第一章 西南五島

第一話 船出


 歌が聞こえる――。

 

南の弧崖を さまよえば

昔のことぞ 偲ばるる

波の音よ 霧のさまよ

寄する波も 海の色も


 高音は遠く近く、空に響き。低音は深く浅く、海に木霊する。

 

御岩が浜を もとおれば

昔の人ぞ 偲ばるる

寄する波よ かえす波よ

森の色も 霧のかげも


 それは天上の声音だった。耳を澄ませば心の奥に染み渡り、知らずと丹田に気が満ちて凍えた体が熱を帯びる。

 

浄衣じょうえたちまち 濡れひじし

赤裳あかもすそぞ 御山やまの花


 ゆったりとした符牒は得も言われぬ哀しみと安らぎに満ち、歌詞に力強さは無いのに不思議と力が湧いてくるような、そんな歌声だ。

 

霧は静かに 島を囲う

巫女の御霊みたまは 根付きける


 頭上から流れるメロディーは最高潮を過ぎて、静かに消えた。


 後には寄せては返す潮騒の音と、波飛沫を引き連れて吹きつける潮風が残るのみとなった。


「う……」


 後頭部に感じる柔らかく暖かな感触が愛おしく、ひと目だけでも見てみたい。無理を押して目を開こうとするが、塩が乾いてこびりついた目蓋はなかなか言うことを聞いてくれない。


 優しい手の平で塞がれる寸前、塩気に沁みて滲む視界の中で、ウェーブの掛かった長い黒髪と、嫋やかに揺れる薄紫の双丘が見えた気がした。



**********

 


 新暦11年の半ばを過ぎた頃、ヤクトは島を飛び出した。


 年の頃は10歳の黒髪の少年だ。上着を脱いで腕を組み、小舟の上で胡坐をかいて唸っている。視線は舟底に広げられた地図に注がれていた。


「……どうしよう」


 行く手に広がる大海に臆することなく、世界地図を片手に小さな手漕ぎ舟で出て行ってしまったのだ。星読みもできないくせに。


 案の定、見事に遭難した。太陽の昇る方角が東だと決めてざっくりと西北西を目指していたと思われるが、そんなものは航海術のうちに入らない。


 目的地を大陸に定めたことは良い選択だと評価できる。ヤクトの目的を思えば最も人口の多い帝国に行こうとするのは自然な流れだ。


「……喉渇いた」


 小舟で辿り着けるわけがない。


 地表のほとんどを覆うトティアスの海は広大で、人が生きられる陸地は僅かしかなく、特に海溝付近には危険な生き物がうようよ居る。


 小さすぎて大型の食指は動かないかもしれないが、島から大陸までの遠大な航海を果たすにはすべてが足りていない。


 知識や経験もさることながら、とりあえずは水と食料である。


「うしっ!」


 片手で膝をパンと打つと、ヤクトは服をすべて脱ぎ捨て全裸になった。


 鍛え上げられた肉体には無数の傷痕が刻まれ、まるで歴戦の勇士のような佇まい。


 揺れる小舟の上で体幹は微塵も揺らがず、大地に根を張っているかのようにしかと立つ。


 顔面の偏差値は極めて高く、絶世の美少年と言って差し支えない。


 胸元にウズラの卵ほどの黒光りする丸い石の付いた首飾りを下げ、肩回りには真白の羽衣がふよふよと滞空している。

 

 腕を交差し無造作に体をほぐす姿からは子供には似つかわしくない色気まで滲んでいた。


「…………」


 海と同じ群青色の瞳で海面を睨むこと暫し、弾かれたように海上へ飛び出し、そのまま海面を駆ける。


 魔法ではない。ただの水上歩法である。


 ヤクトは魔法を使えないのだ。


 浮かぶ羽衣は幼い頃から付かず離れずヤクトと共にあり、自らの意志で操作することはできない。


 それ即ち、物質を分子レベルで自在に操る錬成魔法の顕現ではないということだ。


 右足が沈む前に左足を踏み出し、ヤクトは海上の一点に進出すると、飛沫も上げずに潜水した。


 獲物を見つけたのだろうが、あまり深追いすると小舟まで帰って来られなくなる。


 案の定、待てど暮らせど、ヤクトが小舟に戻ることはなかった。


 馬鹿なのだろうか。育て方を間違えたかもしれない。

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