第2話
「IWTDって何の略か知ってる?」
突然投げかけた質問に目の前の彼女はぶるりと震える。そして目を白黒させながら教科書のページをめくり始めた。
「え?なにそれ?」
いつもの明るい声におもわず唇を噛んだ。わかってはいたけれど、自分のエゴが小さく呻いた。
「内国水運管理局」
彼女はしばらく黙って考えて、それからじっと私を睨んだ。
「……は?」
私はくすりと笑って言い訳を始める。
「ほら、APECでアジア太平洋経済協力とかUNESCOで国際連合教育科学文化機関みたいな」
彼女はますます顔を険しくして、「そんな略称聞いたことないんだけど?」と声をとがらして言った。
「なに、IWKEだっけ?」
彼女の手前、吐きかけた息を飲み込んだ。ぐうっと胸が詰まる感じがした。
「IWTD。でもご存知の通り入試にはぜーんぜん関係ありませんので、忘れてくださーい」
声が枯れそうで慌ててふざけた。なんだか、勝手にフラれたみたいな気分になった。
彼女、千湖とはよく遊んでいた。受験勉強と銘打って結局はお菓子パーティーみたいなものだった。
彼女と過ごす時間は、私が今まで経験したどんな時間よりも楽しかった。
けれど、受験も間近になりお互いの距離ができてきて、やっと私は自分には彼女以外誰もいなかったことに気づいた。
そして彼女にはたくさんの楽しい時間があることも知った。
彼女と出会ったのは中学校に入ってからだが、小学校のころから、私の心の中には常に暗く穢いものがあった。
かつて、他県に住んでいたころの思い出が、ずっと色濃く残ってきていた。
小3でここに引っ越してきてから、私の過去を知っている人はいないけれど、それでもそれは消えなくて、全員がそれを忘れてくれても、私がいる限りそれはずっと在るから、ふと、思い出してしまう。
息が詰まって、どうしようもなくって、嫌になる。
仮に殺したい人はいるか、という質問をされたら、迷わずいる、と答える。誰か、と問われたら、自分、と返す。
私という存在が、この世に存在することが、たまらなく嫌だった。
だいきらいだいきらいだいきらいだいきらいだいきらいだいきらい
他の人に当たったりもした。私の罪を捨てようとしたりした。けれどそのたび、自分がもっと嫌いになった。
何度首にナイフをあてたか覚えていない。けれど死への恐怖が、いや、痛みへの恐怖が、私の手を止めてしまう。そんな自分が煩わしくて、醜くて、もどかしくて、ナイフを床に突き刺した。
このいらない頭をかち割ってやりたい。
無意味な肺をつぶしてやりたい。
うるさい心臓を突き刺してやりたい。
汚い四肢をもぎとってやりたい。
くだらない口を引き裂いてやりたい。
醜い顔を砕いてやりたい。
この世を穢すこの女の息の根をとめてやりたい。
早く、早く!―――――
こんな私に手を差し伸べてくれたのが彼女だった。
「葉組さん、すっごく手綺麗だよねぇ」「ねえ蘭って呼んでもいい?」「蘭ってほんと頭いいなぁ」「蘭が私の憧れだよーっ」「ねぇ蘭、私らペアにしよ?」「蘭ご飯食べよー」「らーん!行こーっ!」「蘭ーっ数学のノート見せてぇ」「卵焼き、私が作ったの。蘭、食べる?」「やったぁ、蘭より点数いいっ!!」「蘭」「蘭!」
『蘭!大好き!』
言えなかったけど、わたしも。
向かう高校が違うとわかったとき、進路を変えようか少しだけためらった。けれど、あの厳格な母親が許してくれるわけがない。そもそも彼女を追いかけて進路を変えるなんて、彼女自身に引かれてしまうかもしれない。
『高校に行っても、毎日連絡取りあおーね!』
私を抱きしめた彼女の言葉が嬉しくて、顔が赤くなったのを隠すために彼女の髪をくしゃっと乱す。
『やーだ!私は妹さんじゃないってば~』
「…だって千湖が可愛いんだもん」
妹なんか、いないけど。
可愛らしく笑う彼女がいとしくてたまらなかった。
けれど、その約束が守られることはなかった。
私が送ったメールに返信はなく、彼女からのメールもない。電話でもしようかと思ったけれど、迷惑になるかと思うと怖くてできなかった。
部活には入らなかった。入学してからしばらく、彼女との来たる時間を削りたくなかったがために入っていなかったら、そのタイミングを完全に見失ってしまった。
そうこうしているうちに、人にどうやって話しかけていたかわからなくなった。
仲のいい先生もできず、だんだんと人とかかわるのが億劫になっていった。
高校に入ってから、自分の怠け癖がどんどんと酷くなっていった。
課題はしない、家事はしない、勉強はしない、努力はしない、手伝いもしない。
学校も行きたくないし、眠りから覚めるのも嫌だ。
毎日自己嫌悪で押し潰されそうだった。
母は何も言ってこなかった。けれど、失望されているのは向けられている瞳の色で分かった。
頑張らない自分が、努力をしようともしない自分が、簡単なことしか、むしろ好きなことしかしない自分が、わがままで、クズで、それこそこの社会のゴミみたいだと思った。
布団をかぶるたび、もう二度とこの両目が開かなければいいと真に願っていた。
死にたい、消えたい、逃げ去りたい この世のすべてから、全速力で
もう無理ってなって、ある日の夜、彼女に電話を掛けた。
プルルルル、と鳴り始めてすぐ、切られた。
『ごめん、今忙しい』
久しぶりのメール。そうなんだ、ああ、そうなんだ。
―――― そうなんだ
その日は学校に行かなかった。小中と過ごしてきて、初めての試みだった。学校を無許可で休むなんて、万死に値する。そんなレベルの教育を受けてきた私にとって、学校のある駅を降りなかった勇気はそれこそ決死のものだった。
終点の駅で降り、足早に改札を抜けた。
ちょっと小高い丘にのぼると、海が見えた。
海に向かってまっすぐ歩いた。海につながる川を見つけて、それに沿って歩いた。
コンクリートの壁にぶつかった。まっすぐに海に出られないことを知ると、スマホでマップを開いて、海浜公園を探した。
「あと、二キロくらいか」
マップを閉じて、電源を落とす。真っ暗になった画面を見つめた。
「千湖がいないなら、もういらない」
海に投げ捨てた。環境汚染のことなんか、考えられなかった。
ガツーンとコンクリートとスマホがぶつかり合う音が海に轟き、消えた。
浜辺についた。思っていたより人がいた。
太陽がまぶしく海面を照らし、チカチカと小さな宝石が輝いていた。
浜辺の真ん中のほうまで歩いて、靴下を脱ぐ。貝殻交じりの砂が冷たくて心地よかった。
そっと海に足をつける。なんだかむずがゆい、変な感じがして、立ち上がった。
海の中へとどんどん進み、膝まで海水に浸しながら、波を叩いた。跳ねた水が頭にかかって、涼しかった。
笑みと同時に、涙が出てきた。
日常から、逃げ出せて、よかった。けれど誰かに、
誰かに、認めてほしかった。認めてほしかったよ、私。
気づけば日は落ち、海にまっすぐな光の道をひいていた。ただ、奥のほうに立つ堤防が、光を遮り、気分の高揚を萎えさせた。私の自由を抑え込む蓋みたいに見えた。
浜辺で膝を抱えて座りながら、じっと海を見ていた。思っていたよりずっと綺麗だったそれは、やんわりと、私を拒絶していた。
腕に顔をうずめる。その時だった。
「――らんさん!葉組蘭さん!!」
ぱっと顔をあげる。浜辺の端っこで、スーツを着た男が走っているのが見えた。
ためらいが、消えた。
私はまっすぐ、海に走っていった。膝どころか胸元まで海面が来て、それでもまだ奥へと進んだ。
「葉組さん!こら!!何をしてるんだ!!」
すさまじい速さで追いついた男は、私の腕をぎりりと握りしめた。
奥へと向かいながら手を振り払おうともがく。
「離してよっ!!さわんないで!!」
顎ほどまで海水が達したとき、ぐいっと体が引っ張られた。ぞぉっと身の毛がよだち、おもわず彼のみぞおちを思いっきり殴った。そして私の腕をつかむ汚い毛むくじゃらの腕を引っ掻く。
男が咳き込み、手の力を弱めた瞬間、彼の体を力いっぱいに押した。
男の体は動かなかった。ただ私の体が海に放たれた。
足先に触れていた地面が離れ、計り知れない自由を感じたのも束の間、すぐに、ほかの感情が湧きあがってきた。
おなかの底から、うなじへと吹き抜ける強い恐怖。初めて、痛みでも、苦しみでもなく、死ぬことへの恐怖が、私を取り巻いた。
見えていたはずの底が見えなくなって、突然体が鉛のように重くなった気がした。
顔を、あげる。
揺らぐ視界の中、必死で手を伸ばしてくる、男の顔が見えた。
ためらった。けれど、耐えられなかった。
「たすっ…け、」
腕を伸ばした。まっすぐに、彼へと。
海に落ちた、私の腕と声。
耳。
涙。
――――――――――これで終われば、ハッピーエンドだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます