IWTD

榎木扇海

第1話

「IWTDって何の略か知ってる?」

突然投げかけられた質問に頭の弱い私はおもわず狼狽えた。声の主はちゃぶ台の向こうに座る親友、蘭である。

「え?なにそれ?」

手元の教科書をぱらぱらめくりながら聞き返すと、彼女は顔を引き伸ばすようににまーっと笑った。

「内国水運管理局」

しばらくその言葉を噛みしめてみてから、私はゆっくり彼女のほうを見た。

「………は?」

彼女は煽り顔で「ほら、APECでアジア太平洋経済協力とかUNESCOで国際連合教育科学文化機関みたいな」と付け足した。

「そんな略称聞いたことないんだけど?なに、IWKEだっけ?」

「IWTD。でもご存知の通り入試にはぜーんぜん関係ありませんので、忘れてくださーい」

彼女にしては珍しくちゃらけた様子で言葉を締め、シャーペンをくるりと回した。

 そのまま問題を解き始めた彼女の顔に、長く重たい前髪が被さっていた。


 彼女とはちょくちょく一緒に受験勉強をしていた。受ける高校が違うが、それでもよく連絡を取り合い、それぞれ教え合ってきた。

 だがしかし、勉強も本腰を入れたあたりから会話が減り始め、互いに遠慮しあい連絡もできず、それぞれ静かに別の進路へ進んだ。

 合格発表の日、掲示された合格者番号に自分のものがあると確認した後、すぐにスマホを取り出した。

 この朗報を伝えたい相手には真っ先に彼女が浮かんだ。

 今までは必ず通話履歴の一番上に居た彼女の名を探して画面をスクロールしながら、ふと、指が止まった。

(蘭が受けたのは難関校だし、受かってるかはわかんないよね…)

しばらく悩んだがそっと画面を閉じ、ため息をついた。

 自分の吐いた息が白く空に昇っていくのを見ながら、目を閉じる。

(蘭も、受かっていますように)

受験生達のざわめきの中、遠くで鳩の鳴くのが聞こえた。


 帰り、駅で彼女を見つけた。彼女とは乗る路線が違うのだが、偶然タイミングが合ったようだ。

 前を歩く彼女に急いで駆け寄り、肩を叩いた。

「蘭!」

素早く振り向いた彼女は大きく目を見開き、怪訝そうに眉をひそめた。

「偶然だね!…あー……っと、じゅ、受験どーだっ ――」

「受かってたよ」

「あっそうなんだ!おめでと!!」

「え、なに?落ちてると思ってたの?」

ひやーっと目を細めて睨んでくる。

「ちっ違う違う!!だって結構シリアスな問題じゃん!いちおー気を使ったんだよー」

すると彼女はマフラーを押さえて小さく笑い、冷たい指先で私の額を弾いた。

「あんたは変に気なんか使わなくていいのー。素直なところがあんたの長所でしょう?」

額を押さえながらへへぇーっと笑った。びっくりするほど冷たい目で見られたが、親友に改めて言われると照れるものだ。

 彼女はちらっと私を見下ろすと、小さく「あんたは?」と尋ねてきた。

 そっちも気ぃ使ってんじゃーん、と冷やかしたあと顔の隣でダブルピースを作った。

「見事!受かってました〜」

「おー、よかった!」

彼女は私の頭を掴んでくしゃくしゃにした。

 これは彼女の癖で、幼い妹ちゃんによくする「いいこいいこ」である。時たま私や同級生にしたりもするが、こういうときの彼女の顔はあまりにも「お姉さん」でなんだかほっこりする。


 日が暮れるまで話し込んだあと、どちらからともなく、「帰ろうか」ってことになった。

 高校が違うので、一緒に登校とかはできなくなるが、それでも毎日連絡取り合おーね!と約束し、その場を去った。


 しかし、思っていたより高校は大忙しで、勉強は100倍難しいし、課題は1000倍多く、部活は10000倍大変だった。ふと思い立って入った野外活動の実行委員会も私から自由の時間を削いでいった。

 こうして彼女からのメールにまともに返信できなくなると、彼女も遠慮して連絡してこなくなった。若干寂しくはあったが、高校で親しい友達ができたこともあって、むしろ心の負担が減った気がしてちょっとほっとしていた。



 こうして2年の月日が流れた。格段に難しくなった勉強に沸騰した頭を冷やすためか、高校受験に躍起になっていたあの頃をよく思い出すようになった。


 手元のじゃらじゃらに装飾品がついたシャーペンを回しながら、数学の問題集と向き合っていた。

(結局、蘭が言ってたあの略語、高校でも使わなかったなー。なんだっけ、確かIWAI…いやこれ岩井だな。I…I…あ、IWTD!!)

脳の突っかかりみたいなものがすっと取れた感じがして、ほくほくとノートにその4文字を書き写してみた。ちょっと崩したふうに書くとなにかのロゴみたいでカッコよかった。

「これ、何の略だったっけ?」

正直あの頃もまともに覚えていないものだったのでいくら考えてみても思い浮かばず、諦めてスマホを取り出した。

 文字を入力するときにカツン、と音がして自分の爪が伸びていたことに気づいた。そういえば蘭は爪キレイだったなーっと思い出す。

 細く長く、ほんのり桜色ですごく綺麗だった。彼女自身も「唯一自信があるところ」と言っていたくらいだ。

 私の爪は改めて見てみると酷いものだった。特に手入れもしないまま、気まぐれにネイルをして、飽きて放置したり適当に剥がしたり、なんてのを繰り返したらうっすら縦線がはいって割れやすくなってしまった。

 ほんの気休めで爪にふっと息を吹きかけ、指の腹で検索ボタンを押した。毎月使い過ぎるせいで、月末は必ず通信速度が鬼遅い。

 画面上部の緑のバーがやっと右端まで到達し、一瞬チカチカッと白くなって、ようやく検索結果が表示された。

 「IWTDの意味・用法」と書かれたサイトをタップし、またしばらく待つと「内国水運管理局」と出てきた。その下に小難しい英語がいくらか書いてある。

「あー!そーだそーだ!内国水運管理局だ!!つーかこれ、今でも意味わかんねーんだけど~!!」

げらげら笑い転げながらサイトを閉じたとき、ふと下の方に英語のサイトがあるのを見つけた。「IWTD meaning」と表記されているのを見て、英語の略称なのに英語の説明いるの?というバカ極まりない疑問によりそのサイトをタップした。

 長い読み込み時間を要した後、やっと表示された内容は気分が悪くなるほど理解不能な文字の羅列だったが、一番上に書かれた一文は、英語のテスト1桁常連の私でもわかる簡単な文だった。


『I Want To Die』


たった4単語、口に出したら1秒もかからないような短い文。けれどその1秒は、私の頭に隕石が落ちたかのような衝撃を与えるには十分すぎるほどだった。

 急いでサイトを閉じ、スマホの画面を下に向けて机に置いた。

 どくっどくっと心臓が波打っているのがわかった。耳元にあるかのような、大きな自分の鼓動が響く。

 私があの言葉の意味を理解すると同時に、鮮明だったかつての彼女の顔がもやがかっていく。

 あの言葉の意味を問うた時、彼女はどんな表情をしていただろうか。彼女の様子はどんな風だっただろうか。……彼女は本当に笑っていただろうか。

 どんどん焦り始める心臓を落ちつけようと、脳がフル稼働していた。曖昧になった彼女の顔を塗り替えていく。

 ……そうだ、彼女は笑っていた。からかうように、ネタバラシしたい気持ちをぐっと抑えて、笑っていた、は、ず。きっと、楽しそうに……だから、だからたぶん知らなかったんだ、IWTDのもうひとつの意味なんて。きっと適当に略語を調べてたら出てきただけ。それだけ、それだけ………

 おもわず頭を抱えた私を助け出すように、高くよく通る声が大きく響いた。

「ご飯できたよー!降りておいでー」


 晩ごはんはエビフライだった。

「お父さんは?今日も遅いの?」

「うん、昇進したら残業が5倍だ、なんて嘆いてたわよ」

ふくよかな母は目尻にシワを寄せて楽しそうに笑った。私も頬をつり上げて笑ってみせる。

 父親が嫌いなわけではないが、できることなら顔を合わせたくない。人のいい父が私なんかの一言で一喜一憂しているのが、どうにも気持ち悪くてならないのだ。

 小さく息をついてエビフライをかじった。母は料理が上手ではないので、ずぼっとした分厚い衣が口の中を占領する。

 自分は出来合いのほうれん草を食べていた母は、「そういえば」と口を開いた。

「あんた覚えてる?葉組はぐみさんとこの娘さん」

箸が止まる。また耳元に心臓が寄せられた。

「……蘭のこと?」

すると母はマナーなんて関係なしに口元にあった箸を私に向け、箸先をカチカチと鳴らした。

「そうそう!蘭ちゃんだ!よくウチにも遊びに来てたよねぇ」

懐かしげに語る母を急かして言う。

「で?蘭がなに?」

母は太い眉をきゅっと寄せ、不必要に声を潜めて囁いた。

「なんかねぇ、あのこ、精神科通ってるそうなの」

耳が叫ぶほどの鼓動が、血管中を駆けた。

「なんで!?蘭が精神科なんて行く理由ないじゃん!おかしいでしょ、変なこと言わないでよ!!」

突然激昂した私にたじろいだ母は気まずそうに笑った。

「私に言わないでよ。この間の婦人会でお隣の田中さんが言っていたのよ。精神科から出てくるのを見たって。田中さんはあんたが蘭と仲良いこと知ってたから、あんたのためを思って教えてくれたのよ?」

まぁまぁと箸を上下させる母にぐいっと顔を寄せた。

「…いつ?」

「え?」

「いつ?蘭が病院から出てきたの」

母親は顔を青ざめさせながら、必死に自分の記憶を手繰り寄せ始めた。

「え~っと、婦人会が土曜日だから・・・木曜日ね、先週の」

「わかった」

私はすっと体を引き、無理に晩御飯をかきこんだ。

 しかし私の意図に気づいた母は眉根を寄せて咎めた。

「行こうなんてしちゃだめよ?噂によると自殺未遂までしたらしいし……」

お茶碗を机にたたきつける。

「ごちそうさまっ!!」

これ以上聞きたくなんかなかった。


 その週の木曜日、母の助言になんか聞く耳を持たずに私は仮病で学校を休み、田中さんが彼女を見たという精神科病院の目の前のカフェで待ち伏せることにした。

(違う、蘭じゃない。蘭じゃない。田中さんの見間違いに決まってる)

それを確認するために、ここに来た。それだけ、のはず。

 しばらく待っていた。何人か出入りしたが、どれも私よりずっと年配の人ばかりで、うるさいほどの胸騒ぎは薄れ、だんだんと退屈になっていった。

 スマホをいじったり、パンケーキを食べたりして時間をつぶしていたが、一向に彼女が現れる様子はない。

(やっぱり、田中さんの見間違いだったんだ。やンなるなぁ、もう)

荷物を持ってがたりと立ち上がった時だった。ちらりと視界の端で、彼女が映った、気がした。

 慌ててそちらを向く。誰かが病院に入ってきた。

(蘭よりも背が高かった。蘭よりも足が細かった。だから……違う)

けれどそんなのは関係ないとでもいうように、私の体は先ほど座っていた椅子に吸いつけられた。

 それから一時間がたち、二時間がたち、三時間がたったところで閉店だと追い出された。

 ちぇ、と舌を鳴らして歩きだす。横断歩道の向こうの病院から目を離すことはなかった。


 病院のすぐ近くの、地下鉄へ下る階段の後ろの壁と花壇の間に隠れた。たばこの吸い殻が目立つが四の五の言っていられいない。ここら辺しか隠れられそうなところはなかったのだ。

 それから一時間後、空には星が輝き始め、随分冷え込んできて凍える指先を必死に摩擦で温めていた時分、久しぶりに病院の自動ドアが開いた。

 どうせ違うだろう、そう思いながらゆっくり顔を上げてハッとした。そして体を一層隠す。

 長いが碌に手入れもされていない髪からのぞいた顔をみて確信した。

 大きなクマが目立ち、髪もつやを失っているが、それはまごうことなき彼女だった。

 ただ、どうして田中さんがわかったのか不審に思うほど、かつての姿とは変わり果ててしまっていた。

 白く血管が透けていた肌は赤くただれ、髪はざんばら、瞳は光を失っている。頬もこけて、唇は乾燥して血が滲んでいた。

 彼女はそのままふらふらと薬局に向かい、自動ドアが開くと同時に入っていった。

 そして私は。


 早足で場を抜け、駅に向かった。地下鉄でもいいが、ここからだとお金が足りない。カフェで食べ過ぎた。せめてもう一駅は歩かなくては。

 どきどきと心臓が泣き喚いた。小さな罪悪感と喪失感、そしてそれよりずっと大きな嫌悪感が体を抱きしめて離さなかった。

 彼女が病院から出てきたこと。姿が変わり果てていたこと。精神科だったということ。これらすべてのように、あの頃から愕然と変わってしまった彼女をいざ目にした瞬間、私の中にすさまじい拒絶心が生まれていた。

―――気持ち悪い―――――

思ってもいなかった感情が唇からこぼれて、あわてて口をふさいだ。

 誰かに聞かれてやしないかと、あたりを見回す。しかし誰も私なんか気にも留めず歩き去っていった。

 ほっと息をついて、足を進めたとき、しくじった、と思った。

 信号が赤にかわった。ここの信号は車の多い大通りであるため、なかなかかわらない。

 足を動かしながら前のめりに信号が変わるのを待つ。普段なら走ってわたっているだろうが、なまじ都会にあるせいで人も車も多くそんなこと不可能だった。

 誰かに足を引っ張られているような、なんとも心地悪い腹立ちが沸き立っていくのを感じていた。


 そして恐れていたことは起きてしまった。

千湖ちこ…?」

びくっと反射的に体が震え、それから顔だけちょっと傾けて後ろを向いた。そして予想通り、彼女がおどおどと立っていた。

 ここまで来たらもう逃げられない。

 私はゆっくり振り返り、笑って見せた。

 そう、ちょうど、父親の話を聞くときのあの顔で。

「久しぶり!」

明るい声で笑った彼女が伸ばしてきた手を見てぞっとする。

 あれほど綺麗だった指先が、爪も割れ、ぎざぎざに欠けていて、ささくれでカサついていた。

 私よりよっぽど酷い指だった。

 髪を耳にかけるふりをしてその手をそっと避け、へらっと笑った。

「あ…ひ、久しぶり」

彼女はわくわくと話しかけてきた。なんだか何から何までかつての彼女とは違う気がした。

「千湖元気だっ――」

「“葉組さん”…だっけ?」

言いつつ、一歩下がる。正直そんな見た目で私に近づいてほしくなかった。

「ごめんね、あの、私記憶力なくてー…」

彼女の手が固まる。そしてゆっくり自分の体のほうへ引き寄せられていった。

「てゆーか、葉組さん精神科通ってたんだー」

酷い言い方だと自分でも思った。けれど焦ってしまい、頭がうまく回らなかった。

「あ、信号変わったし、私急いでるから、もう行くねっ?こ、今度会ったときちゃんと話そーっ!」

軽く手を振って走り出す。


 のどが痛くて走れなくなるまで全力で走った。人をかき分けて進んだ。舌打ちされたって気にならなかった。

 ただ、もう二度と、あのこに近づきたくなかった。

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