一〇章
反撃(1)
そこはグリムのアジト。かつてはセレブ向けの農場付き貸別荘として使われていた洋館の地下だった。もともとはその目的にふさわしくワインセラーか何かだったのだろう。その広さからして、それこそ世界中の名だたるワインが集められ、貯蔵されていたにちがいない。しかし、かつては確かに人生を豊かに、幸福なものにする目的のために使われていた空間はいまや、見るもおぞましい地下の牢獄と化していた。
ジメジメと薄暗く、サディストの趣味丸出しと言った雰囲気の場所だった。牢の壁ははげ落ち、天井からはボタン、ボタンと水が垂れ、その音を聞いているだけで気が狂いそう。
辺り一面カビが生えている。足元にはうっすらと異臭の漂う水が溜まっていた。そのなかには本物なのか、それとも、恐怖をいや増すための演出なのか、人の骨が散乱していた。
正面にまだ子供のものと思える小さな頭蓋骨が転がっていて目が合ってしまった。トゥナはあわてて目をそらした。
――これは本物じゃない、これは本物じゃない。あのド変態のサディスト野郎のこと、相手を怖がらせるための演出としてフェイクを置いているのよ、本物じゃない……。
必死に自分にそう言い聞かせた。床に散乱する骨が相手を怯えさせるための小道具であることはまちがいない。しかし、だからと言って偽物であるとは限らない。むしろ、根っからのサディストであるグリムのことだ。拷問の果てに殺したあとの骨と言うことも……。
そう想像してしまい、トゥナは怖気を感じた。歯を食いしばり、目を閉じて頭を振った。必死にその考えを振り払った。ともかく、グリムのサディストとしての演出は立派にその役割を果たしていたのだった。
トゥナとアネモネはその薄暗い牢のなかにつながれていた。壁に背を付け、両腕をまっすぐ上に伸ばした姿勢で。手首をしっかりと鎖で縛りあげられている。それも、爪先立ちでギリギリ足の指先が届く絶妙の距離に。
おかげで手首に体重がかかって千切れそうだ。爪先はガクガク震えている。手首がヒリヒリする。すでに鎖とすれて皮がむけているらしい。もし、この調子で一晩でも放置されていたら……。
その不吉な予想をトゥナは必死に振り払った。とにかく、グリムに対して怯えた様子だけは見せたくなかった。この状況にあってはそれだけがグリムに対してできる抵抗だった。
そんなトゥナをニヤニヤと薄笑いを浮かべながらグリムが見下ろしていた。
さて、どうやって痛めつけてやろうか。
そう考えている表情だった。
もちろん、単に肉体を痛めつけるだけではない。いかに尊厳を踏みにじり、誇りを奪い、恥も外聞もなく許しを請う肉人形に仕立てあげるか。それこそが真性サディストとしての『高尚なる趣味』というものだった。
その横にはむさ犬が立っていた。グリムも人間としては決して小柄というわけではないが、三メートル近い長身と並んでいるとまるで子供に見える。根性のねじ曲がった、小太りで、常に下卑た笑みを浮かべるいやらしい子供だ。そのいやらしい子供がニタニタとトゥナを見ながら言った。
「クックックッ、よけいな手間をかけさせてくれたな。だが、それもこれまでだ。頼みの騎士団も壊滅。もうお前は逃げられない。おれの手で切り刻まれる運命さ。それとも、今度こそ命乞いしてみるか? 這いつくばって『お願いですから、ご主人さまのケツの穴を舐めさせてください』と哀願してみるか? そこまでやったら、もしかしたら仏心のひとつも出してみるかも知れんぞ」
ニタニタと、グリムは毒トカゲの唾液のような笑みを浮かべた。
「誰が……」
トゥナはグリムを睨み付けた。あまりに下劣な表現に怒りがほとばしった。自分に魔力がないのが悔しい。もし、魔力があったらこんな奴、この一睨みで殺してやれるのに……。
「あんた……恥ずかしくないの? こんな年端もいかない女の子を売り買いするような真似をして」
「それの何が悪い。おれは人間だ。他の下等生物どもとはちがう。人間には新しい生命を作る知性がある。その知性を使い、利用する権利がある。人造生物をどうしようとおれ様の自由だ」
――こいつだ。
グリムの言葉にトゥナは思った。
――こいつこそ、おばあちゃんの憎んでいた『すべてを自分の思い通りにしようとする人間』そのものなんだ。
グリム。この男、この人間の精神だけは勝利させるわけにはいかない。グリムの精神を勝利させることは人間の名誉と尊厳の敗北だった。何としても倒さなくてはならない。例え、どんなに劣勢であったとしても。
「勝ったと思うのはまだ早いわよ。騎士団はあれで全部じゃない。先遣隊が壊滅したとなれば必ずもう一度、派遣されてくる。もっと大勢の、もっと重装備の騎士団がね。そうしたらあんたも終わりよ」
「かまわんよ。やってくればあのドラゴンを使って返り討ちにするだけだ」
ケラケラとグリムは笑う。こんな下劣な男の口からフォレスターのことが出たことが耐えられない。
フォレスター。
生まれた頃から親しんでいた森の主。おばあちゃんが全力で守った、おばあちゃんの忘れ形見。そのフォレスターをこいつは改造した。脳を取り出し、偽りの脳を乗せて自分の奴隷にした。
許せない。
許せるはずがない。
悔し涙がにじんだ。グリムを睨み付けた。グリムは驚喜の声をあげた。
「ワッハッハッ、そうだ、その顔だ! その顔をずっと見たかったんだ! 覚悟するがいい。これから毎日、その顔をさせてやる。そして、終いにはそんな顔をする気力もなくなり、一時の休息と引き替えに、おれ様のケツの穴を舐めるようになるんだ! タップリと舐めさせてやるぞ。きさまの舌が使いすぎてチビるまでなあっ!」
ギャハハハハ、と、下品極まりないグリムの笑い声が牢に響いた。そのとき、それまで黙っていたアネモネが口を開いた。
「グリムさま」
「アネモネ!」
グリムさま。
アネモネはグリムのことをそう呼んだ。おそらくはアジトを逃げ出す前までそう呼ばされていたのだろう。しかし、いまのアネモネがそんな呼び方をする理由はない。なのに、さま付けで呼ぶ。その理由はひとつしかなかった。グリムの歓心を引くことで何とかトゥナを助けようとしているのだ。
「グリムさま。わたしはあなたに従います。あなたのご命令通り、誰の相手でもします。どんなことでも。あなたに巨万の富をもたらすことを誓います。ですから、お願いです。トゥナだけは許してください。あの農場に帰してあげてください」
「ダメよ、アネモネ! こんな男にお願いなんかしちゃダメ! さま付けで呼んだりしちゃダメ!」
「だまれ!」
グリムが叫んだ。右腕が振るわれた。トゥナの頬を白い輝きがかすめ、灼熱感が走った。
トゥナの頬から血が噴き出した。グリムが手にしたナイフでトゥナの頬の皮一枚を切り裂いたのだ。
その一閃は見事に皮膚一枚だけを切り裂いていた。その下の肉まではわずかも届いていない。その間合いは並の熟練でできるものではなかった。抵抗できる相手と戦ったことはなくても、無抵抗の相手を痛めつけ、切り刻むことに関しては確かにグリムは名人だった。
「トゥナ!」
アネモネの悲鳴があがった。
トゥナは必死に歯を食いしばり、悲鳴をこらえた。とにかく、この男に悲鳴を聞かせるわけには行かなかった。
「そうだ、いいことを思いついたぞ。お前の目の前でニジュウロクにおれ様のケツの穴を舐めさせてやろう。お前自身に舐めさせるより、よっぽど悔しいだろうからな」
「この卑怯者、サディスト! そんなことしたら許さないわよ!」
「許さない? ほほう、どう許さないと言うんだ?」
グリムは言いながら愛用のナイフでトゥナの頬をペタペタと叩いた。
「鎖につながれて何もできないくせに。お前は無力なんだ。お前は無価値なんだ。お前にできることはせいぜい、おれ様に媚を売って慈悲を願うことだけさ。さあ、言ってみろ! 『グリムさまのケツの穴を舐めさせてください』とな! お前が舐めないならニジュウロクに舐めさせるぞ!」
「クッ……」
トゥナは唇を噛みしめた。グリムの要求などもちろん、論外。かと言って、いまこの状況でアネモネを守るためにはそうするしかないのも事実。一体、どうすれば……。
「やめて、やめてください!」
アネモネが叫んだ。トゥナがこれ以上、辱められることを聞いては居られなかった。
「舐めます! わたし、グリムさまのお尻の穴を舐めますから!」
「アネモネ!」
「ほほう、良い子だ。ニジュウロク。では、お前がおれのケツの穴を舐めるんだな?」
「はい……」
「ダメよ、アネモネ! あなたは人間でしょ! そんなこと、絶対にしちゃダメ!」
「だまれ!」
グリムがトゥナを平手打ちした。容赦ない一撃だった。トゥナの頬にくっきりと跡が残った。それを見てアネモネが顔を青ざめさせた。
「お願いです、グリムさま。わたしにご奉仕させてください」
「ほほう? そんなにおれに奉仕したいか。そんなにおれのケツの穴を舐めたいか?」
「はい。わたしはどうしても、グリムさまのお尻の穴を舐めたいです」
「アネモネ!」
トゥナが叫んだ。何とか鎖を引きちぎろうと両手を振りまわした。そんなことでクマでもつなぐことのできる鎖が外れるはずがない。手首の皮がむけ、肉が裂け、血が流れただけだった。
アネモネはそれを見て心が張り裂けそうになった。トゥナは必死に止めようとしている。グリムの奴隷になろうとしている自分を。でも、それでも、かの人がトゥナを守る方法はグリムに媚を売り、歓心を買う以外になかった。
トゥナ。自分を助けてくれたトゥナ。ほんの何日かの間だけでも人間としての暮らしを体験させてくれたトゥナ。
『一緒に〝美しいヒト〟の国を作ろう』
そう言ってくれたトゥナ。
そのトゥナだけは助けたかった。
――ごめんなさい、お母さん。お母さんの願いは叶えられない。わたしもやっぱり、道具として作られた存在。一生、道具でいるしかない……。
グリムはニタニタと笑いながらアネモネに尋ねた。
「お前の名はなんだ?」
「ニジュウロク……です」
「おれ様はお前のなんだ?」
「ご主人さま……です」
「主人だと……?」
ネットリと、グリムの瞳がいやらしく輝いた。
「おれの聞き違いかな? 主人と言うのは人間が相手を呼ぶときの名だ。お前は人間じゃない。モノだ。番号で呼ばれる、ただの道具だ。道具は道具を使う人間さまのことをなんと呼ぶのかな?」
「……持ち主さま、です」
「そうだ、その通りだ! お前はただのモノだ! おれはお前の持ち主だぞ! それを忘れるなよ」
「はい……」
「よろしい。では、二度と忘れられぬよう道具として使ってやろう。鎖を外してやる。おれ様のケツの穴を舐めろ」
「やめて、お願い! アネモネにそんなことをさせるくらいなら……」
あたしがやる!
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