変化

「そろそろ帰ろうかしら」

ミシェルの食器を家に置いて戻って来たマルクに、ミシェルは立ち上がり言った。


「もう具合は大丈夫なの?」

「ええ、もう大丈夫よ。そろそろ帰らないと、心配されてしまうから」

「また会えるかな?」

マルクが期待を込めた目で言った。

「・・・ええ、遠いから簡単には会えないけれど、またきっと会えるわ」

距離の問題でいえば簡単なのだが、ミシェルを取り巻く環境を考えると必ず会えるとは限らなかった。いつもはすらすらと口をついて出る嘘が、この時はいやに時間がかかった。

「僕はいつ来てもらっても大丈夫だから。近くまで来たらきっと寄ってね」

「分かった。なるべくまた近いうちに来るわ」

そうして手を振るマルクに、ミシェルも片手を上げた。やがて彼女はマルクに背を向けると、屋敷の方へと歩いて行った。彼がずっと手を振り続けている気配をミシェルは肩で感じていた。



 予想はしていたが、屋敷に戻ったミシェルを待っていたのは上へ下への大騒動だった。原因は勿論ミシェルが急に姿を消したせいだった。


三十人程居た信者はほとんどが捜索に借り出され、ミシェルは屋敷に残っていた乳母にひどく叱られた。乳母はほとんど半狂乱になりながら目の前の少女に苦言を浴びせ、それを受け止めるミシェルは顔色を全く変えずに一言謝罪をした。アドリアン教祖からは何事も無くてよかったと涙ながらに抱きしめられた。


乳母に誰にも会わなかったのかと問い詰められたが、野原を歩き回っていただけで誰にも会っていないと嘘をついた。マルクのことを話せば彼がどうなってしまうのか、今までの教団の様子を見てきて想像に難くなかったからだ。


そしてこの騒動によりミシェルの監視は一層厳しいものとなった。

ミシェルの自室の前では常に信者が一人番をすることになり、森や別棟への外出はもちろんのこと、施設内の移動でも番の者に行き先を告げ、付き添わせなければいけなくなった。ミシェルが一人になれるのは自由時間に自室にいる時だけだった。


その自室で本を読みながら、彼女はたびたびマルクとの時間を思い出した。


私はこのままアドリアン教祖達が望むように、悪魔とやらになってしまってもいいのだろうか。


今まで真剣に向き合ってこなかった問題が、マルクと「普通」の時間を過ごしたことによりミシェルの心の中に浮き彫りになってきた。


ミシェルは教団の人間達が望むような存在に特別なりたい訳ではなかった。

しかしこのような異質な環境で育てられて、果たして人間として生きていくことができるのだろうかと思った。第一ここに囚われている時点でそれは難しい。

ミシェルは溜息をついて本を閉じた。頬杖を付いて窓の外をぼんやりと眺める。夕餉の時間が近かった。しかし口の中に広がったのはいつも食べる豪華な食事ではなく、あの木陰で食べた素朴な煮込みの味だった。



 どのように生きるべきか決められないまま時間は過ぎていき、ミシェルは十二歳になっていた。


彼女の生活は相変わらずで、午前中はいつも似たような内容の授業を行い、午後は本を読むことが多かったが、それだけでは飽きてしまうので料理番に菓子の作り方を教わり、自分で作ってみることもあった。能力の高い彼女は一度教われば料理番顔負けの菓子をたやすく作った。料理番はそれをひどく褒めそやしたが、彼らは私が何を作ろうが同じように褒めるのだろうなと内心思っていた。



外出はやはり敷地内の森に限られていた。

そんな所でも外に出ないよりはましなので、ミシェルは乳母を伴って深い緑の中を歩いた。


森は日差しが乏しく小暗いが、もう慣れたものだった。鳥の羽ばたく音を聞きながら乳母と取り留めも無い話をしながら歩く。普段の散歩と何も変わらないはずだった。


しかし今日は違った。二年前この森で見た時のように、兎の死骸を発見したのだった。茶色い兎が目を閉じて横たわっていた。

動物の死骸を見るのはあの時以来だった。茶色い兎を見て、自分の中で二年前のように憐憫が湧いてくるのかと思った。—しかし、何も感じなかった。


ミシェルの瞳と心はただ「茶色い塊が落ちている」と認識しただけで、それ以上何も気持ちに変化は起きなかった。


そんな自分を客観的に見たミシェルはただただ恐ろしくなった。あの時と同じ状況なのに、私は何も感じていない。弔いたいという感情も湧かなければ、これを「生物の死」とすら捉えておらず、物が落ちているという感覚で兎を見ていた。

この二年間のあいだに、私は変わってしまった。おそらく、教育係や乳母が言うところの「完全な存在」に近付いているのだろうと思った。


その場に立っていられなくなったミシェルは駆け出し、森を屋敷に向かって引き返した。慌てた乳母が呼び止めるのも構わずひたすら走った。泣き出したい気分だったが、残念なことにミシェルに涙を流す機能は備わっていなかった。


 駆け込むように自室に戻ると、ミシェルは茶色い机に突っ伏した。これまで自分の気持ちに区切りを付けてこなかったが、いざ人間としての部分が無くなってしまうかもしれないと思うと動揺した。いっそのこと、この場所から逃げ出そうかとも考えたが、この教団の規模と執念だ、容易く捕まってしまうだろう。大体逃げ出したところで自分が悪魔になってしまえば同じことだった。

私はこのまま教団の人間達の思惑通りの存在になってしまうのだろうか。

教団側はひた隠しにしていることだが、私を創るための儀式で不手際があり、そのせいで人間の魂が一部残ってしまったのではと信者達が話していたのを耳にしたことがある。

いっそのこと、人の魂なんか持たずに生まれればこんなに苦悩することもなかったのではないか。儀式さえ失敗しなければ——。

ミシェルは首を振った。今更過去の失敗を責めたところで仕方がない。これから自分がどうしたいのかを考えなければいけなかった。


気を持ち直したところで、部屋の戸がノックされた。応答するとアドリアン教祖の声がした。入っていいかと聞かれたので、大丈夫です、と取り澄まして返事をした。するとドアが開かれて扉の向こうから教祖が現れた。


六十を過ぎたアドリアンだったが背筋はそこまで曲がっておらず、頭髪も白くはあったが多く残っていた。何よりも瞳に力強い意志のようなものが宿っていて、それはもちろんこの世に偉大な悪魔デーモンを誕生させんとする野心によるものだろうと思われた。


アドリアンは毎日一回、ミシェルの元を訪れていた。大抵はどこか体に悪いところは無いかと調子を尋ねた。そしてまるで彼女が我が子であるかのように、愛しそうにミシェルの頭を撫でるのだった。


「先程散歩から急に戻って来たようだったが、何かあったのか?」

「ええ、苦手な虫を見たものですから、気分を悪くして切り上げてしまいました」

教祖は特別何か警戒している様子はなかったが、兎のことは言えなかった。人間じみた考え事をしていたと知られては、また何を言われるか分かったものではなかった。

「そうかそうか。おまえがいつか完全な力を手にすれば、そんなものは簡単にこの世から消し去ることができるよ」

猫なで声で話すアドリアンに、ミシェルは居住まいを正して口を開いた。

「教祖様、コレット達や教祖様が「いつか完全な存在になれる」とたびたび仰いますが、それはいつのことなのでしょうか?私、楽しみにしているのですが一向にその時が来ないのです」

動揺する心を隠し、落ち着いた様子でミシェルは尋ねた。嘘をつくのは相変わらず得意だった。


アドリアンは「ふむ」とも「うむ」とも聞こえるような相槌を打ち、思案するように自分の顎をさすった。

「確証が無いので伝えるわけにはいかなかったのだがな、おそらくはあの神の子—キリストが磔にされた日・・・それにちなんだ歳を迎える頃ではないかと思っている」

キリストが磔にされた日—それは授業で飽きる程教えられた。13日の金曜日。ということは、私が十三歳になる頃ということか。ミシェルは今十二歳。十三歳になるまではあと十ヶ月程だった。

「ちょうど十三歳になる日ということでしょうか?」

つとめて冷静に質問した。誕生日の日までであればまだ余裕はある。

「いや、そうとは限らない。こればかりは正確な日にちは計れんよ。ただ、確実に近づきつつはある。もしかしたら明日ということだって有り得るのだ。まあなんと、楽しみで仕方がない」


聞いているミシェルの表情は揺らがなかったが、内心では冷や汗をかいていた。手遅れになるまでもう時間が無いのかもしれない。今日の心境の変化を見る限り、近いうちに自分は「変わって」しまう可能性がある。そのことが無性に恐ろしかった。

ミシェルは口先だけで「それは楽しみですわ」と言いながらドレスの裾をつまみ、去って行くアドリアンを見送った。その後彼女は裾をつまんだまま、閉じられた部屋のドアをただただ無言で見つめていた。

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