第3話

 薬の匂いが立ち込める病院の一室、ヒステリーを起こして怒り狂う母に、精神科に行かせてほしい、と伝えた。


 泣き出したのはなぜなのか、わからなかった。目の前がゆらゆらして、私と母と、どっちが泣いたのかさえ、私にはわからなかった。


 お医者さんに聞いたら、なにかたくさんの病名を言われた。もうひとつも覚えてないけれど、病気だと言ってくれたことが嬉しかった。

 正直に言えば、逃げ場というか、居場所というか、そういうものがきちんと目の前に現れた感じがしたのだ。


 ひとりで、自分を責めなくてもいいかもしれない、なんて、そんな風なこと考えて。

 少なくとも、心に乗っかっていた色んな重みが、はっきりとした病名を告げられることによって、すこし軽くなった。


 点滴をしてもらいながら、空を眺めていた。

 茶色くくすんだ、よく晴れた日だった。


 気づけば髪の毛を千切るようになっていた。母に切りそろえられていた綺麗な髪はすぐにぼろぼろになった。

 爪や唇は、よく噛むせいですぐに荒れた。

 ちょっとしたやなことですぐ泣くようになった。肌が荒れて、イライラしていつも泣いていた。

 普段から全然眠れなくて、眠れた日も悪夢ばっかりだった。毎日毎日泣き叫んでいた。


 道に落ちているたばこの数を数えながら病院に通った。

 その数が多い程嬉しくなった。たくさん、たっくさんの私を、踏みつぶしているみたいで。


 幸せだった。私は、幸せだった。幸せだった。幸せだった。



 冬の始まり、鼻を冷やす空気が疎ましくて頭を振りながら、病院を出た。そのまま飲み薬を処方してもらうために隣の薬局に入った。

「葉組さーん」

ふかふかのソファから立ち上がる。つまらない漫才を流しているテレビの小さな音が、ちらちらと耳に入って、ちょっとだけ心地よかった。

 薬の入ったビニール袋を提げて、歩き出す。

 顔を上げると、真っ暗な闇空が、どこまでも広がっていた。


 もうすこしだけ歩くと、大きな交差点が見えてきた。そしてそこに、ずっと、ずっと探していた人を見つけた。

 おもわず顔がほころんだ。心臓が高鳴り、笑みが溢れ出た。

 嬉しさのあまり、小走りで駆け寄る。

「千湖…?」

声をかけた相手は、ぶるりと猫みたいに震えて、ゆっくり振り返った。


 ああ、千湖だ!千湖だ!ずっとずっとずっとずっと会いたかった!!


「久しぶり!」

手を伸ばすと、彼女はにこっと笑った。長いまつげがきらりとゆれた。


 かわいい、いとしい、私の千湖 ねえ、あなたは、ずっとどうしていたの 私がいない間、ずっとどうしていたの


「あ、久しぶり!」

彼女も優しく微笑んで返してくれる。嬉しくて涙が出そうだった。

 やっぱり、きっと事情があったんだ。彼女が私に連絡をくれない事情が。きっと、大変だったんだ、彼女も。


 髪を耳にかける仕草がいとしい。優しく微笑む顔がいとしい。そっと耳に馴染む声がいとしい。

 この何年間も、ずっと求め続けてきたものが、今目の前に在った。

「千湖元気だっ――」

『葉組さん…だっけ?』




 え?―――




『ごめんね、あの、私記憶力なくてー…』『てゆーか、葉組さん精神科通ってたんだー』『あ、信号変わったし、私急いでるから、もう行くね?』


『今度会ったときちゃんと話そーっ!』


 視界が、揺れる。足に力が入らなかった。



 また、嘘 ? ―――          

 ――――――――どこから?


 ずっと ―――――――  ?



 みじめだった。走っていく彼女の背中が、何重にも重なってぐらぐら揺れた。

 突きつけられた彼女の変化に対し、小さなろうそくに火が灯るように、かすかな、しかしはっきりとした、――憎しみが芽生えた。



 ああ、なんだか すごく、寒い ――――――











 ソウナンダ アア ソウナンダ


 ―――――ソウナンダ ?









――――――――――――

「どうなさったんですか?最近すごく調子が悪いですね。回復なさっていたのに」

「……かわっちゃったから、あのこ」



――――――――――――

「どうしたの?随分顔が暗いじゃない?何かあったの?」

「……かわっちゃってたの、あのこ」





〖わたしは ずっと 待ってたのに〗

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IWTD 榎木扇海 @senmi_enoki-15

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