出会い

 もう何匹目か分からない鬼の首が飛ぶ。数えるのは十五を超えたあたりで止めた。

 おそらくは近くの集落の住人が丸ごと鬼と成ったのだろう。逃げ場のない山中の村ではよくあることだ。

 四つん這いで足に食いついてくる小鬼の頭を踏み潰し、背後から迫ってきた腕を斬り飛ばす。丸太のような、という形容が比喩ではなく事実となる、歪に肥大化した腕だった。

 悲鳴とも言えないような割れた音と共に上がった血飛沫が曼珠の全身を濡らし、視界を歪めた。一瞬、意識が飛ぶ。

 今さら鬼の一匹や二匹の毒は効かないが、さすがに十や二十となれば話は違う。ついでに言えば、ここのところ飲んでいたのが医者の薬ばかりだったので、解毒の効果も怪しいものだ。今ごろ、あのヤブ医者は自分からせしめた金で美味い酒でも飲んでいるに違いない。

 現実逃避に走りかける思考を無理やり引きずり寄せ、目の前に聳える胴体を真横に薙ぐ。馴染んだ感覚が手首に伝わり、目の前で開いた腹からは弾けたように血と臓物が躍り出た。

 腹の中はすでに一部が腐っていたのだろう。少し斬っただけだというのに爆発したような勢いだった。歪に捻れて膨らんだ腸らしきものに正面から顔を強かに打ち付けられ、曼珠は地面に倒れ込む。

 鼻の奥に鋭い痛みと血の匂いが広がったが、腐敗臭がそれを上塗りした。

 顔の上にベシャリと載ったのは、先ほど自分の顔を引っ叩いた臓物だろう。空気を求めて口を開けていたのが災いして、ぬるりとした感触が喉と唇を濡らす。

 腹の奥底から嘔吐感が込み上がってくるが、あいにくともう吐けるものは身体の中に残っていない。ただただ、臓腑を引っ掻き回されるような気持ちの悪さだけが増していく。いっそ、自分も腹の中をぶち撒けてすっきりしたかった。

 そんなことを考えていると、右脇腹に衝撃がはしる。ついで広がった灼熱の痛みに目をやると、白い毛を長く垂らした犬のようなものが喰らい付いている。

 獣毛の間から見えたのは、規則性を無視してめちゃくちゃに飛び出した牙の群れだ。獣が頭を動かすたびに、牙に引っ張られた腹の肉だか皮だかが引き千切れていくのがわかる。

 内臓なかを出したいとは願ったが、こんな形で叶えられるのは真っ平だった。

「……っ」

 左手の刀を持ち上げる余裕はない。引っぺがそうともがいた右腕にも牙が突き立った。

 何か使えるものはないかと辺りをまさぐっていた指先に、冷たいものが当たる。長い。よく分からないまま手の中で回すと、運よく先端が獣の頭に叩きつけられた。

 濁音混じりの鳴き声を上げて、獣が牙を離す。その隙に、今度はしっかりと狙いを定めて頸椎の辺りをぶん殴った。赤い視界の中で、乾いているとも湿っているとも言えぬ、何とも中途半端な音と共に獣の首が捻じ曲がる。曲がった勢いで腕の肉が抉れた気もするが、とりあえず相手は動かなくなった。

「……はっ……ごほっ……げほ」

 息を整え、改めて右手の中のものを見やる。いつの間に背から抜いていたか定かではないが、それは鞘だった。本体よりは軽いとはいえ、曼珠の刀は刀身だけでも三尺近くあるので、鞘もそれなりに重い。

 火事場の馬鹿力とはよく言うが、己の生き汚なさには苦笑するしかなかった。

 ――別に、もう生きる理由も無いのに。

 地面に転がったまま空を仰げば、下弦の月がこちらを見下ろしている。集まっていた鬼も今ので全てだったらしい。静けさが身体に染みた。

「ぅ……ぇ、げほっ」

 咳き込んだ拍子にブレた視界が次に捉えたのは、一面の曼珠沙華だ。元より朱の色を宿していた花弁は、曼珠の記憶にあるよりもさらに赤い。細い花弁の先から、その赤の原因となっている雫が滴っては顔を汚した。

 空に昇る月はあんなにも澄んでいるのに、下界にはいつも血が溢れている。同じまなこで見ているはずなのに全く異なる光景ががひどく滑稽に思え、曼珠は可笑おかしさに喉を震わせた。

 と、その時だ。

 シャン、と赤い空間に音が落ちた。

 明らかに自分がたてたのではない人為的な音色に、一気に血の気が引く。

 迂闊だった。どうして気が付かなかったのだろう。普段の自分なら絶対に気がついた距離なのに。

 曼珠から見て左側。ちょうど顔を向けていた方から下草を割って現れたのは、白い足と擦り切れた袴の裾だ。鬼と同じ、血の気のない肌の色に警戒心が跳ね上がる。

「なんだ、こりゃ」

 だが、呆れとも驚きともつかぬ感情を宿した声には確かに理性が宿っていた。声質からして、まだ若い男のようだ。

 人間だということに一応の安堵はしたが、今度は別の疑念が湧く。この男は何者だ、と。

 普通の旅人が出歩くような時間ではないし、鬼狩りや野盗にしては品が良い。逆光になって男の容貌は判然としないが、背中には大きな葛籠つづらのようなものを背負っている。もしも商人だとしたら、ますますもって胡散臭い。

 男からは、血の匂いがしていたからだ。

 視線に気付いたのか、辺りを見回していた男が曼珠の方へと顔を俯ける。曼珠からはよく見えないが、男からは曼珠がよく見えているのだろう。しばらく無言で見つめられた後、男が再び口を開く。

「これ、全部お前がやったのか?」

 怯えも恐れもない、ただ事実を確認するための淡々とした口調だ。

 見ればわかるだろ、と答えてやろうとして気がついた。

 男の後ろに、もう一つ足がある。

 骨が一部覗いて腐敗した裸足のソレは、男のすぐ後ろに立っている。血の匂いが満ちすぎて、男は気がついていないのだろう。

 いよいよ鈍った己の感覚に、曼珠は舌打ちしたくなった。

 男からだと思っていた血の匂いは、彼ではなく背後のモノからしていたのだ。

「おい」

 焦れたように男が何か言っていたが、役に立たなそうなので遮断する。

 鬼を斬る。それが自分の全てだ。

 反転し、仰向けからうつ伏せの状態へ。獣に噛まれた右腕が千切れそうに熱を帯びるが、構わずに地面を掴むようにして身体を持ち上げる。

 伸び上がると、今度は脇腹に気が遠くなるような痛みが走った。何かが溢れたのが、感覚的にわかる。

 男の頭のすぐ横を掠め、振り上げた左手の刃が彼の背後にいた鬼の頭を真っ二つにかち割った。

 目を剥いてくずおれたのは女の鬼だ。結われた髪がばらりと解け、鬼特有の真っ白な脳に絡みつく。だが、入りが浅かったのか相手は懲りずに腕を伸ばしてきた。その頭を鷲掴んだ曼珠は、勢いのまま思い切りへし曲げる。腐っていることだし、いっそいでやろうかと思ったのだが、予想より弾力があった。それでも左右に捻っていると、ようやく脳との接合が切れたらしい。一際大きく痙攣した鬼から力が抜けた。倒れこんでくる肉の塊を避ける余力は、さすがに残っていない。次の瞬間には、淀んだ桃色が視界を埋め尽くした。

 ぐずぐずに崩れた肉と血に押しつぶされ、おさまっていた吐き気が再び込み上げてくる。息が苦しい。喉の奥につっかえる何かを押しのけようとえずくが、不快感は増すばかりだ。

 新鮮な空気を求めて何とか顔を横に向ける。肉と血に縁取られた視界の中では、鬼の白い髪と曼珠の錆色の髪がもつれあって、地面に奇妙な紋様を描いていた。そこに見覚えのある足先が現れる。

「お前な……」

 呆れたような声と共に、不意に体が軽くなる。一部始終を眺めていた男が鬼の死体をどかしたのだろう。楽になった途端、全身から力が抜けた。

「……、………! ……」

 肩を揺すぶられ、何ごとか呼びかけられているようだがほとんど聞き取れない。

 ただ、一言だけ。やけにはっきりと聞こえた問いかけがあった。

「お前、死にたいのか?」


 ――私らみたいな半端者が、死に逃げなんて楽な生き方できると思うなよ

 ――曼珠、命令です。生きなさい。そして、必ず迎えに来てくださいね


 ぱちぱちと、異なる声で紡がれる言葉が渦を巻く。

 別にいつ死んだって良いのに。それらが自分を死なせてくれない。

 投げ捨ててしまうには、その命令はあまりにも重かった。


 だから、遠くなる意識の中で曼珠は口を動かす。

 生きたい、と。

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