、恋は宙を浮くようにピアノの椅子からふわっと立ち上がった。向き合うと、視線の高さは星南太郎と対して変わらない。身長差がない分、顔の距離が近かった。


「では、誓いのキスをしよう」


「おうん、え!? なんで!?」


「何をうろたえている。付き合うのだから当然じゃ。それに、キスをしてくれなければ、私は具現化できん。大丈夫じゃ、最初のキスはほとんど感触はないからのう」


「問題は感触云々ではなく……」


「なんじゃ、付き合うのか、付き合わないのか。はっきりせい」


 恋は、噂に聞いていた通り可愛い少女だった。

 目に見えて華やかなオーラを纏っている冴島莎莎とは異なり、内に秘めた静かな美しさがあった。どこか憂いを帯びていて、奥深い魅力を感じさせた。


「……付……合…たい……です」


「声が小さいぞ」


「つ、付き合いたいです!!!」


「良いじゃろう」


 言って、恋は少し顎を上げ、目を閉じた。

 どこからどう見ても星南太郎のキスを待っている、のポーズだった。

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