日を願いし国

「桜」

 告げられた名は、予想外に普通の――ありていに言えば、拍子抜けするようなのものだった。

「嘘つけ、名字も持たない平民が医者になれるかよ。それともあれか、自称ってやつか」

「名前は嘘じゃない。好きに判断しろ」

「そーかい」

 言いながらしかし、曼珠はすでにこの男がヤブ医者の類ではないと確信していた。

 自信のない人間は、挑発されると必要以上に自分のことを喋りがちだ。しかし、この男にはそれがない。医者と名乗る中には優越感どころか、謙遜すら滲んではいない。返答も自然体であり、むしろ説明するのが面倒臭いと思っていそうですらある。


 だからこそ、妙だとも思った。


 ここ、日願国で正式に医師を名乗るには難関と呼ばれる典薬試に合格する必要がある。受験資格に年齢や性別、家柄の制限はない。つまり、法律の上では誰でも医者になれる。

 だが、それは建前上の話。

 合格するには知識が必要だ。そして、この国では金がないと知識は手に入らない。

 膨大な量の書物の購入費、高名な医師に弟子入りをするならば手付金、専属講師をつけるならばそのための賃金。出費をあげ出したらキリがない。

 そして何より必要なのは、学問に集中できるだけの時間的余裕と精神的余裕だ。

 実際問題、毎日の生活すら鬼に怯えて覚束ない平民には、到底不可能なのである。

 こんな若くに合格できるとなれば、相当に裕福な家の出なのだろう。親は大店の主か、あるいは帝都の官僚や同じ医師か。

 何にしても、考えるのも馬鹿らしい。曼珠のような人種とは住む世界が違うことは確かだった。

「それで、お前の名は?」

「嘘つきに名乗る名なんて持ってないよ」

 桜の肩がかすかに揺れる。笑ったようだった。

「まだ疑ってるのか。俺は正真正銘、平民の出だ」

「仮にそうだとしても、国試に合格した平民は性を貰えるはずだろうが」

 それは典薬試に限らず、官僚を決める閣試にしても同じだ。国の名のもとに執り行われる試験に合格することは大変な栄誉とされ、一定の位が与えられる。性など言わずもがな、である。

 食い下がる曼珠に、桜は「なるほど」と呟いて目を閉じた。

「名前はって言っただろ。俺は資格を持ってない。いわゆる無資格もぐりってやつだ」

「……くそ、騙された。やっぱ自称じゃん」

「勉強中ってことで勘弁してくれよ」

 飄々と嘯いた彼は、そこで目を開いた。硝子玉のような青紫の瞳。底の見えない深さに、思わず曼珠は目を逸らす。

「絶対嘘だろ」

「嘘じゃないって。俺は国試を受けれてない」

「なら、今度から医者見習いとかって名乗りなよ。紛らわしい」

 吐き捨て、桜へと視線を戻す。それ以上問答をするつもりはないのか、彼は俯いて草鞋の紐を解いているところだった。

 そのことに、少しだけホッとする。あの瞳は苦手だ。

 これ以上、彼は曼珠の素性を追求するつもりはないようだった。気にするまでもないということか。その余裕が、また癪に障る。

「曼珠」

 名を告げると、ゆるりと桜が首を巡らせる。驚いたように目を瞬かせた表情に陰はなく、素直な反応は存外面白い。

「なに、その顔。あんたが聞いてきたんでしょう」

「いや……渋ってた割にあっさりしてるな、と思って」

 そこで、ふと何かに思い当たったのか桜が目を伏せた。ちょうど彼の足元にも咲いている、似た音を持つ花を連想したのだろう。長い指が、特徴的な細い花弁をそっと摘む。

「偽名じゃないよ。……いや、本当の名前じゃないって意味だと偽名になるのかな。わかんないや」

 花を弄んでいた桜の指の動きが止まった。

「物心ついた時には一人でね。名をつけてくれたのは“鬼灯”の長だよ。同じ色だからってさ。良い名だろ」

 自分で言っておいて恥ずかしくなった曼珠は、照れ隠しに首筋に手をやった。そこで、違和感に気が付く。

「髪……」

 頭の上で結っても優に肩を越えるほどにあった髪が、ばっさりと切られている。思い当たる犯人は一人しかいない。目で問いかけると、桜が小さく頭を下げた。

「あー、すまん」

「……別にいいよ、短い方が動きやすいし。あ、でも結んでた髪紐はどこいったの?」

 もしやあれも一緒に燃やされたのだろうか、という不安が曼珠の胸によぎる。それを悟られるぬように、軽く尋ねたからだろう。特に不審がる様子もなく、桜はついと指差した。示された先は、曼珠の右手首だ。

 見てみると、覚えのある銀糸が編み込まれた中紅花なかくれないの組紐が結えられていた。

「けっこう値が張りそうだから、煮沸で毒だけ落とした」

「へぇ、お医者様は装飾の目利きもできるわけだ」

 安堵を表に出す代わりに軽口を叩き、曼珠は左手で紐を軽く引っ張った。皮肉のように聞こえたのか、桜がもう一度「すまん」と繰り返す。

「勝手に切るのもどうかと思ったんだが、頭とか肩とか縫うのに邪魔だったんだ」

「縫うって、僕を?」

 聞いてから曼珠は後悔した。半眼になった桜が、ジトリとした目つきで淡々と答える。

「てめー以外に誰がいるよ。頭は裂けてるし、腕とか足は捥げかけだわ壊死する手前だわ、挙句の果てにゃ内臓モツまではみ出させやがって」

「うん、ごめん。全っ然覚えてないや」

 あっさりと答えた曼珠は、少し首を傾げた。

「じゃあ、なに。夜通し僕の体縫ってたの?」

の夜にな。むしろその後は誰かさんが散らかした鬼の死体をずっと片付けてんだよ」

「ああ、動物寄ってきたら嫌だもんねぇ」

 鬼、とは特定の生物を指すのではない。

 人を含むあらゆる動物が、鬼の持つ毒に犯された末に狂った姿を指す。苦しみの果てに理性も知性も失い、元の姿とはかけ離れた化物となった鬼は血肉を求め、生者も死者も見境なく襲うのだ。


 そうして鬼に襲われた者もまた、鬼となる。

 死者に安寧は与えられず、生者は夜闇を忌んで生きるしかない。

 それがここ、日願ひがんという国だった。

 国名の由来は定かではない。かつては争いの絶えなかったこの地を、四つの直轄領と八つの自治領に纏めあげた初代皇帝耀明ようめいが太陽を愛したからであるとか、鬼がいとう日の光を民が望んだからだとか、あるいは彼岸を夢見た故の掛詞であるとか複数あるが――どれも憶測の域を出ない。

 確かなのは、この国で人は真の意味で夜を克服できぬということだけだ。

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