頭(ず)のない仏に救いは非ず

 どこか遠くで、幼い声がする。

「曼珠、うそをついてはいけません」

 舌足らずで甲高い、女児の声。

 水晶のような大きな瞳は、いつも恐れもせずに曼珠を見上げてきた。引き合わされた時はまだ八つほどではあったが、さすがは末とはいえ朱華はねず家の姫というべきか、その双眸は強く美しかった。

「お前のうそは、すぐにわかります。いやなことにまで『大丈夫』と笑わなくていいのです」

 おっとりと彼女が笑う。

「お前がうそをつかなくてもよい、そんな主になりますから」


 真っ直ぐで、正直者で、誰よりも純粋だった八番目の姫君。

 自分の、たった一人の主


 目の前で座していた彼女の影が、不意にどろりと赤く染まる。

 まるで絵筆で塗りつぶされるように周囲が暗くなり、燭台の灯りだけが彼女を照らした。

 乱れた着物の裾から覗く白い足。肌を伝う鮮やかな赤。倒れ伏す男の亡骸。

 怯えて泣く少女に手を伸ばすが、触れる直前に彼女の体は無数の紙切れとなり、首だけを残して崩れ落ちる。


『妄言ヲ用い』『尊属殺ノタメ』『世俗ヲ惑ワシ』『市中引回シノ上』


 はらはらと、雪のように紙が薄闇を舞う。


『斬首』

 一際大きな紙の上に、ころりと少女の首が転がった。

 虚に澄んだ目が鏡のように曼珠の姿を映し出す。


「嘘つき」


 吐息のような言葉が、赤い闇に落ちた。



 ◆◇◆◇



 と、そこで曼珠は目を覚ました。


 薄暗い天井と、湿った木の匂い。

 どうやら自分は、どこかの屋内に寝かされているらしい。近くに生き物の気配は無いが、周囲を探る左目の端に人めいた影が引っかかった。ぎくりとして顔を向けると、頭の取れた等身大の神像が倒れている。

 奥に転がっている頭部を見なくとも、左手に宝珠を、右手には錫杖を持っている姿から、何の神かはすぐにわかった。

 安産や無病息災、五穀豊穣などを願うための白母はくも天だろう。数多くの利益を持っているため、大抵の人間が思いつくような願いならばとりあえずこの神を祀っておけば良いという便利な神である。

 本来は手厚く祀られていたようで、彼女が倒れているあたりだけ床が高くなり、祭壇のようになっていた。もっとも、今はその身体には血がこびりつき、首がもげているためご利益も何もあったものではないが。

 神を信じない曼珠にとっては、神像の前に置かれた自分の刀を見つけられたことの方が数百倍は安堵できた。


 とりあえずの脅威がないことを確認し、さらに首を巡らせる。祭壇の反対側は引き戸になっており、わずかに開いた隙間からは晩夏の朝特有の冷たい空気が流れてきていた。

 いや、流れてくるのはそれだけではない。鼻腔に絡んできたのは、何かを焼く煤けたざらつき。

 煙のいがらっぽさに混じる香りには覚えがある。梔子くちなしにも似た、甘い匂い。


 鬼を焼く匂い。


 だから、あんな夢を見たのだ。

 そう考えると無性に腹が立った。鬼を殺せば焼くのは当然とはいえ、一体どこのどいつが焼いているのか。

 怒りのまま床に手をつくと、ひんやりとした冷たさが掌に吸いつく。起きあがろうと力を入れると、途端に思い出したような痛みに全身を襲われ、口から呻き声が漏れた。

 腕、足、腹、頭。もはやどこが痛むのかもわからぬほどに痛い。

 強引に覚醒した感覚の中で、さらに梔子の匂いが強くなる。限界を迎えた不愉快さが、痛みを僅かに凌駕した。

「くそ、が」

 何とか身を捩って身体の向きを変え、這いずった末に柱に縋りつくようにして戸口に手を伸ばす。戸を引いた途端、目を射ったのは朝日の白さだ。

 反射的に顔を顰めると、今度こそ生きた人間が見えた。シャン、という涼しげな音を伴って人影が振り向く。

「驚いたな。もう起き上がれるのか」

 少し掠れた声には聞き覚えがあった。記憶の最後にある、素性不明の男の声に間違いない。

 眩しいのを堪えて再び顔を上げると、声の主と目があった。

 頭上で束ねられた黒髪と愛想の欠片もない涼しげな容貌。なにより目を引くのは、そこだけ夜明けから取り残されたような青紫色の瞳だ。彩眼、と呼ばれる色つきの瞳を持つ者がいることは知っていたが、間近で見たのは初めてだった。しかも、榛や琥珀色ではなく、ここまで鮮やかな色彩を持つ者は滅多にいない。年は、恐らく自分より十は上だろう。

「あんた、誰?」

「命の恩人に対して随分な言い草だな」

 ぶっきらぼうな口調に反し、さほど怒ってはいないらしい。目を逸らした男は手に持っていた鋤を地面に突き刺した。男が動くたびに、硝子を打ちあわせたような澄んだ音が響く。

「命の恩人?」

「そ。覚えてないか?」

「頼んだ覚えはないけど」

 男と会ったことはかろうじて覚えていたが、それ以外の記憶は朧気にしかない。答えながら、曼珠は彼の動きをぼんやりと目で追った。

 男は、焼いた鬼を埋めるための穴を掘っているらしい。

 手つきこそ慣れてはいるが、随分と億劫そうに見える。たすき掛けされた袖口から覗く腕の細さや白さが、余計に辛そうな印象を強くしているのかもしれない。

 手を止めないままま、男がさらりと問いかける。

「お前、”鬼灯”だろう。なんでこんなところにいる?」

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