少年と少女
森での件から数ヶ月程経った頃、再びミシェルが自分の存在に疑問を持つ出来事が起きた。
彼女は相変わらず教団の施設に軟禁されていて、外に出られるのは例の敷地内の森だけだった。そんな生活に嫌気が差した彼女は、ちょっと屋敷を抜け出してみようかと画策した。
午前の授業が終わると午後は自由時間だった。午後になるとミシェルは自室からそうっと出て、辺りを見回した。部屋の近辺に人は居なかった。そのまま絨毯の引かれた大階段を降り、屋敷の出入口へと向かった。
しかし扉に手を掛ける直前、彼女を呼び止める声がした。
「ミシェル様、どうなさいました?森へのお散歩でしたら付き人が必要なはずですが」
呼び止めたのは三十代くらいの男性信者だった。ミシェルの元までやってきた彼は不思議そうな顔をして彼女を見つめていた。
「別棟に行くだけよ。あそこにある本が読みたくて、取りに行くの」
大勢の信者が居るこの建物で誰にも会わずに外に出ることは不可能だと思ったので、予め言い訳を考えてあった。別棟だったら屋敷のすぐ隣にあるので一人でも行くことが許されていた。
「ああ、それは、お勉強熱心なことで。感心いたします」
男性信者が納得したように頷いたのを見て安心したミシェルは、「早く皆の期待に沿うように学ばなくてはいけないから」ともっともらしい事を言い、早々に彼に別れを告げ屋敷の扉を開けた。
屋敷に背を向けたミシェルは一目散に駆け出した。途中で一度振り返り、誰にも見られていないことを確認する。あとはひたすら建物から離れるだけだった。両手でドレスの裾をつまみ、走れるだけ走った。
十分以上走り、そこからしばらく歩いた。どこまでが教団の敷地か分からなかったが、民家がぽつりぽつりと見えてきたのでもう外に出たのだろうと思った。
初めて見る「外」だった。ミシェルは珍しく自分の気持ちが高揚しているのを感じた。
施設がある土地と同じで地面は一面の緑で、民家の屋根は赤だったり茶色だったりした。あまり裕福な地域ではないのか、一つ一つの家は古くて小さい。
少し周りを観察していると、ミシェルはその中の一つの、灰色の屋根の家の前に少年がいるのに気づいた。
「外」の人間と関わるのも初めてだった為、ミシェルは興味津々になって少年に近付いた。彼はミシェルと同い年か、少し年下に見えた。彼は桶に手を突っ込んで何やら洗い物をしていた。
「こんにちは」
ミシェルが声を掛けると、熱心に作業をしていた少年は驚いて顔を上げた。そしてミシェルの姿をみとめると更に目を丸くした。
「どうしたの?そんなに驚いて」
驚かれたことに驚いて、ミシェルは少年に尋ねた。彼は立ち上がるとズボンで両手を拭き、腕で額をぬぐうような仕草をした。
「いや、あまりにも綺麗な子だったから、びっくりしちゃったんだ。しかも君、すごく高そうな服を着てるし、この辺の子じゃないよね?どっかから迷いこんでしまったの?」
少年は朗らかで人懐こそうだった。
「迷子ではないわ。ちょっと普段は来ない所に、行ってみたかったの。このドレスは・・・家族がこういうのが好きで、着させられてるのよ」
その少年はマルクと名乗った。ミシェルも名乗ると、マルクは再びまじまじとミシェルを見つめてきた。
「それにしても君、本当に綺麗な顔をしてるね。瞳の色も見たことのないような金色だよ」
「ありがとう。目の色は・・・お父さんが外国人だから、他の人とは違うんじゃないかしら?」
知恵の有るミシェルはその場凌ぎの言い訳を考えることが得意だった。目の色に関しては大人には通用しない理屈だったかもしれないが、まだ幼いマルクは得心がいったようだった。
「それで顔も整っているんだね。ハーフの子って綺麗になるっていうもんね」
ミシェルは少年の足元にある桶に再び目をやった。
「それ、お家の人の手伝い?偉いわね」
「うん、お母さんが昨日から熱を出しちゃって、僕が代わりに出来る家事はやってるんだ」
「まあそれは大変。大ごとにならないといいのだけれど」
本気で心配をしたわけではなかったが、こういう場合は心配をするものだと
「ありがとう。多分、風邪だと思うから、安静にしていれば大丈夫だと思うよ。・・・というか、君も顔色が良くないよ?大丈夫?」
ミシェルの肌は生まれつき他人よりも白かった。しかしその理由を言う訳にはいかなかった為、彼女は少し困り顔を作った。
「・・・あ、ええ、私ちょっと貧血持ちなの。普段はこんなに体を動かさないのだけど、今日は結構歩いてしまったから・・・少し疲れているのかもしれないわ」
それを聞いたマルクは焦ったようにうろたえた。
「それは大変だ・・・!うちで休んでいければいいんだけど、お母さんの風邪が伝染ってもいけないし・・・・・・、そうだ」
ミシェルが言葉を挟む隙も無く、彼は家の中に入って行ってしまった。
どうしたものかしら、と思っていると、二、三分程でマルクは何かを手に持ってすぐに戻って来た。
「はい、これ。今朝作ったおかずだよ。何か食べれば少し良くなるかもしれない。僕が作ったやつだから大丈夫だよ」
彼はそう言いながら何やら器をミシェルに差し出した。何種類かの野菜を煮込んだもののようだった。それを彼女は困惑しながら見つめた。
「ええと・・・・・・」
「あ、煮込み嫌いだった?それとも苦手な野菜が入ってる?」
真っ直ぐな瞳を向けてくるマルクに、ミシェルは首を振った。
「そうではないんだけど・・・・・・。貰って、いいのかしら・・・?」
他人と関わるのが初めてだったミシェルは当然人から物を貰うのも初めてだった。珍しく彼女は動揺した。
しかしそんなミシェルをよそにマルクは屈託なく笑った。
「遠慮しないでよ、うちはそんなにお金持ちじゃないけど、こんな煮込みくらいなら分けてあげられるよ!お腹が埋まれば少しは元気になるかもしれないし、ここで食べていって」
そしてマルクはミシェルを木の根に座らせ、自分も隣に座った。
「い、いただきます・・・」
動揺を消し去ることができないまま、ミシェルは野菜を口に運んだ。
「・・・美味しいわ」
それは素朴な味だったが、ミシェルにはどこか新鮮だった。
屋敷での食事はいつも豪華で、メニューは常に五種類はあったし、いずれも高価な食材が使われていた。それらも勿論美味だったけれど、歳の近い少年と言葉を交わしながらの穏やかな食事は、ミシェルにこれまでになかった安らぎを感じさせたし、何より自分を気遣って食事を出してくれたというのが彼女の心に一筋の光を差し込ませた。
「ごちそうさま」
煮込みを完食すると、ミシェルはことりとスプーンを器に置いた。
「おかげで少し元気になってきた気がするわ」
そう言ってマルクの方を向くと、彼はまじまじとミシェルを見つめた。
「何かしら」
怪訝に思ったミシェルが聞くと、
「いや、君、初めて笑ったなと思って。無表情でも十分綺麗だったけど、やっぱり笑うと素敵だね」
と白い歯を見せた。ミシェルはどうやら微笑んでいたようだが自覚はなかった。「人間らしさ」を徹底的に廃して育った彼女は常にすましていて笑顔になったことは無かったし、眼差しは常に氷のように冷たかった。
その自分が無意識に笑うとは思わなかった。驚いたけれど、悪い気分ではなかった。
緑の葉が生繁る木の下で、ミシェルは空になった器に視線を落とすと、もう一度柔和に微笑んでみせた。
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